さよならまぼろし

一次創作サイト

自由への渇望 1

 何もない空間がそこに広がっていた。

そこが何なのか、何があるのかもすべてわからなかった。ぼやけていた視界がピントを合わせると乳白色の空白が広がっていることだけがわかった。

一点を見つめていると体が浮遊しているような、肉体がそこから離れているような気がした。魂だけが離れてそこらじゅうを彷徨っているような、そんな気がするのだ。しだいに、靄が晴れていくように思考が明瞭になった。肉体から離れていた魂が宿主に帰り、その魂が最初からそこにあったように合致する。

ここはどこなのだろうか。なぜここにいるのだろうか。そんな思考が頭の中に浮かび上がる。眼球を動かしたが左も右も変わらずカマンベールチーズを溶かして塗りたくったような乳白色しか広がっていない。そこで片側からなにやら光を感じた。ガラス窓から陽光が差し込んでいた。そこらじゅう白一色のせいで陽光を反射し、そのほうを見ようとすれば眩くて目を逸らしてしまうほどだった。

首を動かしていて気付いた。ここは何かの”部屋”である。さっき見ていたのは”天井”だ。天井も壁も白い漆喰づくりでガラス窓のそばには植物をかたどったようなレリーフがある。見渡すと思いのほか部屋が広いことに気付く。十帖ほどの広さの空間に、灯りのついていないランプシェードに書物や紙束が置かれ散らかった机、棚に置かれた複数の植物の入った硝子瓶が目についた。差し込んだ陽光によって開放的な空気を醸し出しているが、同時に一面白の空間とものの少ない簡素さが空虚感を滲ませている。

ここから動こうと肉体に力を入れて上体を起こした。そこで”青年”は”肉体”を目にした。”肉体”は精神世界の事象でも肉体から離れた魂でもない、”確かにそこに存在する肉体”があることに気付いたのだ。そしてそれが”青年”自身の肉体であるということに。

“青年”は紫檀の台の上で身体をよじり”自身の肉体”をすみずみまで見つめた。細長く骨ばった指、程よく筋肉の付いた手足、均整のとれた中肉中背の身体。正真正銘、男性の肉体だ。しかし陶磁器のように白い肌は皮下の静脈まで透けて見えてしまいそうで気味が悪い。生きた”人間”の肉体のはずなのに血が通っているとは思えないほど、無機質で冷たい。屍が動いているようだ。

立ち上がろうと床に足をつけるとひやりとした感触が伝わった。服はリネンのシャツとズボンを履いているが、靴は履いていないので素足のままだ。近くを見渡すが靴らしきものは見当たらない。仕方ないので素足のままでいることにした。両足をつけて立つと足裏全体に冷たい感覚が広がっていく。踏みしめるたびに氷の上を歩いているようで、もはや痛みだと錯覚するそれは体内へと侵入していくように無遠慮に皮膚を突き刺してくる。陽光が差し込んでいるはずなのにやけに冷たい硬い床を歩きながら”青年”は妙な感覚に襲われていた。胃の中からせり上がってくる吐き気と体の中を蟲が這いずり回っているような異物感と嫌悪感である。自分の意思で動かしているはずの身体が自分のものではない、先ほどのように肉体から魂が離れようとしているかのような感覚だ。立つのもやっとの思いでふらつく身体を支えるために紫檀の台に手をついた。

この感覚は何なのだろうか。そもそも自分は何者なのか、なぜこのような場所にいるのか、ここがどこなのか。次々に”青年”の脳裡に疑問が思い浮かぶが、もちろん答えが浮かんでこなければ答える者もいない。

台に腰かけて部屋の壁をぼうっと見つめた。この部屋から出ることが出来るかわからないが、自分がこの場所にいることや人間が所有しているであろう部屋にいることから、近くに人間がいることは間違いなかった。ここに”青年”が連れてこられた意図は分からないがこのような場所に閉じ込めるということは何かの”目的”に使うということだと”青年”は考えた。

“青年”は”人間のものとは思えない”自身の青白い手を見つめながら考えを巡らせた。

すると、外から靴音が聴こえてきた。すぐそこで音が止まり、扉が開かれると一人の男が入ってきた。

「おお、起きていたか」

白衣を着た中年の男は”青年”を見て微笑んだ。広い額がむき出した四角い顔にくたびれた白衣、柔和な笑みを浮かべた人好きのする顔つきをしている。突然の来訪者に”青年”はやや驚いたように男を見上げた。”青年”に対する態度といい身なり、言葉や表情、この部屋に入ってきた際の様子から”青年”に対して害意がないことや害をなしてくることはないと判断できる。しかし、あまりにも自然に”青年がそこにいることが当然”であるかのような素振りであるせいで”青年”はどう対応するのか考えあぐねているようだった。

