さよならまぼろし

一次創作サイト

碧い眼は美男の証 6

朝目が覚めると、フィリックスは慌てて支度を始めた。

ベッドの中でしばらく昨日のことを思い返していたが、自分の仕事のことを思い出してゆっくりしていられないと気づいたからである。時計が無いので今が何時なのかは分からなかったがもし遅れたら大変だ。ユージーンと話した後、キッチンで水差しに水を汲んでそのまま部屋に戻り、寝たのだったが存外フィリックスはすぐに寝つき、たっぷりと熟寝をしたのだった。

何時間も通して寝たわけでもないのに今までの疲れがすべてとれてしまったかのように体が軽かった。仕事があるというのにむしろ寝すぎてしまったと思うほどだった。フィリックスは着替えて身だしなみを整えると、ベッド横のマハラジャのゾウにも目もくれず、変わらず埃っぽい屋根裏部屋を出ていった。

階下にある洗面所で顔を洗い髪を濡らして寝ぐせを直したあと、キッチンに入った。昨日グラントリーからは”七時には下りて来るように”と言われていたが、先刻玄関の柱時計を見たら七時ちょうどだったのでなんとか約束の時間に間に合わせることができた。

しかし、フィリックスはキッチンに入って仰天した。”兎”が其処に居たからだ。只の兎ではない。頭部が兎で、頚から下が人間の所謂”兎人間”だ。フィリックスは暫くそれを見て静止していたが、夕べユージーンが言っていた”兎人間のルイス”が彼だということをようやく合点がいった。彼の傍にはグラントリーも居り、白布の上に銀食器や磁器が並べられていた。グラントリーが顔を上げてフィリックスに気がついて声をかける。

「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」

「はい、おかげさまで。すっかり疲れがとれました」

「それなら良かったよ」

碧い瞳の兎からの視線を感じながら、フィリックスはなんとか平常を保って答えた。不気味なほどリアリスティックな巨大兎の頭部を初めて見たせいもあり、出会って数秒の兎頭に慣れるのはなかなか根気がいりそうだと思った。それが青玉のような精巧な瞳のせいなのか、表情の変わらない貌のせいなのかはわからなかった。

「フィリックス、彼を見て驚いただろう?」

グラントリーは笑いながらルイスの方を見て言った。素直に認めるのはなんだか心地が悪かったが否定するわけにもいかなかった。

「は、はい」

「彼の名はルイス。ちょっとばかし恥ずかしがり屋でね。被り物をしているんだ。仕事のことはルイスが教えるから、わからないことがあれば彼に訊いてくれ」

グラントリーの顔はいつになく笑っており、フィリックスは居た堪れない気持ちになった。すべての仕事のことをグラントリーから教わるというのは不可能かもしれないが、ルイスから教わるという気にはどうにもなれなかった。ルイスは先刻から一言も発していないが、ひしひしと圧のようなものを向けられていることがフィリックスは分かった。

「朝いちばんの仕事はぼくの部屋に来て支度の手伝いをしてもらおうと思ってるんだが、それは明日からだ。今日は従業員たちの朝食の準備をやってもらう。そのあと開店の準備だな。仕事はたくさんあるから、ちゃんと覚えるんだよ」

フィリックスははい、と返事をした。グラントリーの諭すような言い方にいつか教会で聞いた牧師の説教を思い出した。

「じゃあぼくはおもての方を見てくるから。ルイス、あとは頼むよ」

グラントリーがキッチンを出ていった後、その場に取り残されたフィリックスとルイスの間に奇妙な空気が流れる。暫し顔を見合わせて(フィリックスはルイスと目線が合った気はしなかったが)沈黙した後にルイスが口を開いた。

「朝食の準備を始めるが、朝食と昼食は各々で取るからそれぞれのものを用意する。一同で食事をするのは夜の正餐(ディナー)の時だけだ。日によってサパーの時だったりディナーの時だったりと変わるので覚えるように」

フィリックスはルイスの堅苦しい言い回しに眩暈を覚えた。声質はまったく違うが、話し方はノックスとどこか似ていると思った。ノックスのようにルイスに苦手意識を持つようになるの何だかきまりが悪かった。

