さよならまぼろし

一次創作サイト

造花の約束

 春は妖精の季節だと思う。

フリージアネモフィラ、チューリップ、ガーベラ、カーネーション、すべての花に春の妖精が宿っている。

妖精は陽気に誘惑されてやって来て、息吹と恵みを与える。妖精というものは多くの人間が想像する通り愛らしく、善良な存在だと思うだろう。しかし、いつも人間にとって良い存在となり得るわけではないのだ。時に、その可愛らしい顔から牙を覗かせる。

あいつは妖精が嫌いだ。特に春の妖精が。あいつとはおれの親友のカイルのことだ。物心ついた頃からずっと一緒に居る、幼馴染というやつだ。

カイルとおれが十歳の頃、ある日突然カイルの声が出なくなった。それまでカイルは普通に声が出せていた。といってもカイルはどっちかというと寡黙で口数は少なかったが、喋る時はちゃんと喋るし声も出る。なのにその日を境に声がまったく出なくなってしまった。

最初はなぜ出なくなってしまったのか分からなかった。でもすぐに気づいた。春の妖精のしわざだって。昔、祖母がおれたちに教えてくれた。『春の陽気に誘われて、花の蜜を吸いに妖精がたくさん出てくる。ほとんどは人間に無害な妖精ばかりだけど、時に人間に悪いことをする妖精がいるから気をつけるのよ。特に”人の声を奪う妖精”にね』と。

当時の祖母の言葉が鮮明に甦る。妖精は人間が持っているものを羨んで、自分も欲しいと盗ってしまうことがあるらしい。おれがこんなことを言うのはなんだけど、カイルの声は綺麗だったと思う。まだ声変わりもしてなかったけど、透き通っていて耳に馴染みやすい声だった。そう思うのは、おれが近くで何年も聴き続けているからかもしれないけど。

カイルは自分の声が出なくなったことに気づいた時、大泣きした。カイルはいつも冷静で感情を表に出すことはあんまり無かったからその時はすごくびっくりした。カイルが声を上げて泣いているところを一度も見たことがなかったからだ。焦って、困ったような様子だったのに突然泣き始めたからおれは驚いて、どうすればいいか分からずにしばらくカイルの周りを右往左往していた。今となっては笑い話だけど、当時はおれはどうしたらカイルを泣き止ませられるかで精一杯だった。

おれの言葉も耳に入らなかったカイルはそのまま家の外に出て行ってしまった。だからおれも慌てて追いかけた。全速力で走って、ようやく追いついた先は近くの海岸だった。カイルは砂浜にぽつんと膝を抱えて座っていた。家の近くにあるその砂浜はおれたちにとって思い出の場所だった。砂の城を作ったり、シーグラスを見つけたり、浅瀬で遊んだり、色んなことをした。昔から何度も一緒に遊んでいた場所だから、カイルが真っ先に行く場所はここだろうとは分かっていた。

俯いて座り込んでいるカイルに、なにか声をかけようかと思ったがかける言葉が見つからなかったおれは黙って隣に座り込んだ。カイルは声を出せなくても、おれに何かを伝えようとしているのが伝わってきた。でも、今まで言葉を使わずにカイルと会話をしたことがなかったから何を伝えたいのかまではわからなかった。だから、カイルの伝えたいことを考えるんじゃなくておれが伝えたいことをカイルに言うことにした。

「突然声が出なくなったのはおれも驚いたし、カイルも怖かったと思う。もしかしたら二度と戻らないままかもしれない。今までみたいに話せなくなるかもしれない。けどさ、」

凪いだ海を見つめながら言葉を紡ぐ。相変わらず顔を伏せたままのカイルの様子はよくわからなかったが、わずかに肩を震わせたように感じた。

「これからもおれが隣にいるから大丈夫だ。他の人がおまえの言いたいことわからなくても、おれはおまえが言いたいことちゃんと理解するから。それでおれがおまえの助けとしておまえの言葉を他の人に伝える。だから大丈夫だ。声が出せなくてもおまえの伝えたいこと、わかるようになるから」

