さよならまぼろし

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碧い眼は美男の証 1

此世は至極理不尽にして不合理な事柄が横溢している。

真善美から悖り、寥落し猖獗をきわめたこの世から人々に見隠されるのは殺人と尾籠な享楽と不貞と怪異で或る。

怪奇とは彼世の此世の境に住い、精神世界を人の眸に見える”形”となって顕現し、夙に時運などものともせずに善悪の境を乱し、人を悪辣と耽溺へ誘うことは異とするに足りん。

就中、此の街で人々に邪な甘言を囁くのは”碧眼の怪物”であった。

碧い眸とは古来より呪いを持つことがあると傳えられてきたが、とかく碧眼は人を魅了せり。

故に人々は庶幾するがままに其れ等への不可侵と己の不利益の回避をせねばならん。”碧眼の怪物”どもは常に人々の起居に鼠の如く入り込み悪事を働く。遵って予知しての回避は不可能であるが遭遇しても尚遁れること能はずも無い。

まず一つ、”碧眼の怪物”どもの”縄張り”を荒らすような真似は決して行ってはならない。すべての”碧眼の怪物”において言える必定である。

二つ、”碧眼の怪物”の正体を穿鑿してはならない。ものどもは甚く出自を知られることを嫌うという。

三つ、”碧眼の怪物”の言葉の真意を知ってはならない。此に於いては前述と同様の理由と言えるだろう。

して最後、”碧眼の怪物”が”狩り”をしている姿を見てはならない。此に於いては偶然その場に遭遇する場合も在り得るのでそうなってしまえばもう諦めるしかない。

其他にも、”碧眼の怪物”はおんなこどもを好んで狙う傾向があるという。ものどもにとって人を瞞着するなど容易いことであるので是非諸君銘銘の眷族たちにも気をつけて頂きたい。さもなくば、いまも諸君を呼び寄せようと深房までもなく榛莽にまで潜んでいるものどもを見逸れてしまうかもしれぬ。

 

 

「倫敦珍奇博物誌」一八九八年五月二十八日発行 第五二号 三〇六頁

『倫敦に潜む碧い怪異』より 著 ブライアン・G・サルキン

 

 

 

 

 此世に心から信じられることなどなにひとつ無いのだと夜さりの通りを駆けながら考える。

不気味な霧のかかった昏い空と石の上を走る度に痛む踵が増々その感情を強くさせる。大通りから外れた狭い路地で人を避けながら無我夢中に走った。春先の冷たい風が頬に叩きつけられ、果てには涙も出そうであった。

フィリックスは自分がどこを走っていてどこへ向かっているのか全く分からなかった。それでもとにかくどこかへ逃げなければならない、と本能のままに駆け出した。ロンドンの街は宵の口であろうと暴漢や追い剥ぎなどの犯罪者が跋扈しているのでいつもは恐ろしくて夜の路地など通れたものではないが、今日ばかりはそんなこと気にする暇さえなかった。

フィリックスの頭の中は糸屑が絡んでいるように複雑に錯綜していた。ただ、善と悪の違いも嘘と真の境目も何もかも信じられなくなっていた。

フィリックスの母はよく清廉さが如何に大切であるかということを繰り返し子どもたちに説いていた。他者を欺かず疑わず、その上人の為となる行いを常に心がけしかし修養と自尊を忘れないことが高潔なフランス人のあるべき姿だとそう言っていた。フィリックスは母の言う通りにそう努められるようしたしそれが間違ったことだとは思っていなかった。しかし今だけはそのような考えも紕繆なのではないのかと、思ってはいけないそんなことが脳裡に過る。そう思うと母が脳裡に浮かび、その次に父の顔がそして鼠算に増えていくように次々と兄弟たちの顔が浮かび上がった。しかし浮かび上がった姿は煙のように天に昇って黒雲の中へ消えていってしまった。フィリックスはますます涙を溜めながらこれまでのことを顧みた。

フィリックスはリヴァプール生まれの中流階級の子どもだった。父は外交官でめったに家に帰ってくることはなかったので余り顔を合わせたことはなかったが、フランス人の母と五人の兄弟たちと使用人に囲まれ、厳しい行儀作法を躾けられながらそれなりに幸せに暮らしていた。しかしインド総督の官吏として現地に赴任する父とそれに付いていった母が、インドに着いて数ヶ月ほどでコレラにかかって死んでしまったのだ。突然の両親の死に残された子どもたちは叔父の家に預けられるが、父の遺産も浪費癖のあった叔父の手に渡り短い間に遺産を賭博で摩ってしまい、あげく莫大な借金を作ってしまった。叔父は借金返済のために子どもたちを知人が経営する工場に働き手として売った。それまで裕福な家庭で悠々と暮らしてきた子どもたちにとっていちばん無縁だった労働という行為は想像するよりもはるかにひどくつらいものであった。工場主からは毎日叱責され暴力を振われ、子どもならば「半日は学校に通わせること」という規則があったにも関わらずそれも守られず朝から晩まで長時間働かされた。とうぜん叔父から金銭的な工面もなければ手紙すら来ず役所から毎月やって来る役人にすら自分たちの現状を告発することも出来なかった。そのような過酷な労働に耐えられるはずもなくフィリックスの兄弟たちは歳が下のほうからつぎつぎ倒れていった。病気に罹っても醫者に診せてもらうこともできず暫くして死んでいった。最終的に残った兄弟は長男であるトレヴァーと次男のフィリックスだけだった。しかしトレヴァーも肺を患い、まともに働けないと判断した工場主から厄介払いされ二人ともセントジャイルズの救貧院に預けられた。わざわざリヴァプールからロンドンに来たのはそこしか救貧院が空いていなかったからだった。

