さよならまぼろし

一次創作サイト

2023/9/1 歴創版日本史ワンライ「相国」

 

 これは足利義満左大臣の職に在ったときのことである。
永徳二年十月のある日、義満は自らの御所に南禅寺住持である春屋妙葩と等持寺住持の義堂周信を召した。この二人の僧は義満がなにより信頼する師であった。
「兼ねてより話を続けているあの寺の件、内裏に奏して院の宸襟を伺わなければならぬ。して、手始めに寺の号を議する必要があると見た。そなたらはどのようなものが良いか申してみよ」
あの寺とは先月から幾度か鼎談していた新しい寺の創建についての話だった。将軍家に縁の深い夢窓国師の三十一回忌の日にふたりを召して「一つ寺を作り十刹に列させ、僧衆を五十人とするのはどうだろうか」と言ったところ、ふたりは大いに賛成した。
今日も創建計画の続きとして名づけの打診をすると、ふたりとも暫し黙考すると妙葩が口を開いた。
「では相国寺は如何でしょう。室町殿は大丞相の職に就いておられますし、”国を相める”と書く相国は室町殿が開く寺として相応しい名かと」
続けて周信が言った。
唐土には大相国寺という寺があります。まさに丁度良いでしょう」
ふたりが推す名に義満も気に入る素振りを見せた。
「ふむふむ、相国寺か。良い名じゃ」
「寺の号には四文字や六文字のものもあります。”天”の意を”承る”で承天相国寺はいかがでしょう」
周信の更なる提案に義満も妙葩も賛成し、名は"承天相国寺"となった。
明くる日、義満は周信を召して新寺の殿堂について話をした。
「建立のあかつきにはぜひ道服を着て入道したいものよ」
義満はしみじみと語った。仏教への帰依の念はもとより深いからである。
「先代の(鎌倉)時代の関東には建長寺円覚寺、都にも南禅寺天龍寺などの寺が建立され、多くの衆を安じました。新寺もただ伽藍を建てて五山に準じるような寺にしてはならぬでしょう。」
「ああ、うんと大きい伽藍を建てたい。のように財を使えればなあ…」
周信の言葉に義満はやや苦々しい顔をした。財政は常に悩みの種だった。
「室町殿は願力をさらに強固なものにする必要がありましょう。例え今世で叶わなくとも他生にあって叶う可能性もあります。古に三度生まれ変わって浮圖を作った者もあります。」
「ほう、面白い。つまり願わねば何ものも叶わぬということか。しかし三度生まれ変わるか。余の願いは他生にあらず今世で成就させてこそのものじゃ。今世で叶えるにはどうしたものかのう」
義満が愉快に笑うと周信も倣って悠然と言った。
「位は人臣を極め、祿は泰山よりも重く、寿量の限り祈らなけばならぬといいます。佛寺を崇建し、僧法を修めるのも同じこと。あなた一人の発心が天下の人の発心であり、あなたが善を好めば天下の人々も善を好みましょう。この世を善で満たしたければ天下人が善良でなくては始まりませぬ」
「将軍は、菩薩になれると思うか?」
義満の問いに周信はただ答える。
「仏の道を信ずれば、何れは不可能ではないでしょう」
その言葉に義満は満足した。そして、新寺が己の願いを込めた期待通りのものになることを願うのだった。

 

さびしさのけだもの

 