それだけ伝えておれはカイルを抱き締めた。丸まったダンゴムシみたいなカイルの首に顔を埋めて力いっぱい抱き締めた。ちょっと痛かったかもしれないけど、声が出せないカイルにおれが言葉で伝えるよりはこうして抱き締めたほうがおれの気持ちが伝わりやすいんじゃないかと思った。その後カイルはまた泣いた。これ以上泣いたことないんじゃないかってくらい、たくさん泣いた。

その日からカイルは声を失った。あれからカイルが声を出したことは一度もない。

カイルが声を失って数年が経った。宣言通り、おれたちは一度も離れずずっと一緒にいる。これからも離れることはない。おれがカイルの声なのだから。

何度目かの春が巡ってきて、おれはあの思い出の砂浜にやって来た。そこで予想通り、見慣れた背中を見つけて声をかけた。

「やっぱり来てたんだな」

おれの声に気づいて振り返ったカイルがオリー、と口を動かして言った。今となっては声に出さなくても唇の動きでカイルが何を言っているのかわかるようになった。いわゆる読唇術というやつだ。唇を見なくても、何が言いたいのかはだいたいわかったりもする。

カイルが振り向いたその腕には彩り鮮やかな花々が咲いていた。

「カイル、それ花か?」

そう訊ねるとカイルは首を縦なのか横なのかよくわからない振り方をした。カイルはずいっと花をおれの胸に押し付けた。

「これ造花か」

そう言うと今度は思い切り首肯した。生花と同じように包まれ、本物と瓜二つの様相をしている。花屋で本物と並んで飾られていたらきっと見間違えるだろう。

カイルはフリージアゼラニウムカーネーション、バラなどそれぞれの花の名前を教えてくれた。おれは花のことは詳しくないからありがたかった。しかし、なぜ突然カイルが造花を持ってきたのかは考えてみてもわからなかった。

「なあ、何で造花を買ったんだ?おまえ、花とか嫌いだろ」

おれがそう言うとカイルはぽかんとしたあと、何か考えるように目を泳がせた。しばらく考えて、ゆっくりと口を動かし始める。

『花はたしかに好きじゃない。でも、もしかしたら本物じゃなかったら大丈夫かなって思って造花を買ってみた。造花に妖精は宿るのか知らないけど、今のところ大丈夫だ』

カイルはあの日以来花を見るのも嫌になったようで、おれも出来るだけ花をカイルの視界に入れないようにして言葉にも出さなかった。だけど、本物じゃなくて偽物なら大丈夫だったなんておれはそんな発想もなかったし、このタイミングで持ってくるところがなんだかカイルらしいなと思う。

「でもこんなに綺麗だと、本物かと勘違いした妖精が寄ってくるかもな」

フリージアのざらざらした花びらを引っ張りながらおれが言うとカイルは困った顔をした。

「ごめんごめん。冗談だよ。たぶん、大丈夫だ」

根拠はないけれど、その言葉はその場凌ぎの美辞麗句なんかではない。今までも「たぶん大丈夫」で何とか乗り越えてここまでやって来たのだ。だから、おれとカイルなら何があってもたぶん大丈夫だ。

「本当にあれから数年も経ったんだなぁ」

おれがのほほんと言うとカイルもはにかんだ。あの頃からおれもカイルも背丈も伸びて、顔立ちもすっかり大人びてしまった。今はもう少年というより、青年だと形容する方が相応しい。

「声が出せなくても、案外なんとかなるだろ?」

カイルは頷く。

「おれがついてるならおまえは大丈夫だよ。これからも、ずっと一緒だ」

あの日交わした小さな約束が今ようやく芽吹いて花を咲かせている。愛する人と一緒にいられるなら、どんなことでも乗り越えられると教えてくれたのだ。春の妖精が運んで来た災いに、今となっては専ら悪いものでもなかったんじゃないかとおれもカイルもたまに思ったりする。春は妖精の季節だ。ちょっとよこしまで、愛しい季節だ。