さよならまぼろし

一次創作サイト

斜日の陽は影を伸ばして

西の空が茜色に染まり始めたころ、ぼくはひたすら下を見つめていた。

下を見ながら歩いていると危ないとかいつも胸を張って前を向きなさいだとかよく母さんに言われるけど今はそれどころじゃない。ぼくは今、遠くの砂利道からずっとここまで一つの石を蹴り続けている。家の前がゴールだ。昨日よりも確実に距離が伸びている。いろんな障害物を躱しながら家を目指す。この遊びを思いついてからは毎日これをやっている。一人でできる遊びなんて数えるほどしかない。

もうすぐ家の前だ。ぼくは自然と石を蹴る力が強くなったのを感じていると、さっと黒い影が伸びたのをとらえた。

「よう坊、サッカーか?」

聞き慣れた声であることに気づくとぼくは意識が逸れて足が石を空ぶってしまった。足に当たらなかった石はからからとあさっての方向へと飛んでいった。

「いきなり話しかけるなよ!あとちょっとだったのに」

ぼくがそう言って顔を上げると案の定"そいつ"はちょっと困ったように、それで意地が悪そうな顔で笑っていた。

「悪い悪い。ずいぶん楽しそうなものだったから」

「本当だよ。最高記録が出せそうだったんだからな」

「そりゃお楽しみで」と眉を曲げながら軍帽を被った頭をかく"そいつ"の名前はリーアム・D・アトラリーという。ぼくよりも背が高くて体つきも逞しい。軍人だからだ。日本がポツダム宣言を受諾してからすこし後にアメリカ率いるGHQが日本へと降り立った。アメリカに続いて英国やその他の連合国勢力も英国連邦占領軍とすて日本進駐のためにやって来た。リーアムはその英国占領軍の一員で、ぼくはその一員である父さんの家族として日本で暮らしている。リーアムは陸軍大佐である父さんの部下で階級は大尉だ。元々は中尉だったけどビルマでの戦いで貢献したから昇進したらしい。ぼくはあまりリーアムのことを知らない。リーアムは自分のことを話したがらないし、なんでも軍人はたとえ家族でも任務のことを話しちゃいけないらしい。GHQが日本で色んなことをしているのは知っている。市民による草野球大会だってムコウジマ(空襲の被害を免れた街らしい)とかいうところで行われた祭りだって、あとメーデー?とかいう集団運動の鎮圧だとかGHQが及ぼしている影響は大きい。公道の交通整理だってそうだ。それでもリーアムが具体的に何の仕事をしているのかぼくは知らない。

「相変わらず友達いないんだな」

リーアムはぼくを見てにやにや笑いながら言う。

「日本人でもアメリカ人でも英国人でも何でもいいから作ればいいじゃないか」

「そんな簡単にできるわけないじゃないか。あと日本人はいやだ」

「どうして?」

「ぼくをじろじろ見てくるんだ」

さっき石を蹴っているとき日本人の親子が怪訝そうにぼくを見ていたのを思い出してぼくは眉をしかめた。ぼくが英国人だからなのか日本人、とくに同年代くらいの子どもは決まってぼくをじろじろ見てくる。あんなに穴があきそうなほど見られたら流石に気分のいいものじゃない。

そう言うとリーアムは声をあげて笑った。何がおかしいのかぼくには全くわからなかったのでぼくはますます眉間にしわを寄せた。

「すまんすまん。そんないじけるなよ。そんな寂しい思いしている坊っちゃんに良い物持ってきてやったから、これで機嫌直せよ」

いいもの?さっきまで不機嫌だった気分もリーアムの"良い物"という言葉ですっかり消えてしまった。単純だとは思うけれどそっちの方が気になるのだ。

リーアムは提げていた紙袋から大きくて丸い板を取り出した。

「これが何かわかるか?星座早見盤だ」

そう言われて星座早見盤、というものを受け取った。大きさのわりに重くはなかった。方角や日付が縁に沿って記されていて、その中には獅子だとか乙女だとか海蛇だとか星座の名前がたくさんあった。

