さよならまぼろし

一次創作サイト

山眠る 3

私は夢を見ていた。なぜ夢を見ているとわかっているのか、わかっていて覚めないのか、いったいどういう状況なのかはわからなかった。しかし過去の夢を見ているということだけがわかった。

これはいつごろの記憶だろうか。卯月に入ったばかりのまだまだ肌寒い東雲だ。あたりはまだ薄暗く一番高いところ、瑠璃色の海に月の舟が浮かんでいた。私の屋敷から"私"と"彼"が物音立てずに忍び足で出ていくのが見えた。二人は外套を羽織っていて、使用人や家族に気づかれないようにこっそりと抜け出したということがわかる。かつてはよく私の屋敷に"彼"が泊まっていた。それで使用人に気づかれないように小さな行燈の明かりを灯して一組の蒲団に入って夜もすがら話していた。今思えばよく話題が尽きなかったなと思うが"彼"が相手なら確かにいくらでも話せるだろうなと思い直した。"彼"と一緒ならどんな夜も可惜夜なのだ。

屋敷を出てしばらく歩くと桜並木がある。桜はまだ五分咲きで満開とは言える状態ではなかったが夜明けのそよ風に吹かれて雨のように花びらが舞っていた。地面には花びらが更紗の文様のように広がっていた。空を見上げれば桜の狭間から盈月が覗き、その光によって地面に花影を作っていた。これのために花冷えするこの時間帯にわざわざ暁起きをして抜け出してきたというわけだ。昼間になればこの辺りは桜目当ての花見客でごった返してしまう。こんな時間に来るような客はめったにいないので私たちもなかなか洒落たことをするなと思う。桜並木を逍遥するのはさぞ心躍るものだろう。月夜の桜とは見事に美しいものである。優艶でどことなく幽玄さを醸し出していて、いささかの苦労も気にならなくなってしまうほどの風月である。

春の陽気を運んで来た太陽の女神が、花の精霊が春の湊に辿り着くのはいつになるだろうか。この世界の万物が四季のすべてを形作っている。"私"は跌でしっかりと地を踏みしめて歩いていた。

「見てもまた 逢ふ夜まれなる夢のうちに やがてまぎるる我が身ともがな」

"彼"の凛とした声が花々の間を縫って通り抜けていくように響いた。空を見上げたまま詠み終わった"彼"が微笑むと、"私"は目を丸くしてしばらく黙ったあとようやく口を開いた。

「何の和歌なんだ?」

"彼"は歳よりいささか幼げな笑みで"私"に振り向いた。

「聞いたことないか?源氏物語の第五帖『若紫』の和歌だよ」

"彼"は極めて泰然とした態度で言い放つ。"私"は「へえ」と一言漏らしてなにか考える素振りをした。"私"は源氏物語に関して教養が薄いためあまり知らないのだった。「どういう意味?」

「お目にかかれてもまた逢うというのは難しいでしょう、そのまま貴方と共に夢に紛れる我が身となってしまいたい、という意味さ」

「切ない歌だな」

「はは、だろう?でもこの『若紫』の物語自体は青年が手児奈を見初めて勾引わかし、己好みの女に育て上げるという粗筋なんだけどな」

それを聞いて感慨深そうな表情をしていた"私"が途端に苦虫を嚙み潰したような表情になった。「歌はいいのに、物語のせいで良さを損なっているような気がするな...」

「そうかな。おれは好きだな、この和歌。夢の中にあなたと消えていきたい、だなんて魅力的な殺し文句じゃないか。なんだか頽廃的だ」

「ぼくはあんまり。ぼくだったら『たとえ会うことが難しくてもまたあなたと会いたい』って詠むだろうな」

「面白みのない歌だなあ」

"彼"がけらけら笑いながら言うと"私"はほんのり顔を赤らめて「うるさいよ」と返した。瑠璃色の空はいつのまにか西の方角に向かってだんだんと明るくなり始めていた。

「夢だからこそ、現実ではできないようなこともできるんだろう。現実で二度と会えなくても夢でなら会えるし、なんならこれまで言えなかったことだってきっと言えるんだ」

「そうかな?」

"私"の返事に対して"彼"の「そうだよ」という声はざああ、という桜をそよぐ風によってかき消されてしまった。つむじのように巻き上げられた桜色が"彼"の傍らで散る。

「それに、『夢の中に往く』って考えようには『死』のことだとも解釈できるよ」

先程に比べるとその声は弱弱しかった。空には雲ひとつないはずなのに辺りが少しばかり翳ったかのように感じる。

「死?おだやかじゃないな」

「穏やかな死だってあるじゃないか。強烈ではあるけれどすべてが残酷なものではない。死というのは人間の記憶に大きく刻まれる。肉体が消滅してしまえば死という概念は残るが、記憶さえ持っていればその人間自体が"死ぬ"ことはないんだ。人の記憶、すなわち"夢の中"で人は永劫に生き続けるんだ」

"彼"の声が野干玉を落とした暗闇の木々の間で反響した。

「なんだか哲学的でむずかしいな」

「そのうちわかるよ」

首をかしげる"私"に対して微笑みながら"彼"を見届けるとふたたびざああ、と先程よりも大きい音を立てて風がそよいだ。舞い上げられた花びらの桜色で視界が染められ、それと共に音も残響となって渦巻く。視界が桜一色に融けていく。この夢から覚めてしまう。手を伸ばせば届くのではないかと思ったが視覚以外の感覚はなぜか無く、己の躰が達磨になってしまったかのようだ。なぜ"彼"はあのようなことを言ったのだろうか。『夢の中では人は永劫に生き続ける』だなんて。私はなぜこんな大切な記憶を忘れていたのか。はたまたこれは本当に私の記憶なのか。わからない。何もわからなかった。問いかけても答えてくれる者はいない。"彼"は、もういないのだから。

ちりりん、と御簾の上げられた庭先から吹き込んでくる仄かな風でそよいだ風鈴が涼しげな音を奏でた。

庭先には瑞々しい若葉に紫羅欄花が咲き誇っている。夏も終わろうかというのにいまだに五月蠅い蝉の音が絶え間なく聴こえるせいでこちらの気分は萎えてしまいそうだった。しかし向こう側に広がる晴朗とした行き合いの空を見ているといくらかそんな憂鬱な気分も吹き飛ぶ。

うっかり手を伸ばせば落ちてくるんじゃないかと思うような天の空だ。そんな具合が悪くなるほどの青にあてられたせいなのかは分からないが、今日の目の前の"彼"は小康状態のようだ。今は上体を起こし、ただ共に外を眺めている。昨日よりも肌に色みがさしているように感じる。もしかしたら思い違いかもしれないが、事実調子がいいのだからとりあえず思い違いでもいい。今このときは。

「来なくていいって言ってるのに」

「まだ言うのか」

「顔を見たらますます名残惜しくなってしまう」

"彼"はそう言いながら笑うが、"名残惜しい"という言葉がどうにもひっかかった。"名残惜しい"とは別れることを前提とした、すなわち"己の死期を悟った"故に使った言葉だと考えた。たしかに労咳ならば図らずとも己の死が近いのだと痛感させられることになるだろう。しかし私は"彼"にできるかぎり死への達観や、生きることへの諦念を感じさせたくはなかった。そして私に対しても言ってほしくはなかった。なんと身勝手な思いかと言われてしまうかもしれない。それでも今、"彼"の口からそれを聞くにはあまりにもしのびなかったのだ。それを耳にするたび、どうにも生きた心地もせずただ顔じゅうを掻き毟りたくなるような激情が湧いてくるだけである。