 簾の下りた室の中はまさに夜そのものだった。
灯台の火が几帳に影を作り、己が以外は何者も存在していないような寂寥がそこに横たわっていた。常に感じている感覚ゆえに腹の内に収まったような馴れさえあるが、それと同時に諦めもあるような物悲しいようなよくわからない感情が渾然一体となっている。
この"夜"の中にひとりでいる。
ただそれだけで言葉に言い表せぬ気持ちになるのは何故なのだろうか。
灯台の火が揺れる。向こうから足音が聴こえた。薄氷の上を、あるいは舞台を歩くように静謐な音だった。御簾越しに現れた影が其処に止まる。
「公方様」
鈴の音のような凛とした声だった。わずかに潜めたその声が頭蓋に響く。
「藤若、参りました」
「入れ」
答えると声の主は素早く御簾の内に身を潜らせた。屈んだままの状態のその少年​───藤若は無言で此方に目線を向けた。近う、とひとつ手招きをすると音もせず優然と躙り寄った。
なにか言を交えることもなく玄色の双眸をしばし見つめる。ただこの意味もない物事がほんの一瞬でも胸の内に一抹の安寧を齎しているかのような気分にさせた。
「公方様、寝物語ですか」
痺れを切らしたのか藤若が口を開く。返すこともなく続きを促す。
「それとも、夜伽ですか」
その言葉に内側から身が震えたような気がした。魂を揺さぶるとでも言えるのか。ある種"待ち遠しさ"を感じていた言葉を与えられることへの悦びと至楽で軀が疼いた。
「今日は月が出ていないからな。来ないかと思っていた」
今日は曇天の夜日だ。足下すら見えないほど暗く、徒歩には向いていないだろう。
「雨が降ろうが暗かろうがあなたに求められればいつでも参ります」
微かにも眉を動かさず、声色も変えずに言い放つ藤若に気が昂る。"堪らなく"なって手を伸ばして小さな頤に触れる。柔な肌だった。
「己が夜なら、其方は月か」
玲瓏で静か、常に変わらずに在る姿は月そのものだ。
「しかし月は雲に隠れてしまえば見えなくなります」
「見えずともその姿を思い浮かべるのも良いものだ」
依然として微動だにしない藤若に自然と口角が上がる。頤に触れていた手を頸へと滑らせた。肌を掠めるような動きは愛撫そのものだった。細く、血の色が透けそうなほどの白皙だ。凡そこの下に肉や臓物が詰まっているとは感じられない。
「あなたは、私がずっと変わらないままでいるとお思いなのでしょう」
あるいは変わらないままでいてほしいという意を含んでいる。
「そんなものはありません。変わらないものなどこの世にはないのです」
その通りだ。権力も、物事の趨勢も、人の美しささえもいつかは枯れ老いて朽ちていく。しかし藤若の美貌は終生変わらないままであるような気がした。
「もし余が其方の見目美しさにだけ惹かれていると思われてるなら見くびられたものだな」
頸に鼻を近づけると藤若は軀を震わせた。押しつけた肌越しに薫った色香は未だ乳臭さを感じる童特有の匂いだった。
「其方は常に余が求めたものをくれるから好きだ。今まで誰も余が真に欲しているものを与えてくれなかった」
肉親の情は知らない。血の繋がった母とは離れて暮らし、父も早世ゆえに何かしてくれた記憶はない。親代わりの頼之とその妻である乳母には実の子に与えるに等しい情を注がれていたと思っていた。以前までは。
そんなはずなかったのだ。やがて政を為す者として相応しい人間に育てているに過ぎなかった。己を"人に非ざる者"にしたのは頼之にほかなかった。そうでなければ将軍ではあれないと、生きていくことはできないと知らしめられてきたのだ。
己が"愛を欲している"ということに気づくまでずいぶんかかった。周りにいる者は誰も真の愛情を与えてはくれない。"周りが求めるように振る舞わなければその代償が己に与えられることはない"のだから。"足利義満"である限り"人間"であることは許されないに等しい。己が何者でも無くいられる場所は閨のみだ。
「其方に"これ"を教えたのは太閤殿か?」
頸筋に触れていた手に力を込めると藤若はびくりと体を弾ませた。答えを聞かずとも意味することはすでにわかってた。個人的に懇意にしている老獪な師の顔が思い浮かんだ。
「太閤殿は余に色んなことを教えてくれたが"これだけは"教えてくれなかった」
手を肩に滑らせて背後に倒した。褥の上に横たえられた藤若に覆い被さるように近づく。翳ができた軀の至るところに唇を押しつける。額に、髪に、頬に、頤に、頸に接吻しながらとある女を思い浮かべた。
​────三条厳子。先日内裏で垣間見た美しい後宮。瓜実形の顔に濡烏の髪、己が理想とする女そのものだった。藤若の軀に厳子を重ね合わせるようにその貌を辿っていく。あの衣の下にはどんな肢体があるのだろう。どんな香りで、どんな色で、どんな声で啼くのだろう。手弱女のように見えて以外と強気なあの女の柳腰を掴んで蹂躙したらどんな気分だろう。好き勝手に己の物を捩じ込んだらどんな心地がするのだろう。ひとたび考え出すと止まらなくなってしまう。
主上の后であると言うのに、そんなことも気にならなくなってしまうほど厳子を己の物にしたいという肉欲が暴れ出しそうになる。いや、人の物だからこそ興味が湧くのだろう。他者の物を奪って己が物にすることの快楽を嫌というほど知っている。
藤若の最奥に子種を放つ毎に厳子を孕ませる想像をして気が狂いそうなほどの悦に耽る。元服するまでは男も女とそう大差がない。股を濡らし、男根を受け入れ、普段より一層高い声で喘ぐ。特に藤若は見目のせいか股の物を見なければ女そのものだ。
厳子はきっと己の求めるものを与えてはくれないだろうが、それでも構わないと思うほど彼女を欲している。こんな気持ちを抱く己が居ることに驚きつつも至極の気分に抗うことはできなかった。
逸る思いを抑えきれずに藤若の水干に手をかける。
「く、公方様、一旦お待ちを」
先刻から顔色一つ変えなかった藤若の瞳が今夜初めて揺れた。動揺している。無理はない、きっと今の己は飢えた目をしているだろう。待たぬ、という返答の代わりに眼前の唇に己のそれを重ねる。月と夜が、溶け合った。