「これどうやって使うの?」

「見たい方角と日付を合わるんだよ。そうしたらそこで見られる星座が出されて何があるのか分かるってこと」

こんな物があるのか。薄い板だけど意外と便利そうだ。

「でもぼく星とかよくわからないよ」

「よく知らない人間のための物だろう。いつも下ばっかり向いてる坊もたまには星を見上げたほうがいいんじゃないのか」

「リーアムは星とかわかる?」

「俺はこう見えてむかし天文学少年だったからな。星とか宇宙とか詳しいんだぜ」

天文学少年ってなんだろう、と思いながらもリーアムはいかにも自信げだったので本当のことなのだろう。ぼくはあんまり星とか宇宙とか興味ないけれど見てみたら意外と面白いものなのかもしれない。

「じゃあ一緒に見に行こうよ、星」

「熱烈なお誘いだなぁ」

気軽に言ったようだけどけっこう勇気を出して言ってみた。リーアムは何だかんだ言って面倒見がいいし優しいけれど、あんまりこういう誘いに乗ってくれるような印象がふしぎとなかった。ぼくは思っていた以上にリーアムのことを知らない。

「そうだな。じゃあ今度天気がいい日の夜に行くか」

リーアムはそう言ってへらっと笑う。いつものにやにや意地悪そうな笑顔とは違った雰囲気の笑顔だ。それを見たらぼくもなんだか嬉しくなってつられて笑ってしまった。

「大佐と夫人に許可とらないとな。あとトレーシーに何か言われるだろうしな」

リーアムは引きつった笑いで頬をかきながら言う。トレーシーは父さんの秘書だ。元々軍人志望だったけど身長が低すぎたせいでなれなかったから秘書になったらしい。秘書だけあって生真面目でリーアムだけじゃなくぼくにも厳しい。ぼくもリーアムもトレーシーが実は少し苦手だったりする。

「父さんを説得できたらたぶんあんまり言ってこないよ」

リーアムは「そうだといいんだけどなぁ」と笑った。今度からは空を見上げることも好きになれるかもしれない。そうなることを願いながらぼくは夕陽に染まる地面を見下ろした。そこには、黒い影がふたりぶん伸びているのであった。

 

彼と私の絵空旅行

「億万長者になったら世界一周旅行がしたい」

彼が突拍子もない思いつきを話すのはいつものことだが、"億万長者になったら"だなんて仮定の話を嫌う彼が珍しい物言いをすると思った。さしずめ、世界一周旅行を話題に出したのはこの前貪るように読んでいたヴェルヌの『八十日間世界一周』の影響だろう。しかしそれを指摘してやるのも何だか可哀想なのであえて言わずにいてやる。

「へえ、それはどうして?」

「私はね、この世界のありとあらゆる謎をこの目で見て解き明かしたいんだ。アマゾンの奥地に潜む怪虫や赤道直下の島に眠る巨人、喪われた幻の迷宮に隠された水晶髑髏...想像しただけで胸が高鳴るよ!」

完全にいつか見た映画の影響を受けている。夢想趣味のある彼のことだから仕方ないとはわかっているが、現実と妄想の区別がついてないなぞないだろう。

「アルプスの山々にボヘミアの青々とした草地、サハラの広大な砂漠にアリゾナの荒涼とした峡谷だとか何でもないありふれた街中の喧騒から遥か遠くの秘境まで日常と非日常に潜む謎を見つけたいんだよ私は」

私の考えを察したのかごく真剣な語調で話す。感情の読めない目をしているはずなのに、まるで夢見る無垢な少年のような覇気を感じてしまう。彼の真意など、私が理解できるようなものではないし彼はきっと私に理解させる気もない。これからも理解することなど無理だろう私に彼の隣にいる権利があるのかと何度考えたのか分からないが、いくら問いかけたところでどこからも答えが返ってくることはない。

「そんな顔するなよ」

彼は私のほうへ振り向いて、子供を宥めるように言う。

「もちろん君も一緒さ。世界の秘境をこの目に焼きつけるときも謎を解き明かすときも君がいなくちゃ面白くないだろう」

本来であれば悦ぶべき言葉も、今は残酷な言葉に聞こえる。

「この世界に面白いものがいくらあったって、君が隣にいなかったら退屈で仕方ないんだ」

やはり、彼の真意はわかりそうにない

 

甘えたがりの攻防

「そういえば、そっちの方で少年の面倒を見ていると聞いたが...」

「ああ、ユーリイ。愛称はユーラチカというんだが例の奴隷商から買い取ってな。 我々の任務の補佐として今教育している最中だ」

「それは大変だ。年下の世話はどうだ?やはり聞き分けが悪いか」

「最初こそは心を開いてくれるまで時間がかかったが、今でこそ非常に懐いてく れている。いや、兄弟はともかく家族がいた記憶すらないから試行錯誤しながら接していったんだが、思いのほか情が湧いてしまってなあ。自分でも驚いている。」

