さよならまぼろし

一次創作サイト

千日紅が咲く季節には 4

 昭和十四年にやってきてから数日が経った。あの日、志木家に来た自分は志木の母の厚意により怪我の手当てをしてもらい、自分が帰る場所が無いことが分かると「しばらくこの家に泊まっていけばいい」と言ってくれたおかげで何とか無事に生きられている状態だ。志木の母が機転を利かせてくれなければ今頃どうなっていたかも分からないし、手当てをしてくれた上にこの家に置いてくれるなんて本当に頭が上がらない思いだった。

いくら「客人」とは言え、何もしないのも申し訳ないので家政婦の仕事の手伝いや自分の身の回りのことは自分でやっている。

しかし自分は「客人」としてこの志木家に居座ることを許されているのだがその猶予もいつまでかは分からない。いつ元いた時代に帰れるのかもそもそも帰られるのかも分からないのに、怪我が治ればこの家を追い出されてしまうかもしれなかった。それにあまり長居をするのも気が引ける。この時代に居れば居るほど悩みの種は増えていく。

そしてもう一つ問題がある。志木から相変わらず警戒されていることだ。志木の母からや家政婦である喜代からは至って手厚い扱いであるものの、志木からはどことなく疎まれているように感じる。素性が分からずあろうことか「未来から来た」などと口走った不審人物に打ち解けるなど不可能なことが当たり前なのだが、それでも避けられたり信用されてないということを実感すると寂しくもなる。

捻挫した左足以外の傷はほとんど治癒し、左足も以前のように動かすことは難しいものの痛みはなくだいぶ良くなっている。ひとまず怪我が良好に向かっているので安堵する。このまま安静にしておけばあと数日ほどで治るだろう。今日は手伝いも終わり、暇になったので居間にある籐椅子で寛ぎながら読書をすることにした。本棚から書物を拝借したのだが思いの外面白い。今まで余り本を読んでこなかったせいか読書も意外と悪くないということに気づいたのだ。スマートフォンは相変わらず使えない。最初はスマートフォンが無いので大丈夫かと心配にもなったが案外無くても平気なものだ。寧ろインターネットが無いことで時間に余裕が出来たので読書を始め、色んなことが出来た。多少不便なことはあるがこの時代の生活も悪くないものである。

手に取った小説の頁をぱらぱらと捲っていると、廊下からどたどたと足音がした。

この足音の正体はすでに分かっている。

「啓太にいちゃん!遊ぼう!」

居間に入りまぶしいほどの笑顔で駆け寄ってくる少女にこちらもつられて笑う。この少女は志木の妹である法恵だ。尋常小学校に通う9歳の子なのだが、とても志木と血が繋がっているとは到底思えないほど兄とは真逆だ。志木は長身で不愛想で一つの物事に頓着する性格だが、法恵は小柄でまさに天真爛漫という言葉がぴったりな闊達な性格だ。どうやら法恵は昔から病気がちで両親から出来るだけ外に出ないように言われているようだが遊び盛りな歳の子供に「外に出るな」という言葉は酷なもので本人も言いつけを破ってちょくちょく外に遊びに行っているようだった。

「いいよ、何する?」

「外行こう!」

「じゃあ今日は近所を散歩しよう。」

「うん!」

法恵はずいぶんと自分に懐いているようだった。本来なら志木と同じく警戒してもおかしくないのに疎んじるどころか素性のよくわからない男に興味が湧いたらしくまるで兄のように慕ってくる。家にやって来た兄ぐらいの歳の男に惹かれるものがあったのかもしれない。ちなみにあの後知ったことなのだが、志木はどうやら自分と同い年らしく現在は旧制高校の1年生だという。志木は自分より幾許か大人びて見えていたのでまさか同い年とは思っておらず驚いたものだ。

法恵に手を引かれて外へ出る。法恵と遊ぶ時は花札だったりおはじきだったりお手玉だったりそういったものをしていた。外で遊ぶのは志木の母や家政婦の目もある手前、というのもあるがこちらとしても足の怪我があるため出来るだけ激しい運動は避けたい。散歩程度なら咎められることもない。本人もどちらかというと外で走り回る方が好きなようで両親のことを心配性だとか過保護だとか不満を漏らしていた。しかし法恵も気を遣ってくれているらしく自分と遊ぶ時はいつも家の中でのみだった。外に行く時は散歩の時くらいなのでその点ではありがたい。

