さよならまぼろし

一次創作サイト

ほととぎすの花は咲かない

声が聴こえる。誰かが己を呼ぶ声が。 

「──しょ、御所!」 

すぐ傍で声がしたのと同時に瞼を開いた。目の前に見知った天井が広がる。 

するとそこに見慣れた顔が覗いた。その人物が誰なのかを認めると同時に顔を勢いよく上げた。 

「わっ」 

「三郎…!」 

此方が突然起き上がったことに驚いたのか慌てて後ろに退いた。その顔をまじまじと見つめると胸の内に不思議な感情が湧いてくる。ずっと会いたかった、彼に。 

「そんなに慌てて起きられてどうしたのですか」 

「三郎、何処へ行っておったのだ?儂はずっと其方に会いたかったのだぞ」 

「何処へ、とは?」 

やや不安げに顔を曇らせる彼に言葉を投げかける。波のように次々と湧いて出る言葉を抑えてなんとか順序立てて話そうとするがそれでも早口になってしまって舌を噛みそうになる。話したいことがたくさんある、ゆっくり喋るなんてできない。しかし、浮き立つ己と違い彼は今度は訝しげに眉を顰めた。 

「御所、何の話でございますか。私は何処へも行っておりませんが」 

「何を言っておるのだ。其方はずっと儂の傍を離れておったではないか…ほら、」 

──何処かって、どこ? 

そこまで言いかけて一体彼が何処に行っていたのか具体的な言葉が出てこなかった。 

喉元まで来ているのに声として出ない。瞬間、息が詰まったように止まりひゅっと掠れた音だけが出てくる。 

「夢でも見られていたのですか?魘されていたので声をかけてもなかなか起きられないので心配していたのですが」 

平然とした彼とは裏腹に”何か”に気づいた途端、脂汗が顔中から吹き出してくる。全身が粟立つような感覚を覚えた。何か大切なことを忘れている。思い出さなくてはならないのに思い出せない。体が震える。臓腑をかき回されているような不快さに視界が霞んできた。 

「何ともないようで安心しました。あまり寝すぎるのも御身に良くありませんよ。では、私は先に行って、」 

「行くな!」 

その言葉を聞いて弾かれるように彼の腕を掴んだ。突然のことに、さらに非常に強い力で掴んでいるせいか彼は再び眉を顰めた。その顔が苦痛で歪む様を見ても”離したくない”という一心でさらに力が加わる。 

「もう何処にも行かないでくれ。其方と離れたくないのだ」 

「待ってください、御所。痛いです。離してください、離して…」 

彼が腕を引いた途端に先程まで必死に掴んでいたのが嘘かのように離れた。行き場を失った片手は空を切り、虚しく振り落とされる。自由になると彼はすぐさま身を引いて立ち上がる。 

「待て、三郎。行くな、行かないでくれ、」 

己の呼び声など聴こえていないかのように彼は振り返りもせず立ち去っていく。何度も何度も呼びかけるが次第に声は枯れ、終いには弱々しく言葉にもならない音だけが絞り出される。やがて体から力も抜けていき、耐え切れずその場に臥せた。視界も狭まっていき、微かに背を向ける彼の姿が見える。言葉は泡のように消えていく。それでも彼を呼ぶ。もう声にならなくても、彼に届かなくてもいつまでも呼び続ける。 

──思い出した。和田朝盛。彼が行っていた場所、それは 

 

 

瞼を開くと見慣れた天井がぼんやりと映った。ゆっくりと体を起こして辺りを見回す。先程までの人物どころか当然人影すらない。 

ぶるりと体が震えた。秋も深まり、夜はやたらと冷える。蔀戸は下がっており風は入ってこないがひんやりと冷気が漂う。部屋を見渡せば言いようのない凄寥に襲われる。即座に掻巻を頭から被って身を潜めた。 

あの夢を見るのは何度目だろうか。彼の声がして目を開ければ目の前には以前と何ら変わりのない彼がいる。しかし彼はすぐに己から離れていき、何度呼んでも戻ってきてはくれない。あれから三年の月日が経ったというのに。数えれば短いが、己にとって千歳にも等しいほどに思えた。分かったふりをしていても心が拒んでいる。幾つ日が過ぎていっても、幾つ歳を重ねてもきっと受け入れはしないだろう。彼の死を。 

 

 

風が頬を撫でる。遠くで微かに聞こえる虫時雨が今となってはすぐ傍にあるように部屋の中で反響した気がした。目の前に座す二人の男をただじっと見据えていた。両者とも渋い顔をしており、長いこと沈黙による膠着状態が続いている。痺れを切らした一方の男がついに口を開いた。 