「へえ。じゃあ弟みたいな存在ってことだな」

「年が離れた弟だな。いや、これが可愛くて可愛くてしかたない。随分甘えたが

りでな、膝の上にあがらせて撫でてやると喜ぶんだ」

「ん···?」

「毎晩ねだってきてな。私に撫でてもらわないと眠れないそうだ」

「えーと...彼、いくつだったか?」

「...? 14だが」

「14になってその扱いは駄目だろう。小さい子供ならともかく...少年なら尚更だろう」

「確かにたまに遠慮しているようなことはあるが本人が甘えたいようだからなあ」

「......おいおい」

「彼は売られるまで孤児院にいたそうなんだ。物心つく前に両親と引き離されたせいで親からの愛情を禄に受けていない」

「···············」

「私がその親の肩代わりといっては何だが、縁があってこうして一緒にいるんだ。 せめて親の代わりに愛情を注いで、人並みに愛,というものを知ってほしいと思うのさ」

「·····そうか」

「まぁ、でも確かに私のやってることはただのお節介だから寧ろ彼にとって重荷になってしまっている可能性もあるな。」

「ユーラ、おいで。撫でてやろう」

「···············」

「よしよし良い子だ。ユーラ、こうして私に甘えるのは好きか?」

「・・・好きだけど」

「そうか、それなら良かった」

「・・・どうして?」

「いや、今日友人と会ってきたんだがこのことを言ったら『14にもなってそんなことするのはおかしい』と言われてしまってな。子供扱いしすぎなのかと思ってしまってな」

「...............このこと、他の人に言うなよ」

「ああ、悪い悪い。信頼出来る友人だからつい話してしまった。怒っているか?」

「もう話すなよ」

「ああ、そうする。ごめんな」

「...には、人前でやらないのとヒトに言わないでいてくれたら、 別にいい。トーネチカに撫でられるのは好きだから」

「.......! そうか、それなら良いんだ。両親が君にしてやれなかったぶんまで私が甘えさせてやらないとな。素直になったな、良い子だ。ご褒美にキスしてやろうか?」

「そういうのはいい」

「誰も見ていないのに?」 そういう問題じゃない...それはいらない」

「まぁ良いが。何だか寂しいな」

「したいのか?」

「可愛い弟のためなら頬や額にキスなんて容易いな」

「なんだそれ...」

 

悪魔の契約

「君は父親に捨てられたんだ」

平坦とした声が風と共に吹き抜けていく。目の前の男の声色は冷たく感情がこも っていなかった。たった一言なのにその言葉は確かに少年が直面している現実を突きつけるには十分すぎるものだった。

「君の父親は君を生置にして一人逃げたんだ。己の親ながらどうしようもない奴だと思うだろう」

少年の父親を明らかに貶している口振りに本来なら、いや以前までなら少年は目の前の男に対して慣っていただろう。しかし少年は確かに父親に裏切られ、捨てられた。ことを理解していた。少年は父親のことを誉て尊敬していた。ゲー ムキーパーとして立派に働く父親を誇りに思い自身も父親のようになりたいと思 っていた。だが少年を捨て去った父親の姿は少年が知っていた父親の姿ではなく、 全くの別人のように思えた。父親が自分と過ごしてきた時間とは何だったのか、 自分は父親にとって何だったのか。そんな返ってこない答えだけが脳裏を過る。 もはや茫然自失となった少年には父親を憎む気力も憐れむ気持ちも湧いてこなか った。

「どうした、怪物を見て驚いたか」

あの時、少年と少年の父親が見たモノは明らかにこの世のものとは思えない形相 をしていた。今まで生きていて一度も見たことがなく、 普通に生きていれば見るモノではなく、あんなモノがこの世に居ることすら考えないだろう。きっとあれにさえ会わなければ、少年と父親は今まで通り過ごすことができ、少年がこのような状況に置かれることもなかっただろう。