「ここに来る途中、"あいつ"に会ったか?」

あいつ、とは"彼"の弟のことだ。

「ああ、そこで少しね」

「どうだった。あいつは愛想よくしていたか」

「はは、心配しなくても"彼"は礼儀正しかったよ。ちゃんと挨拶もしてくれたしな」

礼儀正しかったのは本当だ。しかし"表面上は"といったほうがなお正しいだろう。ここに来る途中、廊でちょうど"彼"の弟と鉢合わせした。そこで簡単に挨拶を交わしたのみだったのだが、その時の素ぶりは顔見知りですらない赤の他人に向けるような様子だった。"彼"の弟は"彼"が病臥しはじめたころからしだいに私に対してよそよそしくなっていった。今ではすっかり他人行儀。出会っても挨拶のみだ。以前ならば睦まじく会話するほどの仲ではあったはずだ。今となってはすっかり他人の面を貼りつけられてしまっている。

「それ、弟が持ってきたのか」

「ああ、この前話したら獲ってきてくれてな」

枕元の盆の上に水差しとともに獲れたばかりの唐柿がのっていた。少し前に、"彼"が話していた唐柿だ。

「よく熟れているな」

私がそう言えば"彼"は「ああ、すごくきれいだ」と和やかに笑った。"彼"は前からこんな風に笑うのだっただろうか。元から花が咲いたような笑顔だったが、今は同じ笑顔でもどこか愁いをおびている。冬ごもりを終えて地表に出てきた虫たちのような弱弱しさと温かさと、すこしばかりの希望。私はこの笑顔は好きじゃなかった。"彼"の横顔は外からの陽光でただでさえ青白い肌がますます白くなり、ぼうっと浮かんでまるで幽霊のようであった。

私はそこで革鞄の中の物の存在を思い出した。今日はこれを見せたくてやってきたのだった。

「なあ、今日は本を読んでやろうか」

鞄の中から取り出した一冊の本を"彼"に見せた。表紙には油絵によって描かれた少女がいる。私の屋敷の蔵で見つけてきた、普魯西の絵本だ。稺いころ、繰り返し読むほど好きだった本である。

「覚えているか?」

"彼"は表紙を凝視してしばらく考えるような素ぶりを見せたあと「昔読んでいたやつか」と言った。"彼"も一緒に読んでいただけあって覚えているようだった。

「どうしてそれを」

「たまたま家の蔵で見つけたんだ」

たまたま、というのは嘘である。"たまたま"本の存在を思い出したという意味では正しいが、わざわざ埃まみれになりながら蔵の中を探したという意味では誤りである。たまたまでも長らく忘却していたこの本を思い出すことができてよかったと思う。おそらくこんな時ではないと見せる機会もないだろうから。

「あまり長居しないほうがいい」

「私にここにいてほしくないのか」

「そういう意味じゃない。うつしてしまったら大変だ」

"彼"は私が来るといつも『うつすといけないから』などと言って長居させないようにする。純粋に私のことを気遣っているのだろうとは思う。"彼"は己のせいで他人に苦労をかけることを執拗に忌避するきらいがある。万が一にでも労咳をうつしてしまったらと、気が気ではないのだろう。これが病のことではなかったのなら私は「大丈夫だ」と笑い飛ばしていただろう。しかし今となってはそれも不可能な話だ。なぜこんなことになってしまったのだろうかと考える。はじまりは単なる咳だった。最初のうちは微恙だから醫者にかかる必要はないだろうと、そう言っていた。しかし一月を過ぎても咳はおさまることがなく、むしろ日に日に悪化していった。その頃にはちょっとした鬼胎だったものが懐疑へと変わっていった。ただの感冒だと、杞憂であってくれと願ったが祈りむなしく"彼"は『結核』だと診断された。

過ぎ去ったことなどもうどうでもいいのだ。いくら悔んだところで時は戻らない。ただ、これからどう過ごしていくかを考えていくのみである。

いまだに表情を曇らせて私を気にかけている"彼"に向き合って笑う。

「そんなに時間はとらないから。少しだけ、いいだろうか」

私がそう言うと"彼"は眉を下げて笑った。黙ってこちらに視線を向けたままなので恐らくしぶしぶと、言った感じではあるが納得してくれたのだろう。"彼"は頑固で自分が決めたことではてこでも動かないところがあるが、私がこうして下手に出て恃み事をするといささか不服そうな顔しながら引き下がるのだ。返事すらしないのは" 彼"なりの反抗だろう。"彼"の声のない反駁に動じないのも説得させる手練を心得ているのも長年の交際によって互いを知悉しているからだ。

それはさておき、了承を得たので本を開いてみる。本の内容を説かせるには読んで聞かせるてやるのが得策だろうと、版面に書かれた文字を声で紡いでいく。ゆっくりと静かな声色で、言葉の意味を咀嚼するように読む。

物語の粗筋は、上流階級の娘が貴族の夜会で歳の近い少年と出逢い、ダンスを踊ったり夜会を抜け出したりしてともに過ごすうちに互いに惹かれあい婚約を交わすという結末のものだ。物語の中にところどころに貴族社会での礼儀や作法に関する記述がさしこまれている。おそらく物語の主人公と同じ小さな淑女たち向けに作られたものだということがわかる。

主人公たちが貴族の子供ゆえの悩みや苦しみを吐露しあう場面や、自由な結婚を許されない貴族の娘に『婚約を交わす』などという夢を見させるような結末。現実と理想の食い違いの指摘や子どもが成長して現実を知っていくことをすすめているかのような物語だ。大人になって、『あの物語はなんだったのか』と失望するか、しょせん子ども向けの物語だと軽んじるかそのどちらかだろう。

読み終えて本を閉じると、聞かせているあいだ一言も口を開かなかった"彼"が言葉を発した。

「なつかしいな」

「昔はよく飽きもせず読んでいたよな」

同じ富裕層の子どもとは言え、女児向けの絵本をよくもまあ繰り返し読んでいたなとつい感心する。しかし"彼"の言葉の意図は違うものだったらしく、「いや、そうではなくて」と続ける。

「むかし、この本のようなことをしたなと思い出してな」

その言葉で私の脳裡にある記憶が甦った。この本を飽きもせず読んでいたころのことだ。侯爵家同士の交流を目的とした夜会に両親に連れられて来た日のことだ。

侯爵家同士の交流を目的とした夜会に両親に連れられて来た日のことだ。大人たちの社交に退屈して私たちは二人だけで夜会を抜け出した。童心ながらこの本のようにダンスを踊るなんて優雅なことはなかったが、大広間から離れた空き部屋で見つけた小さな蝋燭の火の傍らでひたすら談話した。それまであまり縁のなかった煉瓦造りの洋館や豪壮なシャンデリアや奇妙な形をした壁と柱、肖像画がいくつも飾られた画廊に昂奮したせいかいつもより会話が弾んだことを覚えている。

「そういえば、そんなこともあったな。今の今まで忘れていたよ」

「なぜか、記憶のひと部分だけ鮮明に覚えているんだ。月の美しい晩であったこととか」

過ぎ去った記憶というものは美化をしやすい。私はそのことを覚えていないが、もしかしたら"彼"の思い違いで月なんて出ていなかったかもしれない。しかし月の美しい晩に社交場を抜け出す、というのもなかなか乙なものである。ひいては相手が"彼"ともなれば喜びはひとしおだ。どんな月でも"彼"と一緒に見るのなら美しい。

それにしても記憶のひと部分だけ鮮明に覚えているなんて不思議なものである。私は断片的に残っている記憶を思い起こそうとする。煌びやかなシャンデリア、喧噪に包まれたダンスホール、途切れることなく聞こえてくる楽団の演奏、そこらじゅうの人々の視線、人々の間に見えた燕尾服の黒い影―――

そこまで思い出して私は汗が玉のように吹き出すのを感じた。拍動が早くなり体じゅうが熱い。なにか、いやなことを思い出してしまったような不快感だ。とにかく今はあの光景を忘れようと試みるが何度もちかちかとフィルムのコマのように同じ光景が流れていく。いや、そんなはずはない。そのようなことはきっと有りえない、と考えを振り切ろうとするがそう考えるほどに"頭の片隅に長らく眠っていた記憶"がどんどん鮮明になっていった。なぜ思い出してしまったんだ。いや、思い出さなくてよかったことだ。ずっとこの先思い出さないほうが確実に私も、"彼"も幸せなはずだった。違う、違うんだ。違うからもう見せないでくれ、思い出させないでくれ。そう必死に踠いていると、そこには"何も"なくなっていた。