その日生まれて初めて足を踏み入れたロンドンという街は聞きしに勝るひどい街であった。

まず道路が汚かった。雨が降った翌日なんかのまともに舗装されていない道路は塵が散らばり、泥まみれでろくに渡れないほどだった。路頭には物乞いの老人や子どもに溢れ、娼婦なんかも歩いていた。近くにあるテムズ川は茶色く濁っていてひどい臭いがするし、水なんかは飲めたもんじゃない。縹渺と霧のかかった街中は怪物が棲んでいそうなほど不気味でどうにも好きになれそうにはなかった。

救貧院とは名ばかりで、そこには救いも慈しみもなかった。フィリックスは病気のトレヴァーの代わりに救貧院の労働場で、それまで賤しい民族だと見下していた多くのアイルランド人とともに槙机を造る仕事に従事した。しかし其処は前に居た工場とほとんど変わらず、毎日長時間働かされ暴力を振われた。まさに「貧困は努力という徳を怠った者に訪れるもの」だと言わんばかりの仕打ちであった。特にトレヴァーが働けないせいか二人に対する扱いは酷く食事もまともに与えられなかった。そのせいでトレヴァーは救貧院に来てまもなく襤褸布の上で失意と絶望に囲繞されながら死んでいった。フィリックスは何のために故郷を離れロンドンまで来たのかと憤懣やるかたなかった。愛する両親も兄弟もすべて亡くしてしまい、フィリックスはすっかり生きる希望を失っていた。

トレヴァーが近くの教会の墓地に埋葬されて日も経たないうちにフィリックスは年季奉公で泥ひばりの仕事に就かされた。

テムズ川流域の排水溝付近にある干潟で石炭や鉄屑、ロープや骨を拾いそれを屑屋に売る。売ってもたいした金にはならないし、泥さらいをするから一仕事終える頃には全身泥まみれになり臭くなるので決して良い仕事とは言えなかったが、かといってこれ以外に仕事に就けるわけでもなかった。それに一日働けばその日暮らしの金を稼ぐことはできたので満足とまではいかなくとも工場や救貧院よりかはまだましだと言えるものだった。

暫くして年季奉公が終り救貧院との繋がりが完全に絶たれあともフィリックスは泥ひばりを続けた。フィリックスはロンドンでも屈指の貧民街であるホワイトチャペルの一角にある小さい宿舎に住んだ。古びた細い木の棒で支えられた庇のついた粗末で穢らしい家の五帖にも満たない部屋とかつての生家とは比べるにも比べられないほど身窄らしい塒だった。狭苦しい路地には物乞いや行商が犇めき、寄る方なく物乞いをする気力も追い剥ぎをする勇気もない者が力なく路傍に座り込んでいた。泥と砂埃にまみれた薄暗い街中はただでさえ不気味さが漂うロンドンにますます昏い翳を落としていてフィリックスは通りを道行く人々を見るたび自分はとんでもないところまで零落れてしまったのだと痛感した。それでも生きていこうと思えるのは早くして神の国へと旅立ってしまった兄弟たちのぶんまで生きるべきだと思うからであった。しかしそれと同時に自分も家族と一緒に死んでおくべきだったじゃないのか、そうしてまで生きる必要があるのかと消え惑うこともあった。ほんとうなら自分も神の御下に往くべきなのにそのことに銷鑠縮栗するための建前ではないかと思うこともあった。未だにその問いかけに確かな答えを見つけることも出来ないのが真実であった。

フィリックスがまともに生きていられる理由はそれだけではなかった。近くの修道院の院長がときおり食糧を恵んでくれていたからであった。年老いた院長はホワイトチャペルなどの貧民街で霞のような収入に喘ぐ人々に食糧や物資を分け与えていた。フィリックスもお零れに与っていたのだが、彼女の存在は荒んだ心を癒すように彼の心の裡に入ってきたのだった。死んだ母とは似ても似つかなのに血のつながりもない彼女に母を重ね合わせてしまうのだ。

今日も院長が来る予定の日だった。拾ったものを屑屋に売って少しばかりの金を衣嚢に入れて宿舎への帰途に着いた頃、人ひとり入れそうなほどの路地の一角に目が留まった。確かに姿を認めたわけではない。影のような、なにかの気配を感じた。石の壁に黒い斑が亜麻布に沁みが広がるようにじわりじわりと浸食されていくのがわずかに見えたのだ。まぼろしかと目を擦ったがそれは次の瞬間には消えていた。まともに街燈もなく薄暗い路地なので虫を見間違えたのかとも思ったがどうしてかそのことが気になって好奇心と、それと腹の底からせりあがってくるような不安のような恐怖のようなものが電燈に群がる火取り蟲のように引きつけた。