「本当ならこの現況を作った君の父親を連れていくところだが、君の父親はとうにこの場にいない。だから、代わりに君を連れていくことになった」

先程から一言も発していない少年に構わず男は平然告げる。連れていく|ーーーどこへ連れていくのだろうか。 煉獄か、 それとも地獄か。

「言っておくが、 君に拒否権は無い。問答無用で来てもらう」

少年は目の前の男の顔を見るために一度も上げることのなかった顔を上げた。 羽織っている黒いインバネスコートとシルクハットが暗闇に溶け込み、青白い顔が暗闇に一点だけぼうっと浮かび上がっている。

「自己紹介をしていなかったな。私の名はローガン。アッカーソン家で使用人をしている。」

ローガン、と名乗った男はヘーゼルカラーの双眸で少年を射抜くように見つめた。 国民で長身痩察、二十代ほどの男だ。散えて他の人間に見られない珍しい特徴といえば耳が尖っていて悪魔のように見えるくらいだろうか。

「屋敷では君を客人としても使用人としても、勿論主人としても扱わない。自分のことは自分でしなければいけないし、君を温かく迎え入れてくれる人間なんて居ないかもしれない」

少年はローガンの双眸をただひたすらに見つめた。どれだけ見つめようがローガ ンは視線を逸らすこともなく顔色を変えることもない。未だに何を考えているかは分からなかった。

「 君には旦那様の"魂、 を取り返す仕事に就いてもらうよ。 この仕事を勤め上げる自信があると言うならば、歓迎しよう サミュエル」

少年ーーーサミュエルは差し伸べられた手を何も言わずに握り返した。それは悪魔 に魂を売ったかのような生きた心地のしない契約だった。

 

冒瀆的宇宙生物が地球に飛来してきたらしい

さあさあと静謐な音を立てながら立ち上る水柱。

青とても公園の噴水で見られるような光景ではなく、ただその状況に呆然と立ち尽くしていた。

水柱のできた噴水の前に立つのは一人の男。ただ立ち尽くしている少女の前に居るのは、瘦身で背の高い男だった。青年は目を見開かせて屹立している少女を傍目で見やり、両者とも無言のままである。

青すると青年は呆れたように口を開いた。

「貴様っ!見ているなっ!」

「‥‥ええっ!?」

青年からかけられた唐突な言葉に、少女はびくっと肩を揺らして顕著に反応を見せる。 どこかで聞いたことのあるようなフレーズに若干戸惑いながらも、少女は自分が 両手に握りしめている本と、青年を交互に見ながら遠慮がちに口を開く。

「あの‥ここで何をなされているんですか?」

「············」

「その水柱って...貴方がやっているんですか?」

「············」

話しかけても青年は少女から目を離し、返事をしようともしなかった。

少女は冷や汗をかきながらも、本を握っている手の力を込めた。 俯きながらも、また青年に話しかける。

「この本って、貴方のなんですよね...?」

「だからどうした。お前が触っていいものではないぞ。」

「す、すみません...」

青年から発せられた冷血な言葉に少女の顔から一気に血の気が引いた。 それと同時に焦燥感のような、なんともいえない気持ちに苛まれ、内心今すぐこの本を噴水の中に投擲したいほどだった。

「...お前、いつまでそこに居るんだ。」

「あ、貴方こそ此処で何やってるんですか。」

「別にお前が知らなくてもいいことだ。今すぐここから立ち去るが良い。」

振り向かずに話す青年の言葉に、少女はますます忿懣の念を燃やした。

青年は今、呆れ切った表情をしているだろう。

だがそんなことは知らない。そう言わんとばかりに、ついに啖呵をきらした少女は本を持って走りだした。

向かう先は噴水だった。 すると、野球部の二軍ピッチャーよろしく決してちゃんとしたフォームとは言い難い体勢で振りかぶった。

そう、本を噴水の中に放り込もうとしているのだ

「 一ーー!」

突然のその光景に、隣で瞳目させた青年は咄嗟に反射で手を伸ばした。 青年が伸ばした片手はあっという間に少女の細い腕を掴んだ。

すごい力で。

「だっ!あだだだだい!痛い!痛いです!離して!なんてことするんですか!」

「それはこっちのセリフだ、蛸女!」

腕を掴まれて悲痛の声を出している少女に対して、青年はまさに憤怒しているいった様子でただ少女の腕に込めている力をゆるめなかった。

今日は、いつもと変わらない一 日を送っていた。

近隣にある普通の公立校に通う至極普通の女子高生、"神田朝貴"

他の人間よりも少し挙動不審なところを除けば、ごく普通の少女である。今日もいつものように、授業を終え帰路についていた。 朝貴は部活無所属のため、放課後きまって何かをするということもない。