「法恵ちゃん、最近俺と遊んでばっかりだけど良いの?学校の友達と遊びたいだろ。」

「いいんよ、私は啓太にいちゃんと遊びたいから。それに学校の子たちとはいつでも遊べるよ。」

この子は無邪気な子供らしさを持っているのにどこか大人びていて早熟している部分もあると感じる。9歳の子供とは到底思えなくて自分がこの子と同じ歳の頃こうだっただろうかと考える。きっとこの子は将来聡明に育つだろうと思う。

法恵と一緒に田園風景が広がる道を歩く。この町はちょっとした田園都市となっていてこの辺りは田畑が多く世帯も少ないが、この田園を抜けると向こうは市街があり賑わっている。法恵は歩きながら楽しそうに話す。今日の学校で何があったかとか授業で分からないところを当てられて焦っただとか学級で何が流行っているかとかそういう取り留めのない話をする。たまに自分のことを聞いてくるのでその時は流石に未来から来たとは言えないので何とか上手く誤魔化している。志木以外があのことを知らないなら恐らく志木は誰にも話していないのだろう。正直なところ、志木は自分のことをどうするつもりなのか気になる。

「なぁ、法恵ちゃん。」

「なに?」

「兄ちゃんが俺のことで何か言ってたこととかあった?」

法恵にそう聞けば考えるような仕草も見せず「ないよ!」と即答した。ない、とはっきり言われると何だか寂しくなる。法恵は先程と変わらない笑顔で話をつづけた。

「あのねぇ、敏郎にいちゃんは啓太にいちゃんのこと好きだと思うよ。」

「えっ?」

予想外の言葉に思わず素っ頓狂な言葉をあげてしまう。なぜそうだと分かるのだろうか。そもそも好きだなんて突拍子が無さすぎないだろうか。

「どうしてそう思うんだ?」

「だって敏郎にいちゃん、啓太にいちゃんのことよく見てるしすごく気になってるみたいだったから。」

確かに志木からたびたび視線を感じることはあったがそれは自分が何かおかしなことをしないか監視しているだけでそこに好意や親愛は無いと思うのだが。それにしてもよく観察していると思う。とても9歳とは思えない観察眼だ。

「あっトンボ!」

法恵が突然走り出した。どうやらトンボがいたらしい。突然のことに驚いて慌てて小走りで追いつく。

「法恵ちゃん、いきなり走ると危ないぞっ」

そう言って止めようとするが法恵はトンボに興奮して聞こえていないようだ。女の子も昆虫好きなんだなぁなんて暢気なことを一瞬考えてしまう。すると追いかけていたトンボが方向転換してどこかに飛んでいった時、法恵もそちらの方に行こうとしていたが突然のことだったため体に上手くブレーキがかからず思い切り地面に倒れ伏してしまう。

「法恵ちゃん!大丈夫か!?」

法恵のもとに駆け寄ってゆっくりと体を起こす。結構な勢いで倒れてしまったせいで顔や腕をところどころ擦り剝いてしまっている。最もひどいのは膝だった。右の膝頭からは血が出てしまっている。先程までの笑顔も消え、痛みに耐えているようで目尻には涙が浮かんでいる。

「法恵ちゃん、取りあえず帰ろうか。」

ひとまず家に帰ろうと考えるが、ふと脳裏にあることが過った。こういう怪我をした時、昔は医者にかかることのできない貧しい者たちは民間薬といって植物から作った薬で代用した。志木家は一般的な家庭より裕福であるため医者にもかかれるし薬もちゃんとある。ここから志木家は10分程度。法恵も耐えることができない時間ではないだろうが、せめてもの応急処置ぐらいはしてあげたいと思った。

「ちょっとそこで待っていてくれ」と言うと法恵はこくりと頷いた。こういう時くらいは泣いても構わないのに。我慢しているんだろうか。道脇の草むらに入ってあるものを探す。辺りを見渡すと丈が高く黄色い花をつけた植物を見つけた。オトギリソウだ。切り傷や腫れ物、虫刺されなどに効く薬として用いることが出来る。図鑑で見たことがあり、以前母と実際に採取したこともある。乾燥させた葉を煎じて用いることもあるが、今回はそんな暇はないので生の葉汁を用いる。オトギリソウの葉をいくつか取ってその葉を擦り合わせる。擦り合わせていると葉汁が出てくるのでそれを患部に塗布すればいい。

「法恵ちゃん、ちょっといいかな。」

その場に跪いて法恵の足を出す。擦り合わせて出た葉汁を膝に塗る。あくまでも少量塗るのみだ。塗りすぎると危険な薬だからだ。「何それ?」と法恵が不思議そうな顔で尋ねたので「オトギリソウだよ。これを塗るといくらか良くなると思うから。」と返す。法恵も田園地帯で育ってきた子なのでお嬢様とは言え民間薬のいくつかは知っているのではないかと思ったが今回はこれくらいで許してほしい。