「まずは紅茶の淹れ方を教える」

そう言いながらルイスは銀食器に亜麻布をかけてから茶葉缶とアルコールランプ付きのティーケトルとティーポットを取り出した。ティーケトルに水を入れた後、燐寸でつけた火をアルコールランプに付ける。

「客前に出す時は純銀製のティーケトルやティーアンを使う。淹れる手順はどのような場合でも同じだ。大事なことは良い茶葉は惜しまず使う、最初に沸騰させた湯をティーポットに注ぐこと。じゃないと薫りもない色もない味もないものになってしまうからだ。温まったらポットの湯を捨てる。」

沸騰させたティーケトルの湯をティーポットに注ぐと、白い湯気がむくむくと上った。暫くしてティーポットのお湯を捨てて、ルイスが「茶葉は人数分ともう一杯入れるんだ」と言いながらドザールで七杯分の茶葉をティーポットに入れてケトルの湯を注ぎ入れて蓋をした。毎日淹れているであろうルイスの手つきはずいぶん小慣れたものだった。フィリックスも昔、使用人が淹れていたが詳しい手順などはよく知らなかった。

しかしルイスの、まるで絹織物を縒り合わせるような繊細な手つきに思わずうっとりしてしまうほどだった。

「お前、空き巣に入ったんだってな」

すぐ傍でルイスから囁くように言われてフィリックスは肌が粟立った。先刻までの恍惚とした気分が一瞬で醒めて冷や水をかけられたような心地がする。ルイスの言葉を数秒かけてようやく理解できたのだった。

「まさか泥棒を下働きに雇ってやるだなんて、サーグラントリーは何をお考えなのかと思ったさ。お前貧民街(ルーカリー)の奴だろう?おかしなことをしでかすんじゃあないぞ」

ルイスが責め立てるようにフィリックスに言った。盗みをするつもりで入ったわけではなかったにしろ泥棒だと思われてもしかたないので言い返す気もなかったが、見下されているようでフィリックスは気分が良くなかった。

「どうせサーグラントリーはお前を厚意だけで雇ってくれただけだと思っているのだろう。しかし優しさだけがあるのだと思うんじゃないぞ。お前は金の卵を産む鵞鳥だからお前を此処に置いてやっているのだということを勘違いするなよ」

碧い兎眼に見つめられて思わず体が硬直してしまう。粗削りの論理は突けばぼろが出るが、真理の裏の裏をかいても盲点は生まれない。答えの書かれた紙を丸めてその穴を覗いても見えるのは虚空だけだ。フィリックスはルイスの言っていることが端的に理解することはできなかったが、ルイスの言いたいことが紙に書かれたことだということはわかった。紙を広げる方法は知っているのに紙に書かれているものを見つけることができない。その答えの意味を考えてみても”ややこしく”なりそうだからやめようと思った。糸が細ければ細いほどからまりやすいということをフィリックスは知っていたからだった。胸の裡で秘かに観念して、おそらく時間が過ぎてすっかり蒸らされたであろうポットの中味を思惟した。

ルイスはフィリックスに概ね一通りのことを教えると早々に他の仕事があるとキッチンを出て行った。開店前だしずいぶん忙しそうだったので大変なのだろうとぼんやりと思う。食器を磨いたり応接間を掃除したりなど色々と客を迎える準備をしなければならなかったが、ひとまず従業員たちの朝食を準備することから始めることにした。

ルイスが言うには開店するのは十時か十一時ごろなので従業員たちはそれまでに各々好きな時間帯に起床して朝食をとるという。食事内容も時間もばらばらだが、食事は全員似たようなものばかりなので適当に出しておけばいいと言われていた。フィリックスはルイスに言われたチーズやパン、ポリッジ、紅茶、ココアを用意する。ポリッジは今朝の作り置きなので冷めれば温め直せばいいし、紅茶やココアも飲みたいものが各々淹れればいい。しかしパンは置いたままだと湿気て硬くなったりして風味が落ちてしまう。一同揃って朝食をとるなら焼きたてを食べることもできるというのに、とフィリックスは内心独り言ちる。