 

 

 

 開け放たれた簾から蒼々とした草花が覗く。
庭先を眺めながら隣に座す男を横目で窺った。
「最近は藤若とずいぶん懇ろにしているようで」
穏やかな声色で話す公卿、二条良基は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ええ、太閤殿の"お陰"もあって良い童を得ました」
藤若と初めて会ったのは新熊野での猿楽興行での折だったがその以後己を介して良基と藤若も親交を得た。良基は繁繁と藤若に蹴鞠や和歌を教えているようで、それに乗じてあの"手練手管"を仕込んだのだろうと想像がつく。
「あれはまことに美しい童ではありますが、お気をつけを。恐ろしいほどの魔性を秘めているところがある」 
「…承知の上、肝に銘じておきます」
その魔性を開花させたのは貴方によるものもあるのではないかと、という言葉が喉元まで出かかったがなんとか飲み込む。
「まあ左中将殿なら"路傍の花にうつつを抜かす"ことも無いでしょうが…花は花らしく在るべき場所で愛でられるのが正しい在り方でしょうから」
「いえ、それがしは摘んでも美しいままの花が好きですからその考えは容れませぬ」
良基は思わぬ返答に面食らったのか此方を見てわずかに目を見開いた。
「それがしにかかればあれは摘んでも水を注ぎすぎたとしても枯れることはありませんので、ご安心を」
「…は、はあ」
「そもそも"あれの手管"を仕込んだのは太閤殿なのでしょう?でしたら心当たりがあるのでは」
ますます目を丸くさせた良基の双眸を見つめると見るからに動揺していることがとれた。やはり見当は外れていなかったようだ。
「将軍家と朝廷の末永い栄達のためにもぜひ、"太閤殿直々に"ご指南いただきたい」
良基の袖口から手を潜り込ませて素膚を探ると其処が震えた。普段滅多に見ることも触ることもない部分だ。決して若いとも柔いとも言えない感触だった。
「駄目でしょうか?」
己より年嵩の男に本来向けるはずもない​────ある種の甘えとも言える​────目で縋ると良基の頸元が上下した。 
「…貴方も私もありのままではいられませんな」
良基は諦念したような顔で己の手に重ねてきた。それを"諾"と捉えて胸裡でほくそ笑む。
「まだ夜ではないというのに」と良基がぽつり呟く。「そんなことはない」とすぐ側の簾に手をかけた。"夜"は手の内にあった。

