さよならまぼろし

一次創作サイト

碧い眼は美男の証 5

目覚めると先刻と変わらない蕭々とした部屋の景色が広がっていた。

ベッドに入って、未だ埃っぽい空気を吸った。時計が無いので時刻はわからないが、窓から見える外は真っ暗で朝ではないということがわかる。フィリックスは寝直そうかと瞼を閉じて暫くじっとしていたが、先刻見た夢の内容が甦ってきたせいで目が冴えた。一階に降りて水を飲もうかと体を起こした。体がだるく動かすのも億劫だった。

あんな夢を見たせいなのか、それとも少ししか寝ていないせいなのかは分からなかった。ベッドから下りる時にふと、テーブルに置いてあるマハラジャのゾウに気がついた。フィリックスはついそれが気になってしまったが、深く考えるのもよそうと何にも触れず素通りした。

 

灯りのついた階段を降りて、一階にまでやって来ると玄関の柱時計が一時十五分を指していることを確認した。家の中は人っ子一人いないかのように静謐としていた。グラントリーやノックスは眠っているのだろうかとも思うが、そもそもこの家に居るのかと不思議に思うほど静かだった。しかし、台所に人影が在るのを感じてフィリックスはその考えを改めた。灯りのない廊下の奥にある台所の入口に小さい影がなにやらもぞもぞと動いていた。フィリックスが不審に思いながら近づいていくと、影の主もフィリックスの足音に気づいて振り返った。其処に居たのはフィリックスよりも小柄な十歳ほどの少年だった。

「だれ?」

少年は声変わりのしていない高い声で問いかけた。恐る恐る、と言った感じで暗がりからゆっくりと歩み寄ってきた。灯りの下に晒された少年の顔は不安と驚愕が滲んでいた。

「まさか、幽霊?」

「ちがうよ、生きてるよ」

そう言われてフィリックスは咄嗟に否定をした。幽霊だと勘違いされるのはあまり気分が良くない。この家の者にそう思われるのならなおさらだった。少年はますます不思議そうに首を傾げた。

「でも、ぼくはきみのこと見たことないよ」

「昨日の夜ここに来たばかりだからね。でも泥棒でも幽霊でもないよ」

元は勝手に入ってきたので泥棒のようなものだったのだが、フィリックスは余計なことは言わないでおこうと思った。

「ほんとう?でも、ジェラはこの家には幽霊が出るって言っていたしなぁ」

ジェラ、という聞き覚えのない名前が耳に入ってきたが恐らく他の従業員のことだろうと察しがつく。ここで素性を明かさないと生きている人間だと信じてもらえなさそうだとフィリックスは気づいた。

「ぼくの名前はフィリックス。下働きとして雇ってもらうことになったんだ。いきなり来たから不思議に思うかもしれないけど、幽霊じゃないから信じてくれよ」

「フィリックス?ふーん」

少年はフィリックスをじろじろと見つめ、興味があるのかないのか分からないような返事をした。未だ幽霊だと疑っているのかもしれない。うんうんと頭を揺らすたびに少年の褐色のくせっ毛も揺れる。少年は丸い輪郭に大きな群青色の眸、小麦色の頬と愛らしく快活そうな顔立ちをしていた。本来なら子どもが起きている時間帯ではない。少年も紺色の寝間着を着ているので寝ていたか、これから寝る気があるのだろうがとても様子からはこれから眠るとは思えないほど溌溂としていた。

「それで、きみの名前は?」

「ぼくはユージーン。皆からはジーンって呼ばれてる。ぼくもれっきとしたここの従業員さ」

「へえ、きみも働いているのか」

「そうだぞ、ぼくも立派な”碧眼”だからな!しかし、きみの眸は碧くないんだな」

「うん。だから下働きなんだけどね」

「だろうな!」

それを聞いてユージーンはけらけらと愉快そうに笑う。悪意は無いのだろうがあまりに素直に毒を吐かれたものだからフィリックスは少々面喰った。子どもらしく純粋な少年なのだろうと思った。

「でもさ、ジーン。こんな時間に起きていていいのかい?」

「ほんとうは駄目だよ。でも、眠れないんだ」

「へえ、それはどうして?」

「お腹が空いたんだ」

ジーンは腕を供み、真剣な面持ちで告げた。それを見て、フィリックスはかつての自分を見ているような気分になった。泥ひばりを生業にしていた時は夜中に腹が空いても食べるものは何もなかった。毎夜空腹を我慢しながらベッドに潜り込んでいたので、フィリックスはジーンの気持ちがよく分かった。腹が空いて眠れないというのは自分たちの年頃なら仕方のないことだ。さも重大なことのように言うのも大袈裟ではない。