「よし、応急処置終わり。帰ろうか。」

傷口への塗布を済ませたので帰路に着く。膝に負担をかけない方が良いので法恵をおんぶしてやろうと屈む。「ほら、おいで。」と言うと幾何か間を置いておずおずといった感じで背中に乗ってきた。もしかしたら遠慮してたのかもしれないな、などと思いながら元来た道を歩いていった。

*

「お帰りなさいませ…ってあら。」

玄関で出迎えてくれた喜代が自分とおぶられた法恵の姿を交互に見て驚いたように目を見開かせた。驚くも無理はないだろう。

「すみません、法恵ちゃんが転んで怪我をしてしまったので手当てしてあげてください。膝のところはオトギリソウの葉汁をつけておいたんで…」

喜代にそう説明して法恵を下ろすと「はぁ、そうでしたか。それは大変でしたねぇ。」と言って法恵の姿をまじまじと見つめた。「法恵さん、まずはお洋服着替えましょうね。啓太さんもありがとうございました。休まれてくださいね。」と言って法恵を連れて行く。法恵は「啓太にいちゃん、ありがとう。」と言って微笑んで見せた。

この笑顔を見てやった甲斐はあったかなと思った時、気配を感じた。気配の方へ目を向けると案の定志木が立っていた。こちらを見る表情からは感情が読み取れずどんな顔をしていいか戸惑ってしまう。多分先程のやりとりも見ていたのだろう。自分が一緒に居ながら大切な妹を怪我させられたのだから、怒っているかもしれない。これはますます疎まれるな、なんて思っていると志木が口を開いた。

「お前…法恵の手当てをしたのか。」

突然の言葉に理解が遅れる。えっ、と思って黙っていると志木はこちらをただじっと見つめていた。

「手当てってほどのものでもないよ。ただ植物の葉汁をつけただけだから。」

何とか言葉を紡いで返答した。視線になんとなく居心地の悪さを感じていると志木は顔を伏せて気まずそうに言う。

「…法恵はお前に懐いている。」

「…え?うん。」

「前までは俺の後ろばっかついて回ってたのにお前が来てからはお前とばかり遊んでお前の話ばかりする…」

「…………」

志木の言葉から考えると、つまり自分を慕っていた妹が最近来たばかりのよく分からない人間に懐くから嫉妬している、ということなのだろうか。

「…何だか申し訳ない。」

「べ、別に俺が勝手にやっかんでいるだけだ。気にするな。それで、この数日でお前が頭のおかしな奴じゃないということは分かった。悪かったな。あんな扱いして。」

まさかそんな言葉をかけてもらえるとは思ってもいなかったので面喰ってしまう。まさに鳩が豆鉄砲を食らったようで反応に困ってしまう。志木の顔はよく見えないがどことなく紅潮しているようにも見えた。

「お前は仕事の手伝いもするし法恵に懐かれているし、しかも今日は手当てまでしておぶって帰ってきた。そこまでする奴が不審者のはずないもんな。」

「あ、ありがとう…認めてくれて。」

「と、と言ってもあの未来から来たとかそのことまで信じるわけではないからな。」

志木が今まで見せなかったような表情をするのでこちらまで照れ臭くなって上手い言葉が見つからないが何とか言葉を繰り出す。あの未来人うんぬんの話をまだ覚えているとは思っていなかったが、流石にあれを信じはしないようだ。当然と言えば当然か。

「…敏郎。」

「…え?」

「敏郎って呼べよ。お前、俺の名前呼んでないだろ。」

思わずあっ、と口から出てしまいそうになる。確かに、自分は志木の名前を一度も呼んでいない。そもそも会話が少なかったこともあるがいきなり呼び捨てをするのも馴れ馴れしいし苗字で呼ぶのも何か違うので名前を呼ばずに過ごしてきたのだが本人からそれを突っ込まれるとは思っていなかったので驚いた。今日は本当に驚きの連続だ。

「俺もお前のこと名前で呼ぶからな。啓太。」

「あー、ありがとう。えっーと…よろしく、敏郎。」

いざ名前を呼んで呼ばれるとよく分からないこっ恥ずかしさを感じてしまう。今までこんな経験あっただろうか。七十五年前にタイムスリップして十八歳の祖父の友人とこうして名前を呼び合うなんて、いや、なかなか経験できるはずもないな、なんて思う。