ふと意識が外れて顔を上げると、背後から感じる”気配”を再び感じとってしまい胸がきゅっとなった。背後で芳ばしい匂いをさせているのは昨晩ユージーンが話していた例の料理人、セドリックだった。黙々と調理するその後ろ姿は調理というよりは細工師の作業のように見える。ルイスと入れ替わるようにキッチンに入ってきたセドリックに、少々面喰いながらもフィリックスが自己紹介含めた挨拶をするとセドリックは黙って頷いただけでにこりともしなかった。仮面のような動くことのない顔貌、大きな体、目尻に皺の寄った中年男ということぐらいしか読み取ることはできないがそういった要素が集まるだけでこんなに威圧感が出るのかと思うほどだった。声すら出していないというのに同じ部屋にいるだけで息が詰まりそうな思いをするが、むしろ何を考えているのかわからないという怪しい雰囲気が威圧感を増長させているのかもしれない。しかし慣れてしまえば、意識しなければなんてことはないと思ったが一度意識するとやはり息が詰まりそうになったので、フィリックスはパントリーに食器を交換しに行こうとトレイを引っ掴んで逃げるようにキッチンを後にした。

ようやく重圧感から解放され軽くなった足どりでパントリーへ続く廊下を歩いていると、向こうにある裏口の扉が開いた。思わず身構えて足を止めると、入ってきた人物はフィリックスを見て眉を顰めた。しかししばらくするとやんわりと笑いかけた。

「君か、サーグラントリーが言っていた新人というのは。ええと、名前は、」

少々反応に遅れながらも「フィリックスっていうんだ。よろしく」と答えたが、そうなったのもその人物の姿に驚いたからであった。フィリックスよりも少し年上の青年だが、その顔立ちは目を見開くほど端整だった。端整と表現するのが適切かはわからなかったが、フィリックスはそれ以外の言葉で言い表せなかった。もう一つ言葉を付け足すとすれば”不気味”でもあった。まるで鑿と金槌で彫りこまれたかのように目許も鼻も頬も線がくっきりと浮き上がった顔だ。顎と人中も鑢をかけたようになだらかな稜線を描いている。肌は新雪のように真っ白だった。これで何の表情もないならまだ不気味ではなかったが、青年の笑顔は貼り付けたような空虚さがあった。不自然さはないのにむりやり作られているかのような表情にフィリックスは寒気を感じられずにはいられなかった。色と顔立ちのせいで石膏像が動いているようだな、と思うのだ。フィリックスがじろじろと見つめていたせいか青年は訝し気に顔を歪めてたので慌てて視線を外した。視線の先で青年が何かを持っていることに気づいた。新聞だ。先程までは顔に意識がいって気づかなかったらしい。

「俺はジェラードだ。よろしく頼む。仕事のやり方はもう教わったか?それともこれから?」

「ミスタールイスにおおまかには…」

「そうか、分からないことがあれば聞いてくれよ」

ジェラードのインディゴ(藍色)の瞳が眇められる。容貌に対する違和感は拭えないでいたが、ルイスの時と同じようにこれもじきに慣れるだろうと考えることにした。ジェラードはフィリックスの手許にあるものに気づくと大股で歩み寄った。

「これパントリーに持っていくんだろ?手伝うよ」

そう言うとフィリックスの返事も聞かずに抱えていたうちの一つを持って足早に歩いていく。思わぬ強引さに少し気後れしていると、ジェラードがさっさとパントリーの中へ入っていってしまったのであわてて後を追った。棚の抽斗を開けて敏捷にカトラリーを取り出していくジェラードの動作を見て、人を置いていくことといいフィリックスはせっかちな男だという印象を覚えた。

「初日の朝早くか仕事とは大変だな。人手が増えたのをいいことにミスタールイスに押し付けられて災難なもんだ」

「これくらいのことはどうってことないよ。前の仕事よりはましだろうと思うしね」

「前は何やってたんだ」

「泥ひばり」

「川で鉄屑とか拾って売るやつだよな?じゃあお前、”運”が良かったな」

ジェラードに抽斗からカトラリーを取り出そうとしたフィリックスの手が止まる。部屋の外気に触れてひんやりとしている金属の感触がやけに鮮明に伝わってきて指先が一瞬ちかっとした痛みが走った。