ゆらゆらと行燈の火が揺れる。蔽いに映った小さな陰翳が影絵のように動いている。行燈の灯りがあるのみであたりは暗く、何も見えなかった。"また戻ってきた"のだと気づいた。

こうなるたび私はどうしようもない喪失感と虚無感、そして筆舌に尽くしがたい悔悟心に襲われる。逃れることもできなければ、逃れてしまえばまた違う苦しみに襲われる。そしてその苦しみから逃れるのはなにより"彼"に対する冒瀆であった。

私は罪を犯した。罪を犯したことを自覚していながらその事実から逃げ、あろうことか己を正当化し忘れようとした。許されるはずのない罪だ。

"彼"にとっての死魔は、疫神は"私だったのだ"。私が運んできた"災い"がもとで"彼"を死の淵へと誘うことになったのだ。私はあの後"私がやったこと"について知っていた。しかしあろうことか私はそれを看過した。"彼"はそのことを知っていたのだろうか。いや知っていようが知っていないが私がそれに気づく術はないのだからもうどうしようもない。

"彼"は私に『記憶さえ持っていれば人は死なない』、『死んでも夢の中で人は生き続ける』だなんて言った。何を思って私にそのようなことを言ったのだろう。"彼"はすべて見通していたのだろうか。"彼"の言う通りだった。"たった一つの記憶で人間を縛ることができる"のだと。私は今になってようやくわかったのだ。

愚かなことだった。私は永劫の中で終わることのない"地獄"を味わい続けている。これが私への"罰"であった。輪廻転生もなければ、邪鬼になることすらない。"彼"が出てくる夢を見続けることが、千本の針で刺されることよりも火の海に投げ込まれることよりも何よりも重く苦しい"罰"であった。

『死なないでくれ』とか『どこにも行かないでくれ』だとか、私にはそのようなことを言う資格はなかったのだ。仏の道から悖る行いをしたのだから、当然のことだ。

そこまで考えて次第に視界が霞み始めていることに気づいた。視線の端にあたたかな光が映る。その傍らに私が手を伸ばそうとしても届くことのない"夢"が虚像のように浮かんでは消えた。

次はもう何回目の邂逅だろうか。今度は前よりも優しい夢であるといいと願いながら瞼を閉じた。また、無邉の夢が始まる。

 

山眠る 2

 しかし、何を考えたところですべては無駄なことである。死はどんな形であれ死である。今となっては骨片となってしまった人間が蘇るなどということはない。没薬はかつては木乃伊を腐らせないよう用いられていたようだが、没薬の香を焚いたところで骨片が骨片であることに変わりはない。"彼"が死んでとうに袖の露などに乾くほどの時が経った。人間とは真に愚かな生き物で、軒並みの表現をすれば"己の目の前から消えて初めてその者を大切さに気付く"という浅ましさがある。私は"彼"が生きている間にそれに気づくことができなかった。今さら悔悟したところで贖うことはできない。生きるとは罪悪である。死とは罰であり、救済でありそして何よりの祝福である。この世を生きる人間が救われる方法は、やはり死しかないのだ。

私は中陰壇に近寄って骨壺に手を伸ばした。骨壺に触れるなど無作法だ罰当たりだと言われようが構わない。普段なら厳格に守っているはずの教えさえ破って、この感傷に浸りたいと思ったのだ。白布に包まれた四角い小さな棺をこの腕に抱いた。"死"という事実が入れられただけの棺は冷たく何の感慨も伝わってこない。ただ、冷血な証明がそこに横たわっているのみ。それはきっと、"彼"が骨に変わってしまったのと同時にこの棺に"彼"への思いすべてをしまい込んで封殺したからだと思った。そのはずなのに、元来なら"思うことさえ"許されない思いのはずなのに棺を抱き締める腕に力がこもっていく。

嗚呼、どうして。どうして君は私を置いて往ってしまったのか。私たちは何があっても共に居ると、そう誓い合ったはずなのに。君が金烏であるなら私は玉兎で、君がいなければ存在することさえ叶わないのに。君は私の人生において玻璃のように光を与え、照り渡る赤日から守ってくれる緑陰のようで、はたまた終日傘の中で肩を並べて雨注ぎの響きを眺めていたいようなそんな存在なのだ。私が死魔であるなら、私は君を骨になんかしたりしない。私は君と一緒なら怨霊になってこの世を彷徨い続けるのも、九泉へと旅立つのもどちらでも構わない。せめて君と死ぬことが叶わないならこの骨を砕いて粉にして飲んでしまいたい。それは私の薬となり糧となり血肉となり"私自身"となるのだ。食人嗜好などないし、他の人間の骨など興味もない。しかし君の骨であろうと肉であろうと、それが君の一部であるなら悦んで飲み干そう。一片たりとも他の人間だろうが死魔だろうが疫神だろうが閻魔だろうが渡してやる気はないというだけだ。

せめて、私があちらに行くことが許されないならせめて彼が福地の園に行けると約束してほしい。ただそれを願うことしかできない。私は棺を抱えたまま手を伸ばし、香炉に挿してある線香をとり火を消した。こうしてまた、私は"彼"を殺すのだ。

"彼"は申し子であった。なにも特別な霊力を持って生まれたわけではない。ただ、神に祈って生まれてきた子供という意味だ。"彼"の両親は恋愛結婚ではないにも関わらず、非常に仲睦まじく枝を交わせている夫婦だった。しかしそんな夫婦仲に反して"彼"の両親はなかなか子宝に恵まれなかった。"彼"の実家は室町から続く五摂家の一つで由緒ある侯爵家だ。ただでさえ民衆の好奇の目に晒されやすい華族あるが故、両親は様々なあらぬ下馬評を投げかけられることとなった。夫の方は貴族院の議員だった父("彼"の祖父である)が陞爵しても大して変わらない給与に不満を抱き、辞職した後息子に自身と同じ思いをさせたくないという情で宮内省の官僚になるように圧をかけられ、親族から悉く浴びせられる期待に気圧されて不能になってしまっただとか。妻の方は家お抱えの運転手や庭師などの数々の男性使用人との不貞をはたらいているだとか、そういった謂れのない噂ばかりが囁かれた。特に"彼"の母親は(私も写真で見せてもらったのだが)末摘花のように淑やかな柳髪の清し女だった。張りのありそうな和膚に瓜実顔で扁桃型の凛とした目元。銀幕の向こうでしか見られない、まさに一流女優のような容貌であったがために噂の信憑性を濃くしてしまったのだった。

両親は親族たちや世間から白眼視され、社会的な地位を失うことを恐れて一刻でも早く子を授かれるよう努めた。それでもなおのこと授かれないので神仏に救いを求めた。生家から三里ほど離れた、あたりで一番高い山の上に立つ神社に赴いた。その神社は遠く過酷な道のりにあるにも関わらず子宝成就で有名なことから多くの夫婦が訪れているという。両親は持てるだけの奉加銀を携えて参拝した。それからひと月ふた月してめでたく懐妊したという。その懐妊した子が"彼"ということだ。両親が後に言うには、母親が懐妊の報せを知る前夜に枕元に影向が現れて受胎を告げたらしいがそれを聞いた私と"彼"はそれじゃあまるで基督教の聖母の≪受胎告知≫のようではないかと笑っていた。じゃあ、母親は処女懐胎か?などとふざけて言いながら。"彼"は母親似だったのではないかと思う。いやしかし父親にもどことなく似ている。東洋人にしては高い鼻や白い肌は母親譲りではないのかと思う。(鼻はともかく白い肌は病床に臥せっていた時の印象で上書きされているんじゃないかとも思ったが)

