さよならまぼろし

一次創作サイト

千日紅が咲く季節には 6

 五階の書店に着くと早速目当てのものを探す。

時事や政治、世界情勢に関する本が並べられているコーナーで何かこの時代のことについて詳しく知れるものは無いかと目を凝らす。背に書かれているタイトルから良さそうなものを手に取って内容を確認していく。

何冊か目を通したものの有益な情報は得られそうになかった。この時代は政府による検閲があるせいで帝国主義の確固たる世論を揺るがすような批判や真実を肉薄するような情報を世に出すことは許されていないのだろう。ラジオのニュースや新聞だってきっと世の中の出来事をありのままに全て報道しているわけもない。真実を全て知っているわけでも知れるわけもない。しかし、これからこの国はどんどん泥沼に嵌っていくということだけは分かっている。二年後には太平洋戦争が開戦する。召集や本土での空襲だってある。もしこのまま帰れず数年先もこの時代に残るとしたら?それを考えるだけで目の前が真っ暗になった。

ふらふらと覚束ない足取りで書店内を回る。今旬の作家による新作が並べられていたり、漫画や雑誌もあった。その中にふと科学雑誌を見つけた。今日入荷されたばかりの今月号でロケットが表紙に書かれている。宇宙だったり未来だったり子供向けのSF関連を取り扱う雑誌のようだ。興味を惹かれてぱらぱらとめくって流し見する。するとあるところで手が止まる。

"タイムトラベル"と大きく字が印刷されている。タイムマシンや未来へのタイムトラベルについて書かれている内容だ。五十年後、百年後の世界はどうなっているかとかそういうよくあるレトロフューチャーだ。未来から来た人間に言わせてもらうと、的を得た予想とは言いにくいが発送としては面白いものが多い。

ライターによるタイムトラベルへの考察や批評、コラムが書かれていて作り手側の熱意が伝わってくる。タイムトラベルやタイムマシンなんて子供の頃に考えていた程度だ。そんなものはあくまでも空想の中での話で例え実現するとしてもずっと未来のことだと思っていた。しかし、現に自分は時間を超えて生まれた時代よりずっと前のこの時代にやって来ている。そう思うと一見滑稽に見えるこのタイムトラベルも単なる絵空事じゃないんだろうと感じる。

「なに読んでんだ?」

背後から声がして思わず「うぉうっ」と素っ頓狂な声を上げてしまった。咄嗟に口を塞いで辺りを見回す。数人こちらを見ていたので恥ずかしくなって俯く。声をかけた人物は当然ながら敏郎だ。

「そんなに驚かなくたって良いじゃねえかよ。」

「いきなり声かけられたら驚くに決まってるだろ。」

「へいへい、悪かったな。それ、科学雑誌か。興味あんのか?」

敏郎が手元の雑誌を覗き込む。ページは"タイムトラベル"のところのままだ。少しきまりが悪そうにゆっくりと首肯すると、それを見て敏郎はにやにやと笑い始めた。

「何だよ。」

「いや、タイムトラベルねぇ…って思ったんだよ。お前、そういえば初めて会った時俺に未来から来ただとか言ってたよな。」

「あ、ああ…」

「お前、本当に未来人だったりして。」

敏郎の言葉に目を見開く。なんてことない言葉のはずなのに衝撃だった。頭を殴られたような衝撃ではなく、胸を抉られたかのような気持ちだ。うまく言葉で説明できない。なぜこんな気持ちになったかも分からなかった。ただ、茫然と立ち尽くしてその言葉を反芻するだけだった。

書店を出た後は、紳士服だったり文具だったりスポーツ用品だったりと敏郎が行きたいと言ったところについて回った。それぞれのフロアで分けられているテナントは元いた時代と特に変わりはない。あちこち歩いて回ったのでけっこう疲れてしまった。そのことを敏郎に告げると上階にある喫茶店で休憩しようと言われた。7階には大食堂もあるという。この時代のレストランや喫茶店には興味があるので少し心を躍らせながらやって来るとカフェの内装に若干拍子抜けしてしまった。白い壁に赤い絨毯。座席は余り見ない感じだが店内自体は普通に元いた時代でも"昭和レトロの喫茶店"を銘打った店でありそうな雰囲気だ。まあそんな大して変わるはずもないか、と思いながら二人掛けの席に着く。

メニュー表には意外と色んな品目があった。ケーキだったりアイスだったりサンドイッチだったり様々だ。ところどころ見慣れない名前は見られるものの、大体どんなものかは想像がつく。値段を見ると"銭"と書いてある。この時代の銭とかの相場が分からないのでそこが困りどころだ。