時々、彼女の嗜好でもある読書に耽るため図書室に行くこともある程だった。 だが、今日はいつも同じ一日とはならなかった。

いつも通る通学路に併設されている噴水公園。勿論、噴水はいつも通りだった。

だが、噴水の前にはとある 男"が立っていた。 直立不動をしている"男"の目の前、噴水は一際変わった異様な光景に変貌していたのだ。''男"が右手を翳している先には、噴水の水が異形とも呼べる形になっていたのだ。説明し難い、形容しがたい形だ。水は液体だ。だが、まるで固体と化したような、水柱はとても人間の手でできるような形でなかったのだ。

朝貴は困惑した。その異様な光最に困惑するしかなかった。何だが不思議な気分だった。 それは今まで一度も目にしたことのない風景で、それが視界に入っているだけで 何とも言えない感を感じるのに、目を離すことができなかった。 足に何かが当たったような気がした。下を見ると、一冊の本が落ちていた。焦茶色の分厚い本の表紙に金色の文字が夕陽の光に反射している。魔導書を思わせるつくりだった。

文字は英語圏かとも思った。

だが違う、これは英語などでない。それ以前に見たことのない文字であった。 自分が見たことがないだけで、どこかの国の文字だろうか。

だが文字の形は不気味で、とてもこの世界の中のどこかの国で使われてそうな文字ではない、と不思議と思った。 そして、コンクリートの地面の上には数枚の紙のようなものが落ちていた。本に も何枚か紙が挟まれていた。そして、その散らばった紙は噴水の前に立っている"男"の後ろまで続いていた。ということは、これは彼のものなのだろうか。そう朝貴が考えていると、ふと男"は後ろの気配に気づいたのが、突然こちらを振り向いた。