そうして"彼"は由緒正しき侯爵家の継嗣として生を受けたのだが、"彼"は境遇ゆえに奇妙な環境に置かれることとなった。前述の通り"彼"の祖父は自身の息子を貴族議員ではなく宮内省の官僚になるように圧をかけ(圧などというには若干の誤謬があるのだが便宜上圧と言わせていただく)息子は当然ながらしかし渋々といった感じでそれに従い宮内省の高級官僚となった。孫である"彼"も自身の望む通りに動かそうと目論んでいたようだった。"彼"を父親と違って学者にさせたがっていたようだった。"彼"が国語の試験で満点を取れば、きっと将来は言語学者か文学者だなどと意気揚々と言ったらしい。それ限りのことではなく、"彼"が読書をしていたり知らない熟語を辞書で引いているのを見かければそのたびに同じことを言うなど、ある種痴呆を疑うようないささか常軌を逸した圧をかけていたようだ。幼目から見ても"彼"の祖父は"彼"にとって繋累としか映っていなかっただろう。そのうえ"彼"の母親が流行り病で急逝すると、それに拍車をかけるようにますます圧が強まった。その祖父の期待に応えたのかは分からないが、"彼"は蛍雪を怠らず学業では常に首席を維持し続けた。どの分野においても白眉の才を持つ"彼"を教師たちも親族たちも揃って称賛し、将来はさぞ大物になると、さすが侯爵家の長男だと言った。

しかし、それらの称賛を受け止め謙遜している笑みの裏で"彼"の精神はかなり蝕まれていた。親族や世間の期待を一身に受けるというのは並大抵の胆力で出来ることではない。過度な賛辞と翹望は人間を堕落させる。それは思春期の"彼"にとってあまりにも重たく、自身を桎梏するものでしかなかったのだ。私も"彼"と同じく侯爵家の長男だからその苦しみが嫌でもわかった。手児の頃から兄弟のように育ち、苦楽を共にし、立場が同じであるからこそ私たちは鈴の音が共鳴するかの如く互いを必要とした。まさに肝胆相照らす。臓器のひとつひとつが揃っていなければ正常に働かない人体のように、全身に血を行き渡らせるために心臓が動いているようになくてはならない、そして共にあることが当然である仲であった。

私はきっと何度でも己の行いを悔い、恥じるだろう。なんど夏が巡って来ようが、秋が過ぎ去っていこうが、冬に置いて往かれようが、春を忘れてしまおうが私は幾度でも"彼"の死を思い出し挽歌を認めるのだ。

 

山眠る 1

人の命とはゆるやかに消えて行くものである。

死期が近づいていると気づいたその玉響にはもうすでに物言わぬ骸と化している。

"彼"もあっという間に死んでしまった。"彼"は労咳だった。発症してからほんの数か月で病という名の魑魅はいともたやすく"彼"を死の淵に引きずり込んだのだ。

いつだったか、"彼"の弟は"彼"を山のようだと言った。暖かな光がさして様々な植物が芽吹き、常に美しい緑青に彩られている姿はまさにいつも浮かべていた日輪草のような愛しき笑みのようで。常にそこに在る山々のような闊達とした心、そしてころころと変わるその表情は四時によって姿を次々と変えていく緑のようでまさに言い得て妙だなっと当時は思った。しかし今はその言葉を一つの呪いのように感じてしまう。秋になれば山は煌々とした紅葉によって染められるが、冬に近づけばあっという間に散って枯れた山肌が露となる。それはまるで山全体が死に向かっていくようでそれとない頽廃を感じさせるのだ。"彼"もその冬の山のように死んでいくのだと揶揄されているような気がしたのだ。もちろん、"彼"の弟はそんなつもりで言ったわけではないだろうし悪意がないということは分かっている。それでもいちど呪詛として体現したそれをはらうことは出来ず心の奥底に渣滓のように留まり続けている。"彼"の弟も此方の心情に気づいたのかは知らないが、以前は毎日のように屋敷に顔を出していたのに"彼"の死と共に次第に足が遠のいていってしまった。

私は只、風が吹き荒ぶ物悲しい水石を眺めながら夢想した。"彼"と言葉を交わしたあの夏の日のことを。

五月蠅いほど鳴いている蝉に雲一つない澄清、庭先に鮮やかに咲く葵葛や紫羅欄花。どこまでも美しくいきいきとしたその風景とは真逆に痩せ細った青白い顔で臥せっている彼は庭先の緑に生気を吸い取られたかのようだった。

かつては凛々しく覇気に満ちていた顔もすっかり浮舟のように頼りなく、今にも死んでしまいそうな様相だ。

"彼"の蒲団の横に物音立てぬよう静かに腰を下ろせば、彼は閉じていた双眸をゆっくりと開いた。

「ここには来ないほうがいい。うつるぞ」

ゆっくりと、息とともに吐きだすように言の葉が紡がれる。"彼"は自分が苦しんでいようが私のことをいつも心配する。たとえ、自分の死が近づいていようとも。

「気にするな」

双眸をじっと見つめて必死に言葉を返す。私は"彼"とは違って息災なはずなのに出てくる言葉は"彼"と同じように苦しそうで拙い。こうして臥せっている"彼"と会話をするときはいつもこうだ。用意してきた言葉も覚悟もすべて塵のように消えてゆく。折角今日は以前のように普通に話をしたいと思っていたのに、返す言葉がたったこれだけなんてなんと浅ましいことか。

「今年も唐柿がたくさん成っているなあ」

"彼"は私が口をきくのを憚るように言った。笑っている。しかしどことなく私にあまり話させたくないように見えた。

"彼"の視線の先にあるのは艶々とした銀朱に輝く唐柿だった。

数十年ほど前に欧羅巴から伝来した水菓子で数年前からこの屋敷の菜園でも栽培しているのだった。"彼"は新しく、物珍しいものをたいそう気に入っていたため水菓子の中でも唐柿が特にお気に入りだった。

硝子戸が開けられ、簾も上がっているため庭先を難なく見渡すことができる。これは恐らく"彼"がなるたけ養生しやすいように女中が気遣ってやったことなのだろう。しかし炎陽の光を浴びて爛爛としている唐柿と蒼々と生い茂る草花を今の"彼"に見せるのは、手を伸ばしたくても伸ばせない憧憬に焦がれさせるだけの残酷な厚意である。簾の向こうを見つめる"彼"の横顔はどこまでも虚無だ。湖に浮かんだ一艘の舟がただそこに漂っている。行き先もなく理由もなく"存在しているだけ"のそれがものすごく儚い。

「おれは大丈夫だから、もう帰ったほうがいい」

"彼"は柔らかく笑いながらそう言った。ここに居て欲しくないから、というよりは純粋に私のことを気遣って言った様子だった。これ以上留まったところで埒が明かないと思って今日はひとまず帰ることにした。蒲団からわずかに覗いた彼の肱は、前よりもか細く青白くなっているように思えた。

空が銀朱に染まる秉燭のころ、そろそろ灯りを燈そうかと燐寸を取り出す。石油ランプが普及して久しいが日本造りの屋敷では異国生まれの耿耿とした灯より祖国生まれの仄かな灯のほうが性に合っているため、この屋敷では石油ランプより行燈を使うことのほうが多かった。燐寸でおこした火を油を入れた火皿の灯芯にともして覆いの中に入れる。夏が終わり、秋もあっというまに過ぎ去っていくこの季節は陽が沈むのも釣瓶落としのように速い。野山の錦も次第に侘しくなっており、庭先の木々は裸に剥かれた枝扇が曝されている。"彼"の命が尽きるのも桐一葉の前だった。"彼"は灯芯をゆっくりと溶かしながら燃えていた灯りが、しだいに弱まって静かに消えていくかのように死んだ。

秋の日を思うのと同じように蝋燭に火をつけるといつも"彼"のことを思い出した。あの夏果の神とともにやってきた青嵐の響きも、鮮やかな晩夏光も、雲の峰が轟く碧霄もすべては"彼"の死を賤しめるものにしか思えないのだ。夏終わりの収穫期が近くなれば、"彼"は毎年屋敷近くの農園の萃果を楽しみにしていた。「今年も良いのが成っていたらいいな」だなんて笑っていた。しかし、収穫された萃果を口にすることはできなかった。思い出せばきりがない。思っては消え、思っては消えを繰り返してすべては珪砂のように消え落ちていく。"彼"の青白い肌、痩せこけた頬、蒲団から放り投げだされたか細い腕が何度も脳裡によぎる。くれぐれも忘れるなと言っているのかのように想起させる。鮮明でありながらあまりにも静謐な強烈さを伴ったそれを受けとめるのは今の私には枷としかならなかった。