 黒い虚の中にそれはぼうっと浮かび上がっていた。

白い人魂のようにも、あるいは夏日の陽炎のようにも見えるゆらぎが一瞬のうちに千々に梳かれていく。糸が乱れに乱れて何の形を成すのかと考える暇もなく目の前でそれは突然大きく化生した。先刻よりもさらに人形に近く、水面に雫が落ちたような揺らぎは烈しさが増した。これは何だと思っていると私の腹の辺りに長い腕のようなものが差し出された。

「近う、近う」

腕が招くように動くと連動して揺らぎも増えた。人間が発するそれには程遠い低く、唸るような人魂の声が私を誘ってくる。その誘いに応じるか否かという判断に時をかけることもなく、私はただ誘われるがまま、ただ糸のような腕に引かれるままに近づいた。

人魂の隣に立つと瞬間、ただ黒い虚しかなかったそこは幾色に彩られた。空は青々と染まり、丹塗りの唐門、白い花をつけた橘の木、蒼い葉桜、樺茶色の檜皮葺きの切妻屋根、踏みしめるたびに音のする白い玉砂利。そこは内裏だった。

あらゆるものがそこにあり、鮮やかに色がついていた。私は今、どうなっているのかと考えた。先刻まで何もない場所にいたはずなのにいつのまにか南殿の前に立っている。まるでついさっき”世界が築かれた”かと思うほどだ。そこらじゅうを見回した後にすぐ傍を見ると人魂は昼の陽光の下に晒されているとは思えぬほどなおもはっきりと存在を現していた。私はここに来て初めて身震いをした。これは夢だ。だから、こんな奇妙なことが起きるのだとそう己を納得させることにした。

「なあ、おまえは何者なんだ」

慄く気持ちを押し殺して私がそう聞くと人魂は口角を上げてにやっと笑った。

「おれか。おれは、鬼だ」

鹿角のように長く鋭い牙が覗いた。私は鬼だと言われて思い浮かぶ姿には似つかわしくないせいかなんとなく頭を振る心地だった。人形ではあれど、人には程遠い、しかし人ではないというその”異形さ”がなおさら人ならざる者たらしめているのではないかとも、そう思うことにした。

「その鬼がいったい私に何の用だというのだ」

「おまえ、憾みを持って生きているだろう。おれがそれを晴らさせてやろうとこうしておまえの前に現れたのだ」

「ほんとうに言っているのか」

「ああ。ほんとうだ」

毅然とした態度でそう言う鬼に私は疑心を抱いたが、どうせこれは現ではない、夢なのだからと思い夢の中でくらい己の胸の裡をありのままに告げてみるのも悪くないだろうと観念した。

「ならば私はもっと昇進したい。代々の先祖の極官をも越えてさらに昇り詰めたいのじゃ」


私の中にあるひとりの男の顔が浮かんだ。友である頭の弁だ。

あの男は羽林家である私より下の家格である名家の出身でありながら、私とそう歳も変わらないのに私より立身出世の見込みがある。官職は蔵人頭で私は右兵衛督。官位はどちらも従四位下だが蔵人頭は今後の昇進が大いに望める職掌である。主上に近侍し、禁裏での執務を統括するという重要な役目であるが故に多くの者が切望する職で、その中に当然ながら私も例外ではなかった。
頭の弁は少し前まで私より官位が下であった。だというのにこの短期間で昇進を遂げたのだ。それも、主上の覚えめでたいからだった。端整な容貌で、頭もよく切れる。ひいては人格も優れて人望に篤いとなれば上から気に入られるのもおかしなことではなかった。
されど、己より家格が下の友が主上の寵によって昇進していくのを指をくわえて見ているだけというのも実に歯痒いものである。私の家の極官は権大納言だが、頭の弁はさらに公卿として官位を極めていくに違いない。それを考えるだけでいつになく胸中に暗としたものが蟠り、渇望と嗜欲に雁字搦めにされてしまうのだ。