変わらず笑みを浮かべる男に対して”青年”は口を開いた。

「こ、ここは‥‥」

紡がれた言葉は今にも消え入りそうで掠れた声だった。男性らしい低い声質だが、その声もまた自身の”もの”であるという実感のない、空虚なものだった。困惑したように口ごもっている”青年”に男は安心させるように笑みを絶やさない。

「大丈夫だ、その”肉体”は正真正銘”君のもの”だ。」

男の言葉に”青年”ははっと目を見開いた。何かに急き立てられるように自身の頭、顔、頸、腕、胴、足に次々に触れていく。”青年”の指先に確かに触れるそれは男の言葉通り、ほかの誰のものでもない”青年”自身のものだ。男の言葉を聞いて不思議と体が動いてやったことだというのに、なぜこんなに心が落ち着くのかと疑問に思う。この男が”青年”に害を与える存在ではないことは分かったが、それ以上に”何かしら青年のことを知っている”ということは間違いない。

「やはり困惑しているようだな。まぁ、目が覚めてこのような場所にいればそのような状況に陥るのもおかしくない。簡単な説明から始めようか。

まず、この場所についてだが『サルバトーレ』ロンドン支部の建物内の部屋だ。元は違う場所で”処置”したのだが、終わってこちらの部屋に移送させてもらった。」

『サルバトーレ』、ロンドン支部、”処置”‥‥ 聞いても全く意味も意図も分からない言葉に”青年”は状況を飲み込むどころかますます混乱する。男も”青年”が混乱していることを理解しているようで続けて言葉をかける。

「まずは君のことから説明しようか。単刀直入に言うが、私が君を”改造”させてもらった」

「‥‥改造?」

「ああ。厳密には違うんだが…君のその”肉体”はもともとは”ほかの人間のもの”だ」

“青年”はその言葉を聞いた瞬間、心臓を矢で貫かれたような感覚に陥った。痛みが走ったわけではない。衝撃を受けたわけでもない。いや、衝撃ではあったのだがそれよりも先にその言葉に思考と肉体が呼応する。”青年”は全身の血が沸き立っていくのを感じた。まるで心臓がフラスコになりその中で水が沸騰しているかのような感覚だ。血が駆け巡って体温が上がっている。

「目が覚めた時、自分の身体が自分の物ではないような感覚にならなかったか?まだ”処置”が済んだばかりで”肉体”に魂が馴染んでないのもあるが、元々その”肉体”が君のものではないせいだろうね」

「‥‥‥‥」

「理解するには難しいだろう?私としてもその過程を一から正確に説明するというのは難しいから出来ないんだが、端的に言えばその他人の”肉体”に君の”魂”を入れたってわけだ。長年の研究と改良の末に最近ようやく実用化できた技術でね。”人魂精錬封入法”というんだ。精錬は粗金属から純度の高い金属を取り出す工程のこと。肉体から魂を取り出すのは、まさに精錬のようだろう?」

「‥‥この、元々の身体の持ち主は?」

「ああ、安心してくれ。すでに死んでいるよ。乗っ取ったとか殺害したとか、そんなのでもないよ」

「じゃあ、この身体は”死んでいる”のか?死体ということか?」

「いや、それは違う。ここが一番いわく言い難いところなんだが、その”肉体”はあくまでも疑似的なものだよ。死体を蘇らせることも死者を生き返らせることもできないからね。君の”魂”に適性があった”肉体”のDNA情報を再現して再構築したものだからね。その身体は”ちゃんと生きている”よ。今は少し青白いが、じきに色味が出る。なんせ、まだ”処置”したばかりだからね。”魂”が”肉体”に適合するまではそれなりに時間がかかる」

“青年”は自分の手や腕を見つめた。変わらず青白く赤みのない肌だが先程よりも少しだけ生気が増したような気がする。この身体はちゃんと”生きている人間の身体”なのだと。その言葉を反芻する。その言葉こそが己を肉体に結びつける柱になるのだと”青年”は自身に言い聞かせた。”青年”が顔を上げて男の方を見やると男ははっとしたように瞠目した。

「いかんいかん、自己紹介がまだだったね。私はヴァレンタイン。『サルバトーレ』ロンドン支部第二生物物理学研究室室長を務めている。宜しく頼む。

そして次は『サルバトーレ』について説明するが、一四〇〇年代に欧州にて突如として現れた”マルム人”に対抗するために生まれた治安維持組織だ。」

「マルム人‥‥?」

「この世界とは違う次元に存在する異界からやって来た異形の怪物たちのことだ。中には人間にそっくり変化することが出来る個体がいることからマルム”人”と呼ばれているわけだ。出現した当時こそ凶暴な個体が多くて厄介だったが、今は昔と比べて大人しくなってきている。しかし現在でもマルム人はこの世界に存在し続けている。人類を脅かすマルム人から人々の暮らしを守るのが『サルバトーレ』の役目ということだ」