"男"の顔立ちはとても整っていた。

顔のパーツ一つ一つが端正なつくりで、「眉目秀麗"とはこういうことを言うのだなと想わせた。

背は高く、手足はすらりと長く伸びており、蒼い髪の毛に碧眼と外国人を思わせ

る容貌だった。俗に言う "イケメン"というやつだろうか。

いや、まあ朝貴が言うならば美青年"と言った方が的確だろう。

だが、美青年"は朝貴の存在に気づいた途端、みるみるうちに不機嫌そうな表情に変わっていった。

その表情に朝貴は反射的に肩を揺らして、顔を青ざめた。

そして冒頭回帰。これが今までに至る経緯である。

「で何故俺の本を噴水の中にぶん投げようと思ったのだ?」

先程と場所は変わらず噴水の前。朝貴はベンチに腰を下ろして、顔を俯いていた。

男の手にはさっき朝費が投げようとした本。放り込まれる前に"男"が聞一髪のところでキャッチしたため、 本は無事だった。

だが、 男"は怒っていた。前述のことからそれも当然だろうが、いかにも怒りを隠そうとしないその態度が朝貴を恐怖に陥れていた。朝貴は観念して恐る恐る顔を上げる。

「だ、だって貴方があんな態度とるから...」

「は?」

「ひいいっ...すいませんなんでもないです...」

朝貴が小さく声を漏らすと、そこから俯瞰していた "男。が屈み、朝貴に詰め寄るように声のトーンを低くした。 これは相当怒っているようだ、朝貴はそう感じていた。

「なんか...無意識に体が動いて...そうでもしないとずっとあのままだっただろうし···」

「あのままで良かったはずだ。お前が俺に関わる必要性など全くない。 俺にもお前にも利益などないはずだ。」

男 の冷徹な言葉に朝貴は冷や汗やらなんやら顔から出るものすべてを噴き出している。

"男"の言葉には一句一句、説得力があり威圧感が込められていた。 反論でもすれば、すぐに捩じ伏せられそうな、そんな声だった。

「不快な気持にさせたのなら謝罪します。すみませんでした。 ですけど、あれは何だったんですか?あの、噴水の摩詞不思議な水柱は...」

朝貴の言葉に、 男"の表情は突然膠着した。

擬音をつけるのなら、ぎくり、といった感じだろうか。

とても人間技とは言えない仕業に、彼は自分のことが彼女にバレると感じたのか。

「べ、別に何でもない。あれはただの...」

「もしかして手品師とか?」

「··········」

「不思議な力を持った超能力者?」

「··········」

「それとも、現代に甦った魔術師とか?」

男"は朝貴の問い掛けにすべて黙秘していた。

だが、額から汗をかいているなど、少なからず動揺しているようだった。

その異変に気づいた朝貴は"男" の顔をまじまじと見つめた。

何かを隠しているんですよね?恐らく普通の人ではないことは分かるんですが·····」

「·····ふん。そんなことをお前が知って何の得がある。大体、見ず知らずの人間 に正体など教えてなんの意味がある。」

見下すような冷たい笑みに朝貴は声を詰まらせた。

確かに、出会ってまもない人間に自分の正体を教える者など居ないだろう。 だが、なぜか彼には人間ではものを感じた。

アニメや漫画の影響なんかではないが、不思議とそう感じたのだ。

「知りたいです。あんなものを見てしまった以上、教えてもらえなければ私、夜も10時間しか眠れません。」

「·····それは寝すぎだと思うが。」

真剣な表情でボケをかます朝貴に、 "男"は無表情でツッコミを入れると、その姿を見据えていた。

すると、 "男"はその場から数歩あるいてぴたりと足を止めた。

「そんなに知りたいか。...俺のことが。」

 

「彼と私」シリーズ

 

「優しさなど毒にも薬にもならない」などとどこかの誰かが言ったが、そんなのはでたらめだ。現に、彼の優しさは私にとって"薬"になったではないか。

 

 

いつもあの背中を追い続けている。しかし、ふと目の前にあの背中がないことに気づくのだ。背中ではなく、"彼"がいま、隣にいるということに。気づいていなかった。ずっと"彼"は前ではなく傍にいたのだ。

 

 

彼が求めているのは屈強なゲルマン人の肖像でも高潔なスラヴ人への憧憬でもない。それはガリアの雄鳥でもゲールの駒鳥でもない。彼の底知れぬ野望ともくろみはいつも私が到底はかり得ない領域を飛び越えていき、知識と直感の間を振り子のようにいったりきたりしている。

 

 

「古代中国に"解語の花"という故事があったが」

彼は軒先に咲いた花を見つめながら呟いた。解語の花。言葉がわかる花、転じて美女のたとえだ。名前すら知らないような白い花を見て、なぜ彼が突然そんなことを言ったのかはわからない。

「言葉がわかる花ってのは奇妙すぎるな」

当然だ。そんな花があったら一度見てみたいほどには奇妙なものだ。

「だって花ってのは"物言はぬ"様が美しいのだろう?私にとってのお前もそうだよ」

やはり、彼の言葉の真意というものは一から十まで私には到底理解のできぬものらしい。

 

 

千日紅が咲く季節には 9

 それから翌週、ようやく都内郊外に住んでいるという井出勇子、敏郎の娘さんに会いに行く日になった。

電車をバスを乗り継いで教えてもらったバス停から歩いて地図の通りに閑静な住宅街の中を歩いていく。

示されたところに辿り着くと"井出"と書かれた表札がある家があった。

門の外からインターホンで呼び出すと玄関の扉が開く。中から出てきたのは七十代くらいの女性だった。

「浅海啓太さんですよね?よくおいで下さいました。」

そう言って女性が門を開けて玄関へ案内する。顔からこの人が井出勇子さんだ。

「どうぞお上がりください。」

勇子さんは恐らく七十代後半ほどだろうが年齢よりも若く見えるように思う。ゆったり歩くが腰が曲がっているわけでもなくしゃんとしている。玄関に入る時に少し見えたが庭先は整えられ家の内装も小綺麗だ。感じの良いところだと思った。

客間に案内され座るとお茶が出された。鞄から持ってきたアルバムを取りだす。

「改めて今回はお会いしてくれてありがとうございます。僕は浅海大介の孫の啓太です。突然の連絡申し訳ありませんでした。」

「井出勇子といいます。旧姓は志木で、ご存じの通り志木敏郎の娘です。私の方は大丈夫なので気になさらないで。まさか大介さんのお孫さんから父のことを知りたいと言われるとは思っていなかったので驚きましたけどね。」