「いいぞ、叶えてやろう」

人魂は悠然と言う。

「その代わり、おまえの身近にいる人間をひとり差し出せ。それが対価だ」

身近にいる人間と言われて即座に思い浮かんだのは、またも頭の弁だった。なぜあの男を思い浮かべたのかは私でもよくわからない。

「目が覚めたら今小路に住む薬師の元へ向かえ。そしてそこで貰った薬をおまえが追い越したいと思っている一番の人間に飲ませるのだ。さすればひとたび道が拓けるだろう」

なぜ昇進と薬を飲ませることが関係あるのかわからなかったが、まあどうせ夢だからと深くは考えないようにした。

「楽しみにしておれよ、右兵衛督」

耳元で囁かれて気づいたときにはそこに殿舎も何もなく、黒い虚の中に還ってきていた。

 

 

恋しさのためし

 

「一条大納言、今日は特別に余を好きにしていいようにしてやろう」

人を追い払った室町第の一室で義満はにこやかに宣言した。その向かいに座して呆れたように溜め息を吐いた。

「藪から棒になんですか」

「そなたには日々世話になっておるからな。たまにはそなたの願いを聞き入れることも必要かと思うてな」

「…どうせ誰かの入れ知恵でしょう」

「普段世話になっている礼として労ってやってはどうかと言われただけだぞ」

同じではないか。おかしなことを言うとは思ったがやはり他者から吹き込まれたことだった。一体そんなことを吹き込んだのは誰だというのか。

「どうだ?好きにしていいんだぞ?」

「好きにとは言われましても…何をすれば」

突然義満を好きにしていいと言われたところでどうすれば良いのか迷ってしまうのが正直な思いだった。幾度も情を交わしてきた仲ではあるが、二人きりで過ごす時間というものは少ない。時折二人で過ごすこの時間は貴重なものであった。

この関係が始まったのはいつのことであったか。はっきりと憶えてはいないほど曖昧で有耶無耶な始まりだった。

最初に義満と顔を合わせたのは十八の春、初めて参内をし主上に拝謁したときのことだった。父が伺候した縁で互いのことを知った。

初めて出逢ってから幾年が過ぎたが、自然と互いのことを意識し、どちらからともなく内に入り込んだ。

男同士なのだから夫婦のように三日通いこんで仲が成立するなどという仕来りもない。ただどちらとも相手が必要だったから求めた。心地が良いからともにいる。愛を囁かずとも己らの関係はわかっている。

交わりの常と言えば、能動的なのは義満のほうで専ら受け身のことが多くなっていた。

かと言って経嗣とて自ら動くことを望んでいないわけではない。義満が許すのならしたいことはたくさんある。しかしいくら許されているとは言え、自ら進んで何かをするというのは未だ気恥ずかしさがあった。

どうすることもなく縮こまっているだけでいると義満は鼻で笑って言った。

「余がここまで言っても腹が決まらんのか?”経嗣”は腑抜けだからのう」

義満の言葉に思わず眉根を寄せた。腑抜け呼ばわりされたのもそうだが、今度は普段のような官職名ではなく諱で呼んだことに反応した。諱は特別な名だから父や主君などごく近しい者しか呼ぶことを許されていない。義満は逢瀬の時にだけこちらの諱を呼ぶ。今その名で呼ぶというのはつまり此方を煽っていると言っても過言ではない。

そういえば、昼間だというのにやけに暗いと思えば妻戸は閉められ、御簾も下りている。普段とは違う香が焚かれていることや、外に近習も控えていない様子から最初からその気だったのだとここにきて初めて経嗣は気づく。