「運?どうして」

横から感じる視線を無視してカトラリーを取り出した。掌で掴んだカトラリーはやはり冷たかった。

「塵集めよりどう考えてもこの仕事のほうが待遇も環境も恵まれてるだろ。偶然でもサーグラントリーに雇われたお前が幸運だったことは間違いないよ。これも”運の巡り合わせ”なんだよ」

フィリックスはジェラードの言い回しに”めまい”をおぼえた。確かに泥ひばりをして得たなけなしの金でその日暮らしを続けていくよりは最低限の衣食住が保証されているこの仕事のほうが幸せにほど近い環境だと言えるだろうし、必死の思いで差し伸べられた手に縋りついたことを後悔していないと思っていた。しかし、ジェラードのいう”幸運”だという表現はどこか胸の奥で蟠るような気がするのだった。己が抱いている気持ちを”幸運”と言い換えられないとも言えないというのになぜ納得できないのか不思議でたまらなかった。それでも理由は分からずともその言葉を己の胸の裡には駄目だという警鐘が鳴るのだ。

ふと手が止まっていることに気づいてフィリックスはトレイにカトラリーを並べた。暫く握りこんでいたせいで金属にじんわりと温かくなっていた。

「塵集めは大変だったろ」

「大変だったよ。川は臭いし大したものは落ちてないし塵ばっかりだし…金にはならないし」

「臭いか。そうだな、今も臭いけど昔はもっと臭かったからな。糞尿やら塵やらで夏なんかは特に悪臭がひどくてな、近寄るのすらためらうくらいだった」

「そんなに?今よりもっとひどいなんて想像できないな」

「今は下水道が整備されてるからな」

「それは何年前くらいのこと?」

「四十年ほど前だな」

フィリックスが生まれるずっと前のことだった。フィリックスにとってテムズ川が汚いことは鴉の糞が臭いのと同じくらい当然のことだったが今よりもっとひどかった時代のことを考えると昔に生まれていなくてよかったと思わざるを得なかった。

フィリックスがカトラリーを交換し終えて、トレイを持つとジェラードが慌てて傍のテーブルに放っていた新聞を小脇に抱えた。

「ちょっと待ってくれよ。俺、新聞持ってるから脇に挟むと落ちそうになるんだよ」

そういえばジェラードが先程まで新聞を持っていたことを思い出した。

「毎朝きみが新聞買いにいっているの」

「そうだな。特別誰が買いに行くとか決めているわけじゃないけどさーグラントリーとミスタールイスの次に早く起きるのは俺だから、俺が買いに行くことが一番多いな」

「新聞売りがいる大通りまでわざわざ行くのは大変そうだ」

「それはそうだけど、これは毎朝の楽しみでもあるからそんな面倒なことでもないな」

パントリーを出て、肩を並べて廊下を往く。ジェラードは肩先でフィリックスを小突いて愉快そうに笑った。

「お前は新聞読むか?新聞は面白いぜ。最近はすっかりロンドンも昔に比べておとなしくなったと思ったが、意外と捨てたもんじゃない。最近はほら、あんな”胸躍る”事件もあったしな」

「胸躍る事件?」

“事件”という単語を聞いてフィリックスの脳裡にあの光景が過った。ジェラードの表現にひっかかりもあったが、あからさまに動揺するのもおかしいと思い声が上擦るのを気にする。

「今月に入ってハイドパークとサウスフィールズで立て続けに起こった殺人事件だよ。またたく間に民衆の注目の的だ。なんせ殺された人間は全員胸を抉られて心臓がなくなっていたんだからな」

昂奮したように話すジェラードに反してフィリックスの脳は冷えていくのを感じた。

黒い沁み、青白い顔、飛び出した眼球、崩れ落ちた臓腑―――時が経ちすべては夢であったかのように感じていた昨日の出来事が次々と思い出される。二度も思い出したくないことであったが、瞼の裏に焼きついた光景を頭から追い出すのは容易なことではなかった。

昨日見た死体も心臓が無かった。ホワイトチャペル以前に二か所で似たようなことがあったというなら同一犯の可能性が高い。

「それに昨日の夕方にホワイトチャペルで新たに起こったらしい。四度目だ」

その言葉に返す言葉が浮かばず黙り込む。