ふと、行燈の火の向こうに見えた物に目を向けた。仏壇の傍らにひっそりと中陰壇が鎮座している。遺影や位牌、そして骨壺に入った遺骨がある。仏壇の三具足も中陰壇もいつも通り整然としている。特に香華は、定期的に使用人が花を取り替えているのでいつ見ても恭しい樒が飾られており、四十九日の間日ごと絶やさずに焚いている線香は少し前に麝香から没薬に変えたものだ。麝香も没薬も刺激の強い薫りだが、私としては麝香より没薬の木のような温かみのある薫りが好きだった。仏壇の仏飯器の中身はすでに片付けられているが、線香の火は朝からずっと焚かれ続けている。

たまに、こうして夕刻ごろに彼の生家の仏間へと赴いて線香の火を消させてもらっている。元来ならば使用人の役目だが毎日はむりでも数日に一度、火を消す役目を担わせてほしいと頼んでのことだった。線香の火を消すのは、自ら申し出た務めであってもいつも心苦しいものであった。先程も述べたが、蝋燭の火とはすなわち命のメタファーである。人間とは有涯であるからこそ儚く美しいと言うが、病によって斃れたであれ不意の事故であれ、はたまた寿命による大往生であれすべからく嘆き悲しむべきものである。死ぬことでしか救済を得られないという考えもあるが、おそらく多くの人間は死を忌憚しているはずだ。すでに命尽きているものであれど、火を消すたびに"彼"の命も己の手で消してしまっているかのような気がしてならないのだ。何度も、何度も私は"彼"を殺してしまっている。私が嫌って身隠していたはずのことをやっているのだ。死魔はいともたやすく空蝉を慫慂し、己が往くことを許さぬ後の彼岸へと連れて行ってしまったのだ。往昔の伝承に『縊鬼』という人間に取り憑いて縊死させるようにする物の怪が或る。縊死ではないが、死魔は疫神で"彼"が病で死ぬように憑いたのではないかと、そう考える。

 

山眠る(ワンライver)

人の命とはゆるやかに消えて行くものである。

死期が近づいていると気づいたその玉響にはもうすでに物言わぬ骸と化している。

"彼"もあっという間に死んでしまった。"彼"は労咳だった。発症してからほんの数か月で病という名の魑魅はいともたやすく"彼"を死の淵に引きずり込んだのだ。

いつだったか、"彼"の弟は"彼"を山のようだと言った。暖かな光がさして様々な植物が芽吹き、常に美しい緑青に彩られている姿はまさにいつも浮かべていた日輪草のような愛しき笑みと常にそこに在る山々のような闊達とした心、そしてころころと変わるその表情は四時によって姿を次々と変えていく緑のようでまさに言い得て妙だなっと当時は思った。しかし今はその言葉を一つの呪いのように感じてしまう。秋になれば山は煌々とした紅葉によって染められるが、冬に近づけばあっという間に散って枯れた山肌が露となる。それはまるで山全体が死に向かっていくようでそれとない頽廃を感じさせるのだ。"彼"もその冬の山のように死んでいくのだと揶揄されているような気がしたのだ。もちろん、"彼"の弟はそんなつもりで言ったわけではないだろうし悪意がないということは分かっている。それでもいちど呪詛として体現したそれをはらうことは出来ず心の奥底に渣滓のように留まり続けている。"彼"の弟も此方の心情に気づいたのかは知らないが、以前は毎日のように屋敷に顔を出していたのに"彼"の死と共に次第に足が遠のいていってしまった。

私は只、風が吹き荒ぶ物悲しい水石を眺めながら夢想した。"彼"と言葉を交わしたあの夏の日のことを。

五月蠅いほど鳴いている蝉に雲一つない澄清、庭先に鮮やかに咲く葵葛や紫羅欄花。どこまでも美しくいきいきとしたその風景とは真逆に痩せ細った青白い顔で臥せっている彼は庭先の緑に生気を吸い取られたかのようだった。

かつては凛々しく覇気に満ちていた顔もすっかり浮舟のように頼りなく、今にも死んでしまいそうな様相だ。

"彼"の蒲団の横に物音立てぬよう静かに腰を下ろせば、彼は閉じていた双眸をゆっくりと開いた。

「ここには来ないほうがいい。うつるぞ」

ゆっくりと、息とともに吐きだすように言の葉が紡がれる。"彼"は自分が苦しんでいようが私のことをいつも心配する。たとえ、自分の死が近づいていようとも。

「気にするな」

双眸をじっと見つめて必死に言葉を返す。私は"彼"とは違って息災なはずなのに出てくる言葉は"彼"と同じように苦しそうで拙い。こうして臥せっている"彼"と会話をするときはいつもこうだ。用意してきた言葉も覚悟もすべて塵のように消えてゆく。折角今日は以前のように普通に話をしたいと思っていたのに、返す言葉がたったこれだけなんてなんと浅ましいことか。

「なぁ、」

"彼"は私を見つめながら"いつも通りの"くしゃりとした笑顔で言った。

「おれが死んでも、気にするなよ」

"気にするな"という言葉にずきりと胸が痛んだ。私には"彼"がなぜそのようなことを言うのか理解できなかった。"彼"が優しさで私への気遣いとして言っているのは理解できる。しかし、今の私にそれを告げるのはあまりにも残酷なことだとは思わないのだろうか。

「気にするな、なんて言うくらいなら」

私は言い返さなければならないと思った。"彼"に先程の言葉を訂正させねばならないと、そう思った。

「死なないでくれ。、どこにも行かないでくれ」

今にも切れそうな絲のようにか細い声はちゃんと届いたのだろうか。この言葉をかけたとき、"彼"とうに私の手の届かないところにいっていたのかもしれない。

二度と手を伸ばすことも声をかけることもできない"誰か"のことを想いながら、白い棺を抱き締めた。

 

碧眼の怪物

その碧眼は知っている。わたしが彼を畏れていることを。

その碧眼は知っている。わたしが正直者ではないことを。

その碧眼は知っている。わたしが真人間ではないことを。

その碧眼はわたしに教えている。彼が人ならざる者であるということを。

いつだって彼はわたしに真実を教えようとはしない。只笑って仮面の下に隠すだけだ。今日も倫敦の街だけが、彼の善悪も美徳も知っている。

造花の約束

 春は妖精の季節だと思う。

フリージアネモフィラ、チューリップ、ガーベラ、カーネーション、すべての花に春の妖精が宿っている。

妖精は陽気に誘惑されてやって来て、息吹と恵みを与える。妖精というものは多くの人間が想像する通り愛らしく、善良な存在だと思うだろう。しかし、いつも人間にとって良い存在となり得るわけではないのだ。時に、その可愛らしい顔から牙を覗かせる。

あいつは妖精が嫌いだ。特に春の妖精が。あいつとはおれの親友のカイルのことだ。物心ついた頃からずっと一緒に居る、幼馴染というやつだ。

カイルとおれが十歳の頃、ある日突然カイルの声が出なくなった。それまでカイルは普通に声が出せていた。といってもカイルはどっちかというと寡黙で口数は少なかったが、喋る時はちゃんと喋るし声も出る。なのにその日を境に声がまったく出なくなってしまった。

最初はなぜ出なくなってしまったのか分からなかった。でもすぐに気づいた。春の妖精のしわざだって。昔、祖母がおれたちに教えてくれた。『春の陽気に誘われて、花の蜜を吸いに妖精がたくさん出てくる。ほとんどは人間に無害な妖精ばかりだけど、時に人間に悪いことをする妖精がいるから気をつけるのよ。特に”人の声を奪う妖精”にね』と。