「メニュー減ったよなぁ。」

向かい側に座っている敏郎がぼやくように言う。

「えっ減ったの?これで?」

「ああ。二年くらい前まではもっと色んなのがあったんだがこのご時世のせいで、な。」

どうやら二年前から続いている日中戦争の影響で珈琲の輸入が制限されているらしく、それと同時にメニューの数も少し減らされたらしい。百貨店自体も規模が縮小しており営業時間の短縮をしているらしい。

珈琲はメニューにはある。制限のせいで珈琲の値段が上がったという。しかし元の珈琲の値段を知らないので高くなったか判断することはできなかった。

結局自分はミルク、敏郎はソーダ水を注文することになった。注文を済ませた後、敏郎はしばらく珈琲が高くなったことに関して嘆いていた。

「コーヒー好きなのか?」

「ああ、好きだな。この近くに馴染みの珈琲店があってそこによく珈琲豆買いに行ってるんだよ。」

「へぇ…馴染みのコーヒー店か…」

「啓太は珈琲好きか?」

「あー…まあ好きかな。」

敏郎の言葉に若干言葉を濁しながらも答える。コーヒーを好んで飲んでいるというわけではない。受験勉強で夜遅くまでかかる時に眠気覚ましとして時折飲んでいる。齢十八で恥ずかしながらコーヒーの味にまだ慣れていないのだ。

「俺が珈琲好きなのは親父の影響なんだよ。馴染みの珈琲店の店主も親父の昔からの顔見知りでな。」

親父、という言葉を聞いて咄嗟にあの顔が浮かんだ。敏郎の父は逓信局に勤めていて毎日朝早くから車で出かけていくのをよく目にしている。顔立ちは敏郎とよく似ている。敏郎のあれくらいの歳になればああいう見た目になるんだろうというのが容易に想像できる。長身で体格が良く、どことなく威圧感のある外見だ。しかし性格は厳つい外見とは反して寡黙だが、穏やかだ。赤の他人である自分に対しても至って普通に接してくれた。未だに若干恐れ多さはあるものの敏郎の父を含め志木家の人々は良い人ばかりだと思う。

嬉しそうに話している姿を見て、きっと敏郎も父親のことが好きなんだろうと感じる。

「啓太も今度連れて行ってやるよ。」

敏郎はにかっと笑って言う。余り好きではないのに少し申し訳なさを感じながら、こちらも何だか嬉しくなってしまう。どこかに一緒に行くという約束からこれからもあの家に居ていいのかという問いかけと友人だと認められているという満足感が混ざって何ともむず痒い感覚だ。

その後、注文したものが来るまで敏郎の趣味のことや学校での話、子供の頃の思い出話など沢山の雑談に花を咲かせた。

百貨店を出て、帰路につく頃にはすでに夕日が見えていた。行きと同じく電車とバスを乗り継いで帰る。バス停に着く頃には若干暗くなっていて空の向こうは未だ赤く、反対の方向の空にはうっすらと月が見えていた。

「すっかり暗くなったな。」

肩を並べて歩いていると敏郎は独り言のようにつぶやいた。志木家に向かって歩いていると次第にいつもの田園が見えてくる。

このあたり景色も数十年後にはどんな風になっているんだろうと考える。あと二年ほどで太平洋戦争が開戦して米軍が本土爆撃に来れば恐らくこの地域も被害に遭うだろう。そうしたらこの景色も変わり果ててしまうだろうしここに住んでいる人々の命の危機に晒されるだろう。もちろんその中には志木家の人々も含まれている。敏郎の両親や家政婦の喜代に妹の法恵たちは辺地に疎開することとなるだろう。しかし、敏郎は?敏郎はいずれ召集される。あの若き日の祖父と共に写っていた写真が敏郎が海軍に入隊したことを示している。敏郎はどうなるのだろうか。祖父は敏郎の生死について知らないようだった。終戦までに生きているのか、死んでいるのか。それが分からないだけで言いようのない不安が押し寄せる。

「…あのさ。」

「何だよ?」

堪らなくなってついに敏郎に問いかける。

「敏郎は、もし自分が戦争に行かないといけなくなったらどうする?」

その言葉は今口に出すのは余りにも重すぎて言い終わった直ぐ後からかき消してしまいたくなった。

「何だよいきなり…」

「気になったんだ。今でも軍は他の国と戦争をしているけど、これからますます激化したり長期化したら召集されることになるかもしれない。そうなったらどうするんだよ。」

最初は笑っていた敏郎も言葉を続けるうちにどんどん笑顔が消えていった。さっきまでの和やかな空気も消え重苦しい空気だ。しかしその空気とは違って敏郎の返事は完結だった。