「もう一度考え直していただけませんか?」 

「先程から何度も言っている。考え直しはしない」 

向かって右側に座る男──執権の北条義時が神妙な面持ちで訊ねてくる。即座に拒否すれば、いつもは凄みのある顔立ちも此方の姿勢に参っているのか八の字に眉を顰めている。今度は義時の隣に座るもう一方の男、大江広元が深く溜め息をついた。老骨に鞭打って政務に励むこの老齢の文官は義時ほど此方が決めた方針に口出ししてくることは少なかったが、こればかりは見逃してならんと思ったのか珍しく譲る様子がない。 

「そうは仰いますが…やはり流石に無理がございます。その御年で大将など…」 

右大将任命。それが己が望むものだった。先日、義時に官位の上昇の打診について相談をしたのが事の発端だった。話をしているうちに次第に険しい顔つきになっていく義時の形相をよく覚えている。よほど思い止まらせたかったのか、亡き父頼朝を引き合いに諫言してきた。しまいには広元まで引っ張ってきたが、何を言われようがどんなに説得されようが此方とて一度決めたことを曲げるつもりはない。 

「先程も申しましたが、右大将家殿は官位の上昇を打診されても辞退されておりました。それもすべて代々の子孫のため。その内には御所も含まれております。朝廷に仕えているわけでもないのに過分に官職を賜るというのはあまりに僭越なこと。慎むべきです」 

「斯様なこと、わかって言っておるのだ」 

「では何故、此方の言上を聞こうとせぬのですか。いずれ御台との間にも御子が産まれるはず。その御子のためにもこれ以上の昇進はお控えください」 

御台との子だと?この男は本気で言っているのか?御台と夫婦の契りを交わして十年以上経つが未だ子はおらず、兆しすらない。それどころか近頃は房事すら行わなくなって久しい。御台も子ができることは半ば諦めているのか以前はそれとなく誘ってくることもあるが今となってはすっかり無くなってしまった。 

身も蓋もない言い方をしてしまえば、此方からあの方に心は向いていない。心が離れてしまったわけではない。初めからだ。あの方に出会ったときにはすでにたった一人の近習だけがこの心を占めていた。 

和田三郎朝盛。それが彼の名前。彼を一日たりとも思わなかった日はないが、それでも胸の内で何度もその名を反芻する。 

最初で最後の恋だった。まだ兄が将軍の座に就いていて私がただの手児だったころ、実の祖父のように慕っていた義盛が連れて来た彼に一瞬で心奪われた。今思えばあれは一目惚れというやつだったのだろう。まだ抱く気持ちの正体を知る前から私は彼のことばかり追いかけていた。兄が将軍位を廃されて間もなく何もわからぬうちに家督を就いたが、如何なる時も傍で支えてくれたのは彼だった。 

気づけば心の内に住んでいて、あっと言う間に己のすべてを独占した。幼心ながらに膨らんだ拙い思慕を抑えることは当時の私には到底不可能だった。だからついに想いを遂げた時は天にも昇るような気持ちだった。何物にも代えがたい至上の幸福だった。 

何となくこれがいつまでも続くのだと思っていた。幸せなことばかりではなく、同じくらい苦しみもあったが彼がいれば私はきっと大丈夫だと思わせてくれた。きっとこの辛く過酷な世界を生きていけると思っていた。そう思っていたのに、彼は私の前からいなくなってしまった。義盛が謀反を起こしたのだ。御所は焼け、己も義時たちに連れられて避難した。法華堂に身を潜めている時も文書の準備をしている最中に秘かに彼のことを考えていた。謀反を起こした一族なのだ。無事で済むはずがない。それでも、何とかして生きてほしいと願った。 

しかし、私の願いが遂げられることはなかった。すべてが終わった後、判官たちに命じて合戦の死者の書付を出させた。その中には彼の名があった。鈍器で殴られたような衝撃だった。勿論、この可能性は考えていた。それでも実際にその死を眼前に突きつけられると、思っていた以上に心が揺さぶられた。 

日を追うごとに彼がいないということを実感して寂しさは募るばかりだった。歌を詠んでも、鞠を蹴っても、花を愛でても、鳥の鳴き声を聴いても。何をしても虚しい。和田を「謀反人の一族」だと表では言わないといけない以上に私の心は痛んだ。まるで体の中身すべてをくり抜かれたようだ。何も感じることはなくただ空洞のように突き抜けていく。空っぽだった。あの日、彼と一緒に私も死んだのだ。 

 