「台所にいたのはそれで?」

「うん。でも何にも無かったよ。たぶんセドリックがルイスに言われてぼくが見つけられないところに隠しているんだと思う」

「セドリック?ルイス?」

「セドリックはうちの店のコックのこと。ルイスはけちな兎人間のことだよ」

またしても未だ知らない従業員の名前が出てきたので訊ねると、ユージーンはつまらなさそうに眉を曲げて吐き捨てた。セドリックはともかく、ルイスという従業員のことがフィリックスは気になった。

「兎人間ってどういうこと?」

「ルイスは頭が兎なんだ」

「どういうことだよ。人間だろ」

「そうだけど、ルイスは兎人間なんだ。だけど兎みたいに可愛くはないけどね。ぼくのことすぐ怒るし、時間通りに寝ないと凄い顔するし、お腹空いて眠れないって言っても聞いてくれないし」

「寝る時間は仕方ないよ。子どもなんだし」

「ぼくはもう十二歳なのに!」

「まだ十二歳だろ」

「きみだってぼくと大して変わらないだろ?」

「ぼくは十四歳だ。十二歳と十四歳はちがう」

「二歳しか変わらないじゃないか」

「そこはまぁいいじゃないか。それにしても、そのルイスっていう人は厳しいんだね」

「くどくど言ってくるから嫌いだよ。ルイスもきっと、ぼくのことが嫌いなんだよ。顔が兎だからぜんぜん恐くないけどね」

「そうなのかなぁ」

ユージーンの言葉から、ルイスがユージーンに対して厳しくしているというのはわかったが、結局頭が兎とはどういうことなのかは分からなかった。明日にでもなれば直接会えるだろうから良いかとフィリックスはそう思うことにした。

「ルイスだけじゃないよ。サーグラントリーも、ミスターノックスも寝る時間には厳しいんだ。サーグラントリーはまだ優しいけど、ミスターノックスはそういうことにはうるさいよ」

ユージーンは指で両目を吊り上げながら言った。ノックスの真似をしているのかと思ったが、狐のような細い目は似ても似つかないなと胸の裡で笑った。そしてフィリックスは、グラントリーのことを《《サーグラントリー》》、ノックスのことを《《ミスターノックス》》と呼ばなければならないということを学んだ。

そこで二階から足音がしたのが聴こえてきた。小さな音だったがユージーンはそれを聞き逃さなかったようで途端に素っ頓狂な声を挙げた。

「あっ!もしかしてルイスかも!」

「そうなの?」

「知らないけどね。ぼくはもう戻るよ。おやすみ」

フィリックスが「おやすみ」と返すと、慌てた様子でユージーンはフィリックスの横を足早にすり抜けて階段を駆け上がっていった。先刻聴こえてきた足音ももう聴こえなくなっていて、再び家の中は静寂に包まれた。

年相応に無邪気だが不思議な少年だ。しかし彼が居ればいくらかこの店で働くのも辛くはないだろうなとフィリックスは思った。グラントリーに見つからないうちにさっさと部屋に戻ろうと、台所へ入っていきながら。

 

 

 

天井に向かって吐いた煙を見上げた。

窓から覗く外は暗く、街の灯りが弱弱しく点在している。スコットランドヤードに異動してきた時に持ち込んだ、年季の入った揺り椅子を揺籃のように動かしながらウィンザーは思案に暮れていた。長身で恰幅が良く、顔立ちのくっきりとした見目のせいか歳を重ねるごとに威圧感が増していて、若い刑事からは敬遠されることも多い。只座って考え事をしているだけでも辺りを牽制しているように見えた。こうして一服しながら揺り椅子に座って思案するのもある種の習慣となっていて、刑事課ではおなじみの光景である。

「警部。ホワイチャペルでの目撃情報が入りました」

部屋に駆け込んできた刑事によって思案は中断させられた。まだ一年目の新人刑事、ストラスは若干息を切らして顔が赤くなっていた。ストラスはウィンザーと真逆で、警官の割に細身で柔な印象を受ける見目をしている。ウィンザーは近くにあった灰皿に吸い殻を押し付けながらストラスに続けるように目配せをすると、ストラスは慌てた様子で背広のポケットから手帳を取り出した。

「今日の六時頃にホワイトチャペル通りで修道院長の女の遺体が発見される前に少年が走り去っていくところを近くに住む娼婦が目撃したようです。少年が走ってきた方向は女の遺体が見つかった路地からで、ずいぶん焦っている様子だったようです。遺体を発見した可能性が非常に高いです」