「行くしかないだろ。」

ただ一言、そう告げる。その声色からはどの感情もうまく読み取れない。

「国が戦争に行けって言うなら俺はそれに従うまでだ。逃げることなんて出来ないし俺は逃げるつもりもない。」

返す言葉が見つからない。ただ言葉を繰り出していく。

「それも運命なんだろう。」

「なあ、ちょっとあの丘に寄っていかないか?」

突如先程までの話題を断ち切って敏郎が思いついたように言った。いつのまにか笑顔に戻っていて何もなかったように振る舞う。自分も何とか陰鬱な気持ちを振り払う。あの丘、とはきっと二人で初めて出会ったあの場所だ。なぜ突然そんなことを言い始めたのかと疑問に思うが、あの日以来近寄っていなかったので興味が湧いてきた。たぶんあれから変わっていることなんて無いと思うが好奇心の赴くままに承諾することにした。

「そうだな。行ってみよう。」と返事をしてあの丘に向かう。田畑横の道を抜けて坂道を上っていく。急ぐ気持ちで息を若干切らしながら、坂を上りきる。予想通り、丘の風景は特に変わっていなかった。しかし、あることに気づいた。下に続く階段横に植木鉢が置いてあるのだ。そこには赤い花が咲いていた。元いた時代では空き地だった、もとい自分が転落した場所でもあるあの家の住人が植えたものだと思った。

その花が気になって思わずそちらに向かった。屈んで花をよく見ると、見覚えのある花だった。"千日紅"だ。植物図鑑だけではなく、この花は母がよく作品作りに使っていたので知っている。まさかこんなところで目にするとは思いもしなかった。

「それ花か。なんか気になるのか?」

「あ、ああ…うん、まあね。」

遅れてやって来た敏郎が千日紅を見ながら言う。なぜ花に興味を示すのかと思っているのだろう。自分でもよく分からなかった。千日紅に馴染みはあるがそんなに好きというわけでもない。しかし何だかこの花が気になるのだ。

「お前、花なんか興味あるのか?」

敏郎が怪訝そうに尋ねてくる。この時代の男性にとって花が好きだというと女性のことだと思うだろう。そして男性が花が好きだというものなら「女々しい」などと蔑まれるのだろう。しかし、そうだと分かっていても快く思われないのは余りいい気分ではない。

「好きっていうか、母親の影響でちょっと詳しいだけだよ。」

「母親の影響…なぁ」

敏郎は同じように屈んで千日紅をまじまじと見つめる。

「これ、なんていう花?」

敏郎の思ってもいなかった言葉に驚く。花に興味を示すとは思っていなかったので予想外だ。

「千日紅っていう花だ。咲いてる時期が長いから千日紅って言うんだ。日持ちがいいから押し花とかにも使える。」

「押し花?」

「やったことないか?」

敏郎は「…ない。」と短く答える。何だか変な気分だ。どうせなら母親の手伝いで散々刷り込まれた知識を使って押し花の作り方でも教えてやろう。

「新聞紙の上に塵紙置いて花を並べる。その花の上から塵紙や新聞紙重ねていって分厚い本で重石をする。重石をした新聞紙を何回か取り換えて、完成。」

「…何だそれ面倒臭いな。ただ花を潰して乾燥させるんじゃないのかよ。」

「これでも十分簡単だろ。」

「どこかだよ。そもそも花って女が好きなもんだろ。男の俺には興味ねえよ。」

敏郎の言葉に言い返してやりたい気持ちを抑えて口を噤む。この時代の男にとってこの価値観は仕方ないことだ。余り良い気分ではないがここはぐっと堪える。

それにしても、なぜこの花が気になったのかと疑問に思う。こんなところに千日紅が植えてあるからだろうか。そもそも最初に丘に来たあの日はここに千日紅なんてあっただろうか?気づかなかっただけだろうか。考えると色々謎が浮かんできて頭が痛くなってきた。

そういえば、丘から転落した日も赤い花を見つけたからだった。あの花は、もしかして、

そこまで考えて突然頭にがつんと衝撃が走る。一瞬殴られたのかと思うほどの強い衝撃にその場に倒れ込んでしまう。倒れると世界が回転しているんじゃないかと思うほど視界が揺れる。頭には凄まじい痛み。視界の揺れと痛みはどんどん増していく。視界の端に赤い花と、敏郎の顔がぼんやり見えたのを最後に意識は闇に落ちた。