当時の祖母の言葉が鮮明に甦る。妖精は人間が持っているものを羨んで、自分も欲しいと盗ってしまうことがあるらしい。おれがこんなことを言うのはなんだけど、カイルの声は綺麗だったと思う。まだ声変わりもしてなかったけど、透き通っていて耳に馴染みやすい声だった。そう思うのは、おれが近くで何年も聴き続けているからかもしれないけど。

カイルは自分の声が出なくなったことに気づいた時、大泣きした。カイルはいつも冷静で感情を表に出すことはあんまり無かったからその時はすごくびっくりした。カイルが声を上げて泣いているところを一度も見たことがなかったからだ。焦って、困ったような様子だったのに突然泣き始めたからおれは驚いて、どうすればいいか分からずにしばらくカイルの周りを右往左往していた。今となっては笑い話だけど、当時はおれはどうしたらカイルを泣き止ませられるかで精一杯だった。

おれの言葉も耳に入らなかったカイルはそのまま家の外に出て行ってしまった。だからおれも慌てて追いかけた。全速力で走って、ようやく追いついた先は近くの海岸だった。カイルは砂浜にぽつんと膝を抱えて座っていた。家の近くにあるその砂浜はおれたちにとって思い出の場所だった。砂の城を作ったり、シーグラスを見つけたり、浅瀬で遊んだり、色んなことをした。昔から何度も一緒に遊んでいた場所だから、カイルが真っ先に行く場所はここだろうとは分かっていた。

俯いて座り込んでいるカイルに、なにか声をかけようかと思ったがかける言葉が見つからなかったおれは黙って隣に座り込んだ。カイルは声を出せなくても、おれに何かを伝えようとしているのが伝わってきた。でも、今まで言葉を使わずにカイルと会話をしたことがなかったから何を伝えたいのかまではわからなかった。だから、カイルの伝えたいことを考えるんじゃなくておれが伝えたいことをカイルに言うことにした。

「突然声が出なくなったのはおれも驚いたし、カイルも怖かったと思う。もしかしたら二度と戻らないままかもしれない。今までみたいに話せなくなるかもしれない。けどさ、」

凪いだ海を見つめながら言葉を紡ぐ。相変わらず顔を伏せたままのカイルの様子はよくわからなかったが、わずかに肩を震わせたように感じた。

「これからもおれが隣にいるから大丈夫だ。他の人がおまえの言いたいことわからなくても、おれはおまえが言いたいことちゃんと理解するから。それでおれがおまえの助けとしておまえの言葉を他の人に伝える。だから大丈夫だ。声が出せなくてもおまえの伝えたいこと、わかるようになるから」

それだけ伝えておれはカイルを抱き締めた。丸まったダンゴムシみたいなカイルの首に顔を埋めて力いっぱい抱き締めた。ちょっと痛かったかもしれないけど、声が出せないカイルにおれが言葉で伝えるよりはこうして抱き締めたほうがおれの気持ちが伝わりやすいんじゃないかと思った。その後カイルはまた泣いた。これ以上泣いたことないんじゃないかってくらい、たくさん泣いた。

その日からカイルは声を失った。あれからカイルが声を出したことは一度もない。

カイルが声を失って数年が経った。宣言通り、おれたちは一度も離れずずっと一緒にいる。これからも離れることはない。おれがカイルの声なのだから。

何度目かの春が巡ってきて、おれはあの思い出の砂浜にやって来た。そこで予想通り、見慣れた背中を見つけて声をかけた。

「やっぱり来てたんだな」

おれの声に気づいて振り返ったカイルがオリー、と口を動かして言った。今となっては声に出さなくても唇の動きでカイルが何を言っているのかわかるようになった。いわゆる読唇術というやつだ。唇を見なくても、何が言いたいのかはだいたいわかったりもする。

カイルが振り向いたその腕には彩り鮮やかな花々が咲いていた。

「カイル、それ花か?」

そう訊ねるとカイルは首を縦なのか横なのかよくわからない振り方をした。カイルはずいっと花をおれの胸に押し付けた。

「これ造花か」

そう言うと今度は思い切り首肯した。生花と同じように包まれ、本物と瓜二つの様相をしている。花屋で本物と並んで飾られていたらきっと見間違えるだろう。

カイルはフリージアゼラニウムカーネーション、バラなどそれぞれの花の名前を教えてくれた。おれは花のことは詳しくないからありがたかった。しかし、なぜ突然カイルが造花を持ってきたのかは考えてみてもわからなかった。

「なあ、何で造花を買ったんだ?おまえ、花とか嫌いだろ」

おれがそう言うとカイルはぽかんとしたあと、何か考えるように目を泳がせた。しばらく考えて、ゆっくりと口を動かし始める。

『花はたしかに好きじゃない。でも、もしかしたら本物じゃなかったら大丈夫かなって思って造花を買ってみた。造花に妖精は宿るのか知らないけど、今のところ大丈夫だ』

カイルはあの日以来花を見るのも嫌になったようで、おれも出来るだけ花をカイルの視界に入れないようにして言葉にも出さなかった。だけど、本物じゃなくて偽物なら大丈夫だったなんておれはそんな発想もなかったし、このタイミングで持ってくるところがなんだかカイルらしいなと思う。

「でもこんなに綺麗だと、本物かと勘違いした妖精が寄ってくるかもな」

フリージアのざらざらした花びらを引っ張りながらおれが言うとカイルは困った顔をした。

「ごめんごめん。冗談だよ。たぶん、大丈夫だ」

根拠はないけれど、その言葉はその場凌ぎの美辞麗句なんかではない。今までも「たぶん大丈夫」で何とか乗り越えてここまでやって来たのだ。だから、おれとカイルなら何があってもたぶん大丈夫だ。

「本当にあれから数年も経ったんだなぁ」

おれがのほほんと言うとカイルもはにかんだ。あの頃からおれもカイルも背丈も伸びて、顔立ちもすっかり大人びてしまった。今はもう少年というより、青年だと形容する方が相応しい。

「声が出せなくても、案外なんとかなるだろ?」

カイルは頷く。

「おれがついてるならおまえは大丈夫だよ。これからも、ずっと一緒だ」

あの日交わした小さな約束が今ようやく芽吹いて花を咲かせている。愛する人と一緒にいられるなら、どんなことでも乗り越えられると教えてくれたのだ。春の妖精が運んで来た災いに、今となっては専ら悪いものでもなかったんじゃないかとおれもカイルもたまに思ったりする。春は妖精の季節だ。ちょっとよこしまで、愛しい季節だ。

 

通販サイトで購入した怪しげな香水使ったら職場の年下美形社員からモテモテになった話

その香水を見つけたのはとある通販サイトでのことだった。

いつも利用しているサイトの商品一覧ページを流し見しているとふと目に留まった。聞いたことのないメーカーのラベルも取り留めて特徴のないそれが、なぜか無性に気になった。

好奇心のままにクリックして商品詳細を見てみれば出品者情報や商品概要が最低限の説明しかなく、どこのメーカーのものかもよくわからない物であった。はっきり言えば明らかに"怪しい物"でしかなかった。しかし、なぜか私はそれに対する興味が抑えられなかった。本来ならばそんな怪しい商品を購入する気など起きずにさっさとブラウザバックしていることだっただろう。それなのに私の手は商品画像の右横にある購入ボタンをクリックしてしまったのだ。

それはおそらく、商品概要欄の『これを付ければ驚くほど異性にモテる』という一文に惹かれたからだろう。

それから数日後に無事手元に届いたのでその香水をつけてみた。結果から言うと、売り文句の通り私は驚くほど異性にモテはじめた。しかし、それは私が想像していたものとは少し違った状況となってしまった。

正直言って私はお世辞にも男性経験が豊富とは言えない。むしろ乏しいほうだ。顔立ちも決して整っていないし、おしゃれのこともあまり詳しくない。格好も地味で性格も内向的な私は昔から男性との接し方がよく分からなかった。男性慣れしてないせいか、私は男性と仲良くする機会にも恵まれず結果ほとんど恋愛経験もなく結婚もできず、巷間で言うアラフォーと呼べる歳になってしまった。