「昼間からすることでもないでしょう」

「”好きにする”と聞いてどうせ助平なことばかり考えているのだろう?」

「考えていますが、何か」

莫迦にしたような笑いを浮かべる義満の方へ体を近づけた。ここまできたらやけくそも同然だった。どうせ相手だってそれを求めているのだから、とそれ以上のことを考えないようにした。

義満の唇に己のそれを重ねた。女のものほど柔らかさを感じないが性感を惹起させるには充分だった。啄むように幾度も口づけをすると義満も応えるように受け入れた。思えば己の方からこんなに積極的に口吸いをしたのは初めてだった。いつもは義満から押されるように与えられる行為を受け入れるばかりだったからだ。自ら与える側になるのはまるで己が主導権を握ったようで気分が良い。

「んん...」

鼻の抜けるような声を漏らす義満にますます昂奮が高まるのを感じた。そのまま離れることもなく口吸いを続ける。小さく開いた唇に舌を捩じ込ませて口内を蹂躙するように絡ませた。耳につく水音だけがいやになるほど響いてまるで頭の中まで侵食されているようだった。上顎を舌でなぞられると背骨が軋むほどびりびりとした痺れに襲われた。

数秒ほど交わった後、少しの名残惜しさを感じながら離れる。義満は火照った顔で笑った。

「そんながっつくなよ」

「斯様に煽られればこうもなります」

今の己はさぞ余裕のない表情をしているだろうと思った。ついさっきまではそんな気は無かったと言うのに挑発されてまんまと興じるとはこれも弱みと言うやつか。

義満は直衣の領に手をかけ前を開かせる。袙も同時に割り開くと薄い単の上に指を這わせた。絹越しに伝わる感触と緩慢とした動きに思わず仰ぐ。指が胸部に近づき乳暈を触るか触らないかの距離で周りをなぞられる。

「あぁっ……はあ」

悩ましげな声が漏れつつもなおも核心には触れず玩弄するように焦らしてきている張本人を睨みつけた。義満はなおも情慾を誘う笑みを浮かべているだけでそれ以上のことをしない。

​─────もどかしい。

これまで情事のたびに幾度も触れられているせいですっかり胸で感じるようになってしまっていた。私は女人ではないのだからと、触ったところで悦に浸ることはないと初めは言っていたはずなのに。もののみごとに快を得て、この戯れに夢中になっている己がいる。言い訳もできないほど愚かで浅ましいことだ。

「もっと触ってほしいか?」

「…ほしい。触ってほしいです」

わずかに残っている理性のせいでやや恥ずかしさを感じたが、これ以上焦らされて耐えることは不可能だった。

義満は返事を聞くと愉快そうに笑って単も肌蹴させた。義満の指の動きと連動して笑っている顔を見るだけで経嗣はぞくぞくと体が震えた。同じ男のはずなのに義満はたまにまるで婀娜のような艶気を見せることがある。そのたびに経嗣は蜘蛛の巣にかかる獲物のようになすすべもなく囚われてしまう。そうなってしまえばもう、抗う気さえ萎えてしまう。どこまでも浅ましいと感じるのと同時に抗う必要などあるのかと、悦に身を委ねたほうが楽になれるのだからといつも言い訳のようにそれを享受した。

義満の手が素肌を這っていき、直に乳暈を触られる。思ったよりも冷たい指先が掠めるたびに焦れったく腰を揺らすと思いきり乳嘴を抓られる。

「あっんあっう痛っ…」

「痛いのが良いんだろう?」

そんなはずあるかと言い返したくても体は裏腹に反応するのを止めない。それどころかますます感覚が過敏になっていくように感じる。爪先でくるくると弧を描くようになぞられたり、強く扱かれたり、柔く触れられたりと緩急をつけて弄られるせいで快感は収まることもなく腰に熱がどんどん燻っていくばかりだった。