「す、すみません…」

「いえ、良いですよ。寧ろ嬉しいくらいです。父のことを話すなんてきっともう無いと思っていたから。」

申し訳思って深々と頭を下げると勇子さんは緩慢とした動きで制止した。穏やかな笑みを浮かべていて先程まであった緊張も少しずつ解れていく。

「それで、啓太さんが父を知ったのは写真からでしたかしら?」

「はい、この写真です。」

アルバムを開いて若き頃の祖父と敏郎が写った写真を見せる。その次に祖父と勇子さんが写った写真も見せると勇子さんは懐かしむようにますます笑う。

「懐かしいわね。この写真。確か母が施設に入って私も近くに引っ越す前に一緒に撮ったんだったわ。」

「覚えていらしたんですね。」

「覚えていますよ、大介さんとは母ともどもお世話になりましたから。」

「…あの、祖父はどういう経緯でお二人と出会ったんでしょうか?」

「大介さんが初めて母に会いに来たのは昭和二十年の終戦の少し前のことらしいです。私はその時まだ一歳だったので記憶はないんですけどね。」

勇子さんは写真よりもうんと笑って話す。なんだか子供のように無邪気な笑顔だ。写真の志木の顔立ちともどこか似ていて本当に親子なのだと分かる。

「大介さんは志木家に父が戦死したという旨を伝えにきたらしいです。」

その言葉を聞いて拍動が速くなるのを感じた。分かっていたこととは言え、はっきり告げられると衝撃を感じる。勇子さんの声のトーンは変わらないが冷房を付けているのになぜか額にじとりと汗が浮かんだ。

「父と大介さんが乗艦していた駆逐艦はその年の春に輸送任務中に米爆撃機の攻撃を受けて撃沈されたらしいです。父は艦が沈む直前まで生きていたらしんですが、沈んだ後はどうなったのか一時安否が分からなかったそうです。でも大介さんが療養中に戦死していたことが判明したらしいです。」

「…………………」

「母が言うには、伝えに来た時大介さんは母と家族に土下座して謝罪したようです。"友の最期の姿を見届けることができなくて申し訳ない"、"自分だけ生き残って申し訳ない"と言ったそうです。」

その言葉を聞いて押し黙る。祖父は志木のことについては"結局どうなったのか分からない"と答えていたが、きっと何かあるのではないかと考えていた。そしたら、まさかこんなことがあったなんて思わなかったのだ。祖父はこの時どんな気持ちだったのだろうか。自分は生き残って、友が死んで。想像を絶するような心境だったのだろう。

「母は父を失ってしばらくはふさぎこんでいたようです。それで大介さんがよく会いに来て色々とやってくれたようです。」

「…そうだったんですね。」

「その甲斐あってか、母も段々元気を取り戻していって父を亡くして二年後に再婚しました。その人は父の両親たち、私の祖父母なんですが新しく義理の息子さんを迎えてその人と母は結婚しました。血は繋がっていませんが、それが今の父です。」

「勇子さんはこの話をいつ冨美子さんから聞かせられたんですか?」

「私が十八の時です。それまでは今の父と血が繋がっていないことは教えられたんですが本当の父のことは一切話がなくって知りませんでした。だから聞かされた時はたいそう驚きましたよ。」

「ということは勇子さんの今のお父さんもそのこと知っていたんですね。」

「そうですね。母も祖父母も隠したりはしませんでした。母もたまに父のことを話してくれたおかげで私も今の父も本当の父のことを色々と知ることが出来ました。」

勇子さんはちゃんと冨美子さんから話してもらったから敏郎のことも知っていたのか。今こうして話を聞けているのも勇子さんが敏郎のことを話してもらったおかげでもし話してもらうことがなければ、自分はずっと敏郎のことを知れないままだっただろう。

「大介さんも本当によくしてくれました。母も私も大介さんに支えられたところが多いですし、三十年前に私たちが遠くの街に移るとわかったらこの街に住むだなんて言うのですから本当に驚きましたよ。」

「…もしかしたら、ここに住むことを決めたのも志木さんのこと忘れないようにするためかもしれませんね。」

「そうですね。きっと…そうだと思います。」

祖父は敏郎のことを隠しながらも、敏郎の死を悔んだり家族のことにまで親身になって支えたり、果てには敏郎の故郷に住むことを決めるだなんて本当に敏郎を大切な友だと思っていたのだと思わされる。そう思うと自分としても嬉しいのだ。