あの怪しげな香水に興味が惹かれたのも、もし本当に異性にモテることができたらという淡い願望のせいだ。実際にそんな効果があるだなんて普通信じないだろう。それでも、もしもの期待に賭けてしまったのだ。この歳で独身で恋人すらいないのは自分としても危機感があったからだ。もし効かなかったとしても鼻で笑って捨ててしまえばいいとしか思っていなかった。実際効果があったから嬉しいと喜ぶことができたなら良かったのだが喜びより、どちらかというと"困惑"のほうが勝ってしまっている。

この状況は他の女性が見れば"羨ましい"だとか思うかもしれない。しかし自分はそこまで望んでいるわけではなかった故に戸惑いのほうが大きい。なぜこのような状況になったのか、いまいち分からなかった。

まさか、自分がこのような状況に置かれるなどとは思わないだろう。"複数の年下男性から想いを寄せられる"なんて。

今日も通勤ラッシュの電車に三十分ほど揺られて会社に向かう。会社に行くのもひと苦労で毎度のごとく出社する前から疲れてしまっている。

オフィス街に建つとある保険会社の本社ビル。その経理部で私は働いている。今日もいつもと変わらない一日が始まる。はずだった。エレベーターの前でボタンを押して待っていると、後方に気配を感じた。その気配の正体を私は不思議と理解してしまう。

「浅田さん!おはようございます!」

ハリのある元気な声で名前を言われてついびくっと反応してしまう。やはり予想通り"彼"だ。

「お、おはようございます‥‥」

少々萎縮してしまいながらも何とか挨拶を返しながら振り向く。そこには爽やかな七三分けの美形社員が立っていた。彼の名前は木村孝。今年入社一年目の新人社員だ。同じ経理部なのだが、明るくて誠実な性格と爽やかなルックスから他の部署の女子社員から新人ながら絶大な人気を誇っている。

「朝から浅田さんに会えるなんて嬉しいです!」

彼はにこにこと人当たりのいい笑顔で言う。私にはあまりにも眩しすぎるそれを直視することができず目を逸らしてしまう。会った時はいつもこんな風に笑顔を向けてくれるが男性に耐性のないので今までちゃんと見たことがない。屈託のない笑顔を向けてくれる彼には非常に申し訳ない。

"以前まで"は挨拶をしたり、たまに事務的な会話がある程度だったのに最近はやたらと朝にエンカウントする率が高く、会えば挨拶だけでなく色々と会話するようになった。私のほうから話しかける勇気もないのでいつも彼のほうから話しかけてくれているのだが、なんとなく彼の目から"熱っぽさ"を感じることがある。恋愛経験が乏しい私がそういうのが機敏に分かるわけでももなく、以前までなら単なる自意識過剰だと思っていただろう。しかし確かにあの香水の効果がある以上、それは単なる思い過ごしでも自意識過剰でもない。

取り留めのない会話を交わしながらエレベーターが到着したので乗り込む。経理部は八階にある。出社前のこの時間はエレベーターを利用する社員が非常に多く毎回混みあっている。私と彼は人の波に押されてエレベーターの奥に押し込まれる。私が壁側にいるので自然と彼の顔が近くなる。体が密着しそうな距離感につい体温が上がっていくのを感じてしまう。

「やっぱりこの時間は人多いですね」

「そ、そうだね‥‥」

彼の言葉にもなんとか返事をしながら平常心を保とうとするが、イレギュラーな状況ゆえに普段通りというのは難しい。男慣れしていない自分にはあまりにも酷すぎる状況だ。

エレベーターが五階に到着すると彼の横にいた男性社員が降りようと動いた。彼の隣を通り過ぎるとき肩同士がぶつかってしまい、彼の身体が大きく揺れた。彼は慌てて手を壁について私にぶつかることは無かったが、そのせいで体は見事に密着してしまい顔もさらに近くなった。

「あ、す‥すみません‥!」

「あ、い、いえ‥‥」

彼は声を潜めながらも申し訳なさそうに謝罪する。その顔はわずかに紅潮しているのがわかった。彼のトレードマークともいえる屈託のない笑顔はどこへやら、珍しく動揺しているようで表情に余裕が無いのがわかる。しかしこういう時でも私はどういう対応をすればいいのかもわからず、ただ返事をするだけで俯いた。

ふと視線を感じて少し視線を上げると、かちりと彼の肩越しに若い女性社員と目が合った。彼女の視線は端的に"敵意"と"嫉妬"を表しているものだった。おそらく彼に好意を寄せている多くの女性社員の一人だろう。以前は全くなかったのに、最近になってやたらとこういった視線を向けられるようになってしまった。それはきっと、ただ単純に私が彼と親しくしているからという訳だけでなく、「なぜこんなおばさんが?」という疑問もいくらか混ざっているからだろう。人から敵意を向けられて平気でいられるほど私もメンタルの強い人間ではない。こうやって好意を向けられる状況をどうにかしたいのだか、どうにもできないのが現状であった。人の好意を無下にできるわけでもうまく躱すスキルなどない。すべては男性慣れしてないせいなのだが、年下の美形男子から好意を向けられるということ自体人生で初めての経験なので対処にこれ以上なく困るのだ。

なんとか八階に着き、経理部のオフィスに入る。自分のデスクに向かおうと歩いているとあるデスクに座っていた一人の男性社員に声をかけられた。

「浅田さん、おはようございます」

デスクを立って律儀に挨拶してくる彼の名前は井芹亨太郎。この経理部にてエースとも呼べる優秀社員だ。それに加えて筋骨隆々な身体と精悍な顔立ち、実直な性格が相俟って女性社員の好意の的となっている。

「あっ、浅田さんじゃないですか。おはようございまーす」

前方から近づいてくる男性社員が一人、柴村有人だ。井芹くんとこの経理部の双翼をなすエースだ。ウェーブのかかった髪の毛に気だるげな表情、すらりとした長身を台無しにしている猫背とダウナーな印象を受ける社員だが端正な顔立ちから女子社員には大人気である。そして井芹くんと同期で仲が良いのか、よく二人でいるところを目にすることが多い。

井芹くんと柴村くん、どちらも木村くんと同じくあの香水の効果で好意を向けられるようになった二人だ。

私はすかさず二人に挨拶を返したが、社内で絶大な人気を誇る美形社員三人に囲まれている状況で胃がきりきりと痛むのを感じた。それもオフィス中の社員(主に女性社員)たちからの視線のせいだ。疑問と敵意と興味が混ざり合ったその多様な視線は私にストレスをかけるには十分すぎるものだった。

すると、オフィス中の視線などものともせずに柴村くんが私の後ろにいた木村くんを見て声をかけた。

「あれ?お前また一緒なの?」

「そうですが、何か不満ですか?」

「何で毎日毎日浅田さんと一緒に出勤してくるわけ?お前絶対狙って時間合わせてきてるだろ」

「そんなことないです。たまたまです」

柴村くんの発言が元で柴村くんと木村くんが一触即発の空気になる。彼らがこういう応酬をするのはこれが初めてではなく、前々からこういった状況には何回かなっており、どれも私が関わることからだった。

「んなわけないだろ!てか前はもっと早く来てたのに、浅田さんと一緒に来るようになってから時間変わたってそういうことだろうよ」

「だから偶然ですって。時間が変わったのは気分です」

「だーかーらー」

「おいやめろ柴村。オフィスであまり騒ぐな。それと浅田さんが困っているだろうが」

木村くんの言葉が気に入らなかったのかむっと顔をしかめて反論しようとした柴村くんを井芹くんが諫める。正直私は仲裁に入れるほど器用ではないので、柴村くんの扱いを心得ている井芹くんに助けてもらうのは毎度のことであり非常に世話になっている。