「栄えある将軍家あろう御方が望蜀など外聞が悪い。これで何かあれば、」 

「何か、とは?」 

思考を中断して、頭の中から放っておいた義時の言葉を拾う。義時は何か言いたげに口を動かすがなかなか告げようとしない。 

「相州、申してみよ」 

「…身の丈に合わぬ官位を得た官人が突如討たれたという話を聞いたことがございましょうか」 

どうやら、官討ちのことを言いたいらしい。分不相応に高い官位を求めた私が官討ちに遭う可能性をこの男は言いたいらしい。己の意見を通すために本来言いにくいことを言うところはこの男らしい。 

「もし御所が然様な目に遭ってしまわれば此方としては真に不甲斐ないもの。しからば、少しでもその芽は摘んでおく必要があるということです」 

「其方は真に面白い男だな、相州よ」 

「御所…これは冗談ではないのです」 

「わかっておるわ」 

これ上なく真剣な面持ちの義時に思わず口角が上がる。この男の朴訥なところは正直嫌いではないし、むしろ好ましい。隣に座す広元は先程口を開いてから黙ったままだが、義時と言いたいことは同じようで不安げにこちらを窺っている。この頑固な陪臣たちを説き伏せるためにははっきりと言わなければ駄目らしい。 

「其方らがそう心配する気持ちはよう分かる。しかし何を言われても儂は変えるつもりはない。相州の言う官討ちも、この身に降りかかろうとも逃げはせぬ。それが儂への罰なのだと諦念して甘んじて受け入れる」 

妻を抱いている時でさえも心の内では彼のことを考えている。そんな想いの伴わない行為で子が成せるはずもない。しかし、この座にある限り己はこの将軍家を守り継承していかねばならない。実子は成せなくてもせめて養子を迎えなければならない。 

将軍の実子、乃ち源氏の血を引く者を将軍位に就ければそれを擁する一族も自然と生まれ、その一族と対立する他の一族が現れ、やがてそれは争いの種となる。これ以上、鎌倉が戦場となるのも源氏の名の下に争う者たちを見るのも飽き飽きだった。 

二度とあの時のような争いは起こさせない。だから、貴い血をひく者を将軍に就けて火種を鎮めさせるのだ。 

そのために院に奏上して皇子を戴き、宮の将軍を擁立する。その後見となるのが己だ。貴人の後見となるというのに、その地位に相応しくない官位なのは宮に失敬となってしまう。だからこの上なく高い官位が必要なのだ。 

「よく聞け、源家の血統は儂の代で終わりだ。子は産まれぬ。だから官職を上げて源氏の位も高いものにしておきたいのだ」 

二人とも、驚いた顔をしているがこれ以上言っても無駄だと思ったのか口を開くことはなかった。 

頭に浮かんだのは昨晩の夢のことだった。毎日同じ夢を見る。彼が離れていく夢。見るたび、苦しくて身を引き裂かれるような思いがして起きた後は決まって虚しさと寂しさに襲われる。苦痛だ。しかしそれ以上にその夢を見られなくなることのほうが苦痛だと思った。 

唯一その夢を見ることが彼に会う方法だから。彼が以前と変わらない笑顔を己に向けてくれる。それだけでこの夢には見る価値がある。 

かつて夢に和田一族や、宋の仏師が出てきたことがある。どちらも己に分かって何かを伝えようとしていた。もしかしたら彼もそうなのかもしれない。 

鎌倉の海を眺めるといつも思う。彼はどこかで生きていて、生霊となって己に会いに来ているのかもしれないと考えることもある。この広い海の向こうへ旅立てば彼に会えるのではないかと考えたこともあった。 

事実がどうなのかはわからない。それでも紛い物であろうと、彼にほんの少しの間でも会えるということだけが己をこの世に繋ぎ止める楔となっている。 

妻を愛さず、子を成さず、その血統を自ら絶やそうとしている己は何度地獄に堕ちても許されないほどの罪業を背負っているのだろう。これが過ちならば必ず私は神罰を受け、地獄に堕ちるのだろう。 

地獄に堕ちてしまえば彼には会えないだろうか?もしそうなったら彼が傍に来てくれることを願うのは許されるだろうか。九泉がどのようなものかは想像もつかないが、恐らく桜も梅も鶯も郭公もいないのだろうな。それでも良い。彼がいるのなら後は何もいらない。 

今宵も彼は私に会いに来てくれるのだろう。今度はちゃんと言おう。「愛している」と。もう絶対にその手を離したりはしない。 

「…三郎、」 

不意に口から洩れた声は目の前の二人の耳に届く前に虫の音にかき消された。 

 

 

 

 

ほととぎすの花言葉…「永遠にあなたのもの」「秘めた意志」