ヴァレンタインは淡々と話していくが、”青年”は説明の内容を頭の中に入れながらも若干の違和感を覚えていた。”青年”は『サルバトーレ』という組織の趣旨や存在意義については理解したが、ただ一つ”この世界に化け物が存在している”という事実だけに鼻白む。”青年”は考えてみても”目が覚める前”の記憶というものは思い出せなかった。ヴァレンタインが言ったことを信じるのならば”青年”は元々別の人間のはずだった。しかしその時の記憶は今の”青年”にはない。記憶がないせいなのか、この世界の”常識”や骨子となるものに関しては理解するのに時間がかかりそうだと考えた。元来、化け物が存在する世界があることが普通なのが存在しない世界が普通なのかはこの”青年”にとって到底あげつらえるような問題ではなかった。

「そして、このことに関しては君にも関連しているんだが、このマルム人が持つ血液や毒、唾液などの体液には人間をひとたび”人ならざる者”に変えてしまう魔力がある。ようするにマルム人の同族にされてしまうということだ。こういった状態になってしまった人間のことを”妖魅”と呼ぶ」

「よう、み‥‥」

「一度マルム人になってしまえば二度と戻れなくなるし姿が化け物に変貌してしまう人間の心を失ってしまうしで、とても恐ろしいものだろう?しかし、我々はこれを逆手にとった革新的な技術を生み出した。それこそが君だよ」

ヴァレンタインは”青年”を射抜くようにその目を見つめる。その双眸からは強い意志が感じられ、如何にも自信に満ちているといった様子だ。ヴァレンタインの勢いに若干気圧されながらも”青年”はその言葉の真意をたずねる。

「さっき君に人魂精錬封入法を行ったと言っただろう?再構築を行ったその肉体にマルム人の血液を注入して上手く肉体に適合させた。そうすれば”人工的な妖魅”が完成するというわけだ。この技術に関しては人魂精錬封入法と違ってまだ試用段階だから正直成功するかは怪しかったのだがね。もう少し経過観察が必要だが今のところ特に異常はないようだしひとまずは成功といったところだよ」

”青年”は、目が覚めた時自身が感じていた違和感や妙な浮遊感はただ肉体に魂を入れ替えたからだけではなかったのだと推測した。マルム人という怪物の血を人間の肉体に注入するなどずいぶん奇妙なことをしていると考える。そのようなことをして身体に異常が出ないのか、違う人間の肉体にわざわざ魂を入れ替えた上に怪物の血を注入などして一体自分をどうする気なのかという思いなど”青年”の心中でさまざまな感情が錯綜していた。

「なあ、君は目覚める前のことを思い出せるか?」

ヴァレンタインは”青年” の心を見透かしたように言う。”青年”にこれ以前の記憶などとうに存在していない。

「思い出そうとしても思い出せないだろう?元の肉体を捨て、自分が何者であったかという記憶すらない。自身を証明できるのはその”魂”だけ。しかし”魂”など単なる形而上の精神状態。そんな不確かな存在を肉体に移し替えただけでそれが”君”であるという証明ができると思うか?」

「…………」

「私が君を騙している可能性だってある。君の記憶がないのだって、”喪失している”んじゃなくて” 最初から持ってなかった”かもしれないじゃないか。肉体はあくまでも”魂”を入れる器でしかないんだ。肉体も記憶も精神も真っ新になってしまったなら、それはもう”別の人間”だと言えるんじゃないか?」

ヴァレンタインは意気揚々と”青年”に檄を飛ばす。自身の思考の領域を優に凌駕してくる持論に”青年”はそれとなく目配せして見せる。ヴァレンタインはそれに気づいたのか、少しばつが悪そうに笑う。

「少し困らせてしまったね。申し訳ない、これはあくまでも私の一家言だからあまり気にしないでくれ。それで、話を戻すが君を妖魅にしたのにはもちろん理由がある。君をわが『サルバトーレ』のエージェント、”ソテル”にするためだ。ソテルはマルム人からの被害を防ぐために管轄領域の巡視、事件調査、マルム人との直接交渉、場合によっては討伐などマルム人に関するあらゆる任務を行う。そして最も重要となるのが、マルム人が用いる言語”アルカナ語”を”承継”する任務だ」