井芹くんの言葉が正論だと思ったのか、柴村くんはしぶしぶといった感じで不満残った表情で黙った。しかし、木村くんは言い返さないと収まらなかったのか柴村くんに失言とも言える発言をした。

「柴村さんは僕と違って浅田さんと一緒に出勤できないから妬んでるんですよね?まぁ僕は浅田さんとすっかり仲良くなっちゃいましたからね。さっきも浅田さんと急接近しましたし!」

「えっ‥‥」

「え、急接近てなに」

「浅田さんに壁ドンしちゃいました!」

木村くんの言葉でオフィス中の視線が一気に私に集まった。彼らと関わるようになってからやたら複数の人間の視線を集めるようになってしまったのだが、いつまで経っても人から見られるというのは慣れない。このようなことで注目されるのはかなり不本意なので私としても非常に気まずい気持ちになる。

木村くん以外の二人に目を向けると、井芹くんは明らかに顔を曇らせており柴村くんにいたっては今にも噛みついていきそうな犬のように唸っていた。

「は?壁ドン?何だそれ?無害そうな顔して浅田さんに手出したってことかよ?」

「事故ですから!故意じゃないですよ?」

木村くんは笑いながら柴村くんの威嚇を躱す。そもそも壁ドンって微妙に古くないだろうかと思ったが口に出す勇気もないため私は黙って見ているだけだった。

「ふざけんなよー!あー俺も浅田さんと接近したかった!密着したかったー!」

「残念でしたね」

「残念でしたねじゃねーよ!てかお前さっきの口ぶりからいかにもわざとやったかのような感じだったよな?事故とか言ってたけど実際はわざとやったんだろ?」

「違いますって!本当に事故ですよ!人にぶつかられてそれで体勢崩れて慌てて手をついたら‥って感じでしたから」

「本当だろうなぁ?」

再び柴村くんが一人でヒートアップしそうになり始めたので井芹くんがまた注意してくれるかと思ったが、当の井芹くんがこちらを見ていることに気づいた。

「‥え、な、なに?井芹くん」

「あの、浅田さん。今日の昼って予定ありますか?」

「‥‥ないけど。どうして?」

「俺、いいイタリアンの店知ってるんです。良かったら昼にご一緒しませんか?」

「えっ‥えっと‥」

「おい!井芹!なに一人で勝手に抜け駆けしてんだよ!」

にこやかに笑って言う井芹くんの後ろでさっきまで氷炭相容れずといった感じで白熱していた二人がいつのまにかこちらを見ていた。柴村くんは目敏く井芹くんの行動に気づいて怒っているようで、木村くんは何か言いたげな顔をしている。

「イタリアンなんて高尚じみた店は浅田さん好きじゃないんだよ!浅田さん、オレお洒落な喫茶店知ってるんです!俺と"二人きりで"行きませんか?」

「柴村さんずるいですよ!浅田さん、僕もおすすめの定食屋があるんです!僕と一緒に行きましょう!」

いつまにか三人が目の前にまで迫ってランチの誘いをされてる状況なのだが、なんというかキャパオーバーだ。一人だけならどうにかできたものの(一人だけでもかなり大変だが)三人同時に誘われてもうお手上げだ。案の定オフィス中の女性社員たちから射殺さんばかりの視線を頂戴している。ここで全員断っても誰か一人の誘いを受けても結果的にますます嫉妬の視線を向けられるようになるのは変わらないだろう。それならどうすべきだというのか。

『浅田さん、ぜひ一緒に!』

本当にどうすればいいのやら。

「それは傑作だなあ~」

ベンチで寛ぎながら気の抜けた声で彼は笑った。休憩時間にあの三人に見つからないようにこっそりとオフィスを抜けて中庭のテラスで一息つこうかと思っていれば、見知った顔を見かけた。彼は営業部の高辻広宣。部署の違う彼となぜ顔見知りなのかというと、去年の暮れにあった部署合同の飲み会で私が飲みすぎて吐き気を催した時にたまたま近くにいた彼が介抱してくれたのだった。それ以来顔を合わせれば世間話をする間柄だ。

高辻くんは三十代半ばで顔立ちが特別整っているわけでもないのだが、清潔感のある外見や明るくて陽気な性格で男性慣れのしていない私ですら話していてとても落ち着くと思わせてくれる人だ。それでもなぜかあまり女性からはモテないらしくいつも「あー彼女ほしー」などと嘆いている。

ちょうど営業終わりらしく休憩がてら立ち寄ったらしい。私の横で空になった缶コーヒーを回しながら身を捩った。

「笑い話じゃないよ。私本当に苦労してるんだから。よく注目されるし特に女性たちの視線がこわいし‥‥」

「まあまあ。それもどうせ一時のもんでしょうよ。時間が経てば効果も消えるんじゃないの?」

「だったらいいんだけどなあ‥」

実は高辻くんは私があの香水のせいで彼らから好意を向けられてることを知っている唯一の人間だ。最初はこんなこと話しても笑われるだけだと思って躊躇ったが、他に話せる人もおらず彼なら信じてくれるかもしれないという淡い期待で告げてみたところ彼は信じてくれたのだった。

「浅田さんも本当に困ったもん買っちゃいましたね」

「あはは‥‥返す言葉もないです」

彼の言うことに本当に返す言葉がない。困った買い物というのは自業自得とは言え、その通りなのだ。あの香水は困ったことに、身体を洗っても日が経っても効果が切れないのだ。普通の香水ならシャワーを浴びたりすれば落ちるし、匂いもせいぜい一日くらいしか続かない。なのにあの香水は驚くほど効果が続いている。そして、なぜか見目のいい男性にしか効かない。他の男性には一切効かないのだ。謎が多すぎる故に対処のしようもないのが実状だった。

「浅田さんもきっぱり断ったらいいのに」

「それが出来たらこんなに苦労してないよ‥‥」

「浅田さんにちょっと拒否されたくらいじゃあいつらも引き下がらないだろうし?」

「それも困る‥‥」

はは、と高辻くんは笑っているが私としては笑いごとではない。あの香水をつけてからもう一月が経とうとしているのに効果が薄れている感じもない。むしろ強くなっているのではないかとさえ感じる。どうすればいいのか。考えたところで何も思いつかない。

「あー‥それじゃあさ」

高辻くんはなにか思いついたのか一息ついて言う。

「俺と付き合ってのはどう?」

「‥‥‥‥え?」

「流石に浅田さんに恋人できたらあいつらも諦めるでしょ。どう?名案だろ?」

「‥‥‥‥えーと‥」

高辻くんは自信ありげに笑うが私としては戸惑いしかない。実際あの三人が諦めるかどうかはわからないが(なにかしら動揺したりはあるだろうが)、確かに恋人がいるというのは効果的な理由付けに使えるかもしれない。私も高辻くんも恋人を欲しがっていたから一石二鳥、となればよかったのだが私としてはあまり気が進まない。

「あの‥高辻くん、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど‥‥私と高辻くんじゃ歳離れてるし‥無理なんじゃない?」

「無理ってどうして言えるんですか?まだ付き合ってもないのに」

「だって私‥おばさんだし‥」

「そんなの気にしないですよ。それに俺、年上の女性は好きですから」

やはり私と彼では歳が離れているというのがネックだ。それに私のような根暗の中年女と明るくて人徳もある高辻くんではどう考えても釣り合わない。しかし高辻くんはそんなのお構いなしといった様子だ。そういったことは気にしないのだろう。

「わ、私と付き合うとか‥嫌じゃないの?」

「いえ、全く。むしろチャンスだと思いました」

「‥‥どうして?」

「だって俺、前から浅田さんのこと好きでしたから」

告げられた言葉に一瞬時が止まったように硬直した。好き?高辻くんが私のことを?

慌てて高辻くんのほうを見るとその横顔は耳まで真っ赤になっていた。あの香水は美形の男性にしか効かないんじゃなかったのか。またしても増える謎に頭を悩ませながらも、どう返答しようかと懊悩するのみだった。彼が握りしめている缶コーヒーの中身は相変わらず空のままだった。