「さ、左府…もう」

「なんだ。もう終いか?胸だけで達さないのか?」

経嗣が息を荒くして胸に触れられている手をつかむと義満はつまらなさそうに口を尖らせた。

「そこだけでは無理です…下を触らないと」

「仕方ないな」

そう言い義満は経嗣の指貫の上から股間を弄る。布を押し上げて主張しているのがわかった。

「上からでも硬くなってるのがわかるぞ。口吸いと胸を弄っただけでこれか。恥ずかしいやつだ」

嘲笑うような言葉に経嗣は顔を赤くさせた。

「…う、いちいちそういうこと言わないでください」

露にされた陰茎はすっかり充血して膨れ上がっていた。鈴口からは透明な汁が出ており精を放つのを今か今かと待ち侘びているようだ。

陰茎に触れられて経嗣は肩を震わせる。先ほどよりわずかに温かい手で包まれるとゆるゆると上下され、つられるように腰が動いた。意を察したかのように今度は強い力で握りこまれて扱かれる。脳髄に走る感覚に体全体が麻痺していくようだった。だらだらと滴る先走りは快楽に呼応して止まることはなかった。

「よさそうな顔をしているな」

義満はおもむろに下を探って指貫の前をずらし、陰茎を露にした。義満のものも経嗣と同じように勃起していた。

「こうやってすると共に気持ちよくなれて良いだろう」

義満は経嗣に凭れかかるようにさらに身を寄せた。互いの熱い陰茎がぶつかり合って先程とはまた違った快楽が誘発される。

「ああっ…左府の魔羅…あつい…」

経嗣は思わず陰茎に触れた。そしてただ悦を得ようとすることばかり考えて擦り合わせる。経嗣の指の上から義満の指が重ねられて強く扱かれる。なにも考えることもできずにただ没頭し、放出を望んで昂奮が高まっていくのを感じた。

「左府…もういきそうです…」

「余もだ経嗣っ…んん」

互いに零れる吐息を間近に感じながらふたりは一心不乱に扱き合い、ほぼ同時に精を放った。勢い良く飛び出た白く濁った熱いものが手だけではなく、袍にも飛び散った。熱が引き、我に返った経嗣は自身にこびりついたものを見て忌々しげに眉を顰める。

「だから昼間からやることではないと言ったのに」

「そのわりにそなたも善がっていたではないか」

相変わらずにやにやと笑う義満に経嗣は睨みながらも言い返す言葉はひとつも出てこなかった。この男には本当に敵わないな、と思って嫌なのか満更でもないのかよくわからない感情が綯い交ぜになった。

 

ある日、いつものように経嗣が父である二条良基の邸に来たときのことであった。

四方山話をしているとふと思い出したのか良基がこう切り出した。

「そういえば、其方はここのところ左府とは閨の方ではどうなのだ?」

良基からの思わぬ言葉に経嗣は吹き出しそうになって堪えた。

「な、何のことでしょう」

「隠す必要はない。すでに其方と左府の関係は伝えられておる。左府本人からな」

「はい?」

義満と経嗣が徒めいた仲であることは一部を除いて知る者はおらず、できるだけこの関係を知る人間をごく少数にとどめるために経嗣は父にも告げてはいなかったはずだったが、当然以前から知っていたかのような口ぶりで衝撃的な言葉を発した。義満本人からという言葉に経嗣は脳内が疑問符で埋め尽くされた。

「なぜ左府が父上にそのことを?」

「左府と話している時に其方の話になってな、『そういえば先日経嗣と情を交わす仲になったので伝えておく』と言われた。初めは愕いたが左府があまりに嬉しそうに語るもんでつい聞いてしまった」

「ちょっと待ってください…これまで何度くらい話をしたのですか?」

「何度と数えたことはないが…其方の話が出た時は毎回しているぞ」

「…あの男」

経嗣は拳を思いきり握った。脳裏にいやらしく笑う男の顔が浮かんで思わず顔を顰めた。まさか父に言ってしまうとは。確かに父に言うなとは伝えていなかったがまさか肉親に本当に伝えるなど思うはずがないだろう。いくら個人的に親しいとは言え。どこまでも意表を突くようなことをすると憎々しく思う。