突如聞こえてきた聞き慣れない単語に”青年”は思わず聞き返した。「”承継”?」

「”承継”はアルカナ語の効力を制御する方法だ。マルム人がこの世界に飛来したのも太古の昔に残した『黄印の書』を取り返すため、なんていう説がある」

「太古の昔?」

「いや、あくまでも説に過ぎないんだがね。人類が繁栄を極める前、ホモサピエンスが誕生するずっと前は元々マルム人がこの地球を支配していたとかいう話だよ。『黄印の書』はマルム人が所有していたサイファーだなんて言う人間もいるが、私としてはこれは暗号書というよりはアカシックレコードに近いものだと思うね。なんせ悠久の時を超えて再び飛来してくるなんてよほどこの世界に未練があったとしか思えない。そこまでする理由があるとすればその『黄印の書』にはこの世界の真理が、」

再び白熱しそうになったヴァレンタインは”浴びせられた視線”に気づいて慌てて押し黙った。どうやらこの男には自分が興味のある話に関してはつい脱線して話し続けてしまう癖があるようだった。”青年”から見ても衒学的ではあるが、見識が高く興味深い話だとは思った。しかし、このまま話させ続けると確実に本題を忘れるだろうと考えて中断させたのだった。(ヴァレンタインは心なしか如何にも話足りないといったような表情をしていたが)

「失礼。話を戻そう。この世界には『黄印の書』から”あふれた”アルカナ語の”印字”が数多く存在する。しかしそれを人間が認知することは難しい。人間の”無意識下”に存在していると言ってもいい。”印字”は人間にとって悪い影響を与えることもある。”承継”はそうしたアルカナ語や”印字”を”引きはがす”ことが可能だ」

「”印字”、というのは‥‥」

「アルカナ語で綴られた字や文章、印璽のことだ。”印字”の種類はマルム人の個体や集団によって変わる。これは恐らくマルム人が追い求めている『黄印の書』から”あふれた”ものだからだと考えられているが…結局のところマルム人がこの世界に介入してきたのも世の中を騒擾してきたのも全てどこにあるのかも分からない『黄印の書』のせいだということくらしか分かってないんだ。そもそも『黄印の書』が謎に包まれすぎているのさ」

「‥‥その割にはずいぶんと大層に講釈垂れていたが」

「いやあ、私の言葉には真実の中に少しの憶測が混ざっているということを最初に言っておくべきだったね。この世の中がマルム人が飛来してきたことの所産だということは紛れもない事実だから安心してくれ」

全く安心できない言いように”青年”は眉間を押さえた。ほぼ初対面でありながら早くもこの男の一言一句を鵜呑みにするべきではないということが分かった。嘯くこそすれ、一片たりとも真実が存在しないわけではないからほら吹きではない。恬淡だというか、恣意的だというか”本人がはからずも悪意を持って述べている”ように”青年”は感じたのだった。分かりやすく説明するなどと言いながらこれである。話し始めると余計なことまで話すのは元からなのだろうが、きっと他の人間に見咎められても正さなかったのではとそう直感したのだ。例えるなら中がほとんど空っぽのような洞の外堀だけをひたすら埋めていくような話し方だ。この男と対話する時は注意が必要だと、”青年”は覚醒して数十分程度の脳でそう処理した。

「まぁ、さっきも言った通り君は”ソテル”になるためにこうして私が”処置”した。立脚しようじゃないか。君は自身の”存在意義”とその証明、”居場所”を与えられたんだ」

ヴァレンタインは数歩歩いて”青年”から距離をとる。背中を向けていたと思っていればすぐに体を翻して人さし指を”青年”の方に向けた。指先から見えない糸でも出ているかのようにまっすぐで”それ”じたいが意思を持っているかのように狙いを定めている。

「たとえこの先頚をもがれようが四肢をもがれようが枝から吊るされようが、いかなる時もこのことを忘れてはならない。”使命のままに役目を果たせ”。この言葉はいつ何時でも神父様のありがたいお説教よりも君の理念となり、”存在理由”であることに変わりはない。これが悪魔の呪いになるか天使の導きになるかは君の働き次第だがね」

ヴァレンタインは口角を吊り上げていやらしく笑う。部屋に入ってきた時の人のいい笑みよりもこちらが”素性に近い表情”なんだろうと”青年”に思わせる。糸のきれた人さし指を仰がせてくるくると回す。その様子を見ているだけで”青年”に筆舌に尽くしがたい感情を湧き起こさせる。人の感情をいちいちかき乱す男だ。それでいて人質にでもとったかのような、脅しにかけるかのような言い回しをするのだから何となく腑に落ちない。”青年”はそんなことを考えながら髪の毛に唾でも吐かれたような顔をしていた。

己の素性すら知らない”人間と怪物の混血である青年”は、目覚めて四半刻ほどで己の”使命”とやらを告げられ、これから来るであろう試練に諦念するしかなかった。