ゆっくりと、ゆっくりと跌を宛がうように歩を進めていく。硬い石道路がその時は泥濘を踏むように重く煩わしく感じた。角から路地の向こう見えると、地面に何かの物体が倒れているのがわかった。はじめに腕が見えた。そこから狭まっていた焦点が離れて画角が広がるとそれが人間のものであることに気づいた。芋虫のように微動だにせずに転がる”それ”に対してとった選択肢は遁げることでも茫然と立ち尽くすわけでもなかった。再び歩を進めて”それ”に近づいたのだ。どこかで本能が”近づくな”と警鐘を鳴らしている気がした。しかし、顔が見えないことがさらにそれを増幅させたのだ。好奇心という名の死神は腹の底で瞬く間に膨れ上がり腹を突き破らんばかりに鎌首を擡げた。見覚えのある姿に見覚えのある修道衣。確認せずとも”それ”がなにであるのかもう分かったことだった。青白い顔に飛び出した眼球、口からは白い泡を吐き出し今にも悪魔に憑き殺されたかのような表情だった。そして修道衣の胸元から胴全体が赤く染まっている。その下に見えたのが幾本か細長い管が糸のように千切れ、其処が爛壊し屑を散らすように放り出されている臓腑であることに気づくのにそう時間を要さなかった。

フィリックスはその場から遁走した。腹の中の死神が鎌で身体を引き裂き這いずり出てきたかのようだった。その場に居てはならないとそう本能が告げた。声も出さず誰にも告げずにただ終着地の無い逃避行を始めた。口の中がからからに渇いたがそんなことも気づかず、噴き出した汗も蒸発するほど駆けた。

あれが何者によるものなのかは分からない。しかし只の人間のやったことではないと思った。黒い繻子の長衣を身に纏い、象牙のような鎌を携え骸の顔をした死神がスティクスを渡ってやって来たのだと思った。流賊のようにロンドンじゅうを倘佯したあと死の薫りを嗅ぎつけてあの院長の命を刈り取っていったのかと、そう思わずにはいられなかった。

―――噫!ホワイトチャペルは犯罪の温床だ。数十年前にも切り裂きジャックと呼ばれた連続殺人犯による人殺しがあったと人づてに聞いたことがあった。ただの殺しなら暴漢の仕業だと思えたかもしれない…。でもあれは暴漢にしては惨すぎる。精神異常者か、快楽殺人鬼か…もしかしたら”人間ではない”のかもしれない!なんてことだろう…ぼくは死神の痕跡をこの眸で見てしまったというのか…。

そこまで考えてなぜ人間ではないモノという考えが浮かんだのか訝しんだが、あの所業を人間がやったとは思いたくないとしか考えられなかった。

畢竟、フィリックスは彼の”空になった棺”を見てただ竦然とすることしかできなかった。臆病だと思われるだろう。さは然り乍ら、彼の場から遁走することこそしかフィリックスにはできなかった。黒い斑が灰色雁の体表のように広がるの見た時点で遁げるのが最善だったのかもしれない。しかしもう遅かった。彼の卑俗と薄暮の街に戻るという選択肢は頭の片隅にも無かった。

どれほど走ってきたのか、路地にいた時は暮れ泥んでいたはずの空が気づいた頃にはあたりにすっかり夜色が現れていた。どれくらいの時間経ったのかも確かにはわからないがホワイトチャペルからかなりの距離を走ってきたことになる。フィリックスは走る足を緩めて後ろを振り向いた。しかし追ってくるような人影はどこにもなかった。爾に安堵し漸くゆっくりと歩き始めた。口渇と息切れを感じながらもあたりを見回す。すると西の方角にセントポール大聖堂が在ることに気が付いて瞻望する。鉛を葺いたドーム型の屋根とその上に立つ尖塔が天へ突き抜けるように聳え立っている。此処からそう距離も離れていないのにいまは彼処が悠遠にも思えた。朧朧とした向こうの空は瑠璃と紺碧が混じったような色で月も出ていない。あと少しもすれば更に夜色が深まり灯りがなければ足元も見えなくなるだろう。宿舎に帰れないとすればいったい自分は何処に行けばいいのかと思った。一歩一歩進むたびにさまざまな思いが浮かんだ。

フィリックスは此処まできて再び自分がとんでもないことに巻き込まれたのだと憂愁した。けっして美禄では無かったがあの工場主や救貧院の労働場よりは良いと呼べる今の状態から脱げだそうともせず、向上心を持とうとしていなかったから神が罰を与えたのか。多くを望んだわけではなかった。しかし其れが許されずこのようなことになってしまった。このロンドンという街は、ほんとうに信義も報恩もなく悪徳と背徳に塗れた街で或る。信じる心を朽ちらせ、足掻こうとする人間は地面に額づいて泥を啜らせられるのみ。もはや何処へ進むのも退がることも悪手に染めるのと同義であった。パクス・ブリタニカなどというエデンは貧民にとって何処にも存在しないのだ。