すると、勇子さんが「あ、そうそう。ちょって待ってていただけますか?」と言って客間を出て行った。しばらくして戻ってくると手には小さな箱を抱えていた。

赤と黒の和紙で包まれた文庫箱だ。中を開けると中にはいくつか物が入っていた。手紙、文房具、時計などだ。どれも古びていて時計に関しては金属部分が錆びている。

「これは父の遺品です。父と母が結婚したのは父が出征する数か月前だったのですが、そのころ父が使っていたもののいくつかを今もこうして保管しているんです。」

「志木さんの…ですか。」

不思議な気分だ。こうして敏郎が実際に使っていたものを目にすると本当に彼はここに居たのだと言いようのない喜びがこみ上げる。箱の中の物をしばらく眺めていると、箱の底になにやら紙切れのようなものがくっついていることに気づく。それが気になって勇子に声を掛けることにした。

「すみません、勇子さん。この底にある紙、見てもいいですか?」

「ええ、どうぞ。」

その言葉を聞いて底にくっついている紙を剥がす。そこには短く文章が書かれていた。

"センニチコウ 丘ノ下アルイテ二・七五間"

なにやら暗号のような文章だった。千日紅、丘の下、この単語には身に覚えがあるので敏郎が書いたものであるということであるのは確かだろう。

「変な文章でしょう?母とどういう意味なんだろねってずっと話してたの。」

勇子さんはけらけら笑うが、見当がついている自分にとってこれは自分たちしか分からないように工夫したんだろうと想像できる。丘の下というのはあの空き地の下のことだろう。歩いて二・七五間というのは距離のことだろうか。早速この後行かなければならない。

勇子さんの家を後にしてすぐに電車とバスを乗り継いであの丘へ向かった。

間という単位に関してよくわからなかったためインターネットのツールを用いてなんとか求めることができた。そこまで正確ではないが、恐らく大体のところが分かれば十分だろう。もしかしたら地面を掘り起こすこともあるかもしれないと途中ホームセンターでスコップと軍手を購入した。もしかしたら自宅にあるかもしれないと思ったが、ここから自宅は遠いし取りに帰る時間が勿体ないので多少の出費には目をつぶることにした。

丘にやってくると相変わらず草が生い茂っている空き地がそこにあった。

空き地横の階段を下りてそこから二・七五間、つまり五メートルほど進む。

膝のあたりまで伸びている草を蹴り払って目的地点まで来ると、そこの部分の雑草を軍手をはめた手で引き抜く。大体の範囲を引き抜いてその部分をスコップで掘る。本当にこんなところにあるのかと思いもしたが、取りあえず掘れるだけ掘ってみようと続ける。うるさいほどの蝉の声が耳を劈くなか汗ばむ額を拭いながら掘り進める。

その時、スコップの先にがつんと何か硬いものが当たった。

物が埋まっているところの土を掘って引っ張り出す。それは先程勇子さんの家にあった文庫箱よりは一回りほど小さい箱だった。見た目は黒と赤の和紙で包まれているので恐らく敏郎のもので間違いない。

土でかなり汚れているがそれを払って中を開いた。そこには萎れた押し花が入っていた。アルバムに挟まれていたものと同じような状態で茶色くなって形も崩れてはいるが、花びらからこれが千日紅だということはわかる。

沢山の千日紅の押し花。きっと敏郎が作ったのだろう。この前何となく教えた押し花の作り方がここで活かされるとは思ってもみなかった。

箱の中の押し花を手に取っていると底に紙切れが見えた。先程と同じだ。その紙切れを取ってみると文字が書かれているのが分かった。

"未来へ繋ぐ また会おう"

簡潔だが、力強いメッセージに思わず笑みがこぼれる。ここに埋めたのはあの丘が自分たちが出会った場所だからだろうか。そういえば、あの丘から落ちた時もあの時代にタイムスリップした最後の日に見た千日紅はなぜかそこにあったのだった。未だにあれがどういう意味だったのかは分からないが、もしかしたら過去と未来を結ぶ存在だったのだろうか。

自分たちにしか分からない場所に埋めることで未来の自分に忘れないように、また思い出すようにするためにこうしてこの千日紅を埋めたのだろう。

大丈夫だ、ちゃんとこの先の未来まで繋ぐよ。敏郎が生きた証を絶対に忘れないために。

次はこっちが過去に送り返す番だ。自分も千日紅の押し花を作らなければ。それまでこの押し花はここに置いておこう。

千日紅が咲く季節じゃなくても、この千日紅の押し花さえあればいつでも思い出せる。

萎れた押し花を箱にしまいこんで埋まっていた場所に返す。その時、吹いた風とともにどこからか赤い花びらが飛んできたような気がした。