「その少年の年齢は?」

「十代前半ほどのようです。近隣の住民によると泥さらいの仕事などをして生計をたてていたようで、家族も居らず一人で暮らしていたようです」

「少年の家には行ったのか」

「はい。行ってみましたが蛻の殻でした。恐らくあれから帰っていないのかと」

それを聞いてウィンザーは椅子の背に凭れて、髭が蓄えられた顎を撫でる。ウィンザーが考え込む時に決まってやるポーズだ。

「手口といい、時間帯といい、今回も”あれ”の仕業で間違いないな」

「そうですね。心臓だけを抉り取る殺し方するなんて、なかなか無いでしょう」

最近ロンドンでは正体不明の連続殺人が起きている。一度目は三月五日にハイドパーク内で二人組の男女が殺された。二度目は三月十二日にウォンズワースのサウスフィールズで物乞いが殺された。そして三度目は今日、三月二十七日にホワイトチャペルで老修道女が殺された。時間帯はどれも日没頃で、殺害方法は刃物のような物で胸部を抉り、この一連の事件がいかに残忍であることを物語っているのが”総ての被害者に心臓が無い”ということだ。犯人は殺した人間の心臓を奪って逃げているということになる。これまで類を見たことがなく、奇妙な事件だ。一月以内の短期間で起こっているため、これらの事件は同一犯によるものだと推察されていた。

「それにしてもわからんな。三月五日、三月十二日、三月二十七日と不規則な間隔で起きている。ハイドパークからサウスフィールズは南に七マイル、サウスフィールズからは北西に九マイルも離れている。一定の範囲ならともかく、なぜこの場所を選んだのかも不可解だ」

ウィンザーが呻るように考え込むと、ストラスは自身のトラウザーの端を引っ張りながら考える素振りをした。これはストラスが考え事をする時に決まってする癖だった。

「特に意味なんてないのでは。被害者も狙っていたわけではなく無差別でしょうし。無計画な犯行でしょう」

「それにしてはずいぶん鮮やかなものだな。未だに犯人らしき人物を見かけた人間すらいないとは。手慣れているな」

「ですが、犯人に関してはこの前のサフロンヒルでの目撃情報があったでしょう」

五日ほど前にサフロンヒルのイタリア人街(リトルイタリー)で深夜、怪しい男が走り去っていくのを目撃したという情報が入ってきた。その男が走り去っていった方向の道路にはいくつか血痕が残っていたという。同日未明には街中の精肉店から卸したばかりの豚と鶏が全て盗まれたという被害が届いた。

「おい、あれは関係ない別件だろう。単なる豚泥棒によるしわざだろう」

「しかし目撃者による証言では、男が走り去った時に黒い靄のようなものが立ち込めたらしいのです。肉が腐った臭いもしたとか」

「豚や鶏を盗っていったなら臭いがするのは当然だろう。黒い靄は気のせいだ」

「男は荷物を持っているようではなかったようですよ。まさか、豚や鶏をその場で食べたわけでもないでしょう」

「単独犯による犯行だとも断定できん。複数犯で、目撃証言を作るためにわざとそのうちの一人が姿を見せたのかもしれない」

ストラスは返す言葉が見つからないのか気難しそうな顔で咨嗟した。確かにサフロンヒルでの目撃情報も不可解ではあったが、その男が一連の殺人犯と関係があると断言できるほどではない。

「明日もう一度少年の家に行くしかないな。もしかしたら事件の重大な手がかりとなるかもしれん」

「そうですね。現在も少年の行方を捜索していますが、未だ判明していないので行く必要はあるでしょう」

ウィンザーはデスクに置いているシガレットケースから葉巻を取り出す。灰の溜まった皿には何本もの煙草が吸い捨てられていた。ウィンザーはこの事件を解決するまで一体何箱煙草を消費するか考える。それと同時にある言葉が脳内に浮かぶ。かの有名な”切り裂きジャック”が初めてロンドンに現れてからすでに二十年以上経っている。この一連の事件もどこかそれに似ている。”切り裂きジャック”のように未解決のまま終わらなければいいが、なんて考えるのはあまりにも他人事のようかとウィンザーは失笑してしまった。

「警部、どうかされましたか」

それを見ていたストラスが不思議そうに訊ねてきたので、平然と笑い返した。

「なんでもないさ。それより、課長への報告は済ませてきたか」

それを聞いて今思い出したのか、焦った顔をしたストラスに早急に報告してくるよう促した。