「もしや嫌なのか?良いことではないか。左府に気に入られていることは一条、二条にとって利になるだろうしな」

「確かにそうかもしれませんが…」

父の言葉に納得しそうになるものの、『いや、それは違うだろう』と思い直し飽きれたように経嗣は溜め息を吐いた。今度義満に問い質して、父にも釘を指しておかないとな…と考えてほんの少し苦い気持ちになるのだった。

 

触れる

 

この季節は暑い上にじめじめとしていて雨が多い。
昔は『修練で頼之にしごかれなくて済む』と喜んでいた義満だったが今となっては悪いところしか見当たらず、梅雨の気候のせいで連日降る雨にすっかり嫌気がさしていた。
「よしゆきー…」
花押を添えた料紙を指で弄りながら己の背後にいる義将に向かって間伸びした声を投げかける。投げられた当人は仕事に集中して聞こえていないのか、それとも毎度のことに辟易してあえて無視しているのか振り向くことも返事することもなかった。毎日、執務となれば『仕事をしろ』だの『字が汚い』だの『丁寧にやれ』だの耳が痛くなるほど小言を言われている身としては義将が黙っているという状況は好ましいはずなのだが己が呼びかけているのに無視をされるというのは義満は是としなかった。
義満の目は義将の背より上、項にいった。傾らかな稜のように線を描き、あまり日焼けをしていない滑らかな皮膚を凝視した。普段は背後からこんなに見つめることも無いせいか別段特別なものは無いのに義満は自然と惹かれた。特に襟足の柔そうな毛との境にある部分が気になった。義満は思わず手を伸ばして義将の項に触れた。肌自体は柔くはないが妙な触り心地でもっと触りたいという気分にさせた。まるで愛撫するように指の腹でしばらく撫でていると、それまで微動だにしていなかった義将がばつの悪い顔で振り向いた。
「…何をしているのです」
「そなたの項を触っておる。悪くない触り心地だ」
義満が面白そうに笑って言うと義将は歎息した。この若い将軍は突拍子もないことをするのはいつものことだったがいつにも増して頓痴気なことをすると思ったのだ。
「仕事は終わったのですか」
「もちろん」
義満が短く返事をすると義将は「そうですか」と言うだけでそれ以上は何もせず再び手元の執務に意識を戻した。咎められなかったのをいいことに義満はそれからしばらく義将の項を触り続けた。

(あー…暑い)
義満は廊から青々とした空を視界を覆った手越しに見上げた。
今日は雨も降らず、ここ数日の天候とはうってかわり清々しいほどに晴れた。雨が降るよりかは幾分マシだが蒸し暑いことに変わりはない。奥御殿へと繋がる日射しの当たらない渡殿へ移動すると幾分か風が吹き、涼むのに丁度よい場所と義満は思った。
しばらくその場にいると背後から足音が聞こえてきた。
「御所」
ふと聞こえた低い声に義将だな、と気づいて振り向こうとした時に外の熱気が嘘だと思うほど冷たい指が義満の項に這わされた。
「ぎゃっ!?」
思いがけない感触に義満は廊に響かんばかりの声を上げた。素っ頓狂な反応が予想外だったのか義将は口を抑えて笑った。
「…御無礼。まさかそんなに驚かれるとは」
普段の鉄面皮からは想像できないほど口の端をわずかに吊り上げ、不敵に笑った。
「先日の仕返しですよ」
そう言い残し立ち去っていく義将の背を義満はただ睨むばかりだった。
「…この野郎」
忌々しげに独りごちながら、義満は触れられた箇所に手を回し、先程の余韻を逃さないようにしばらく触れていた。

 

夕霧 / この思い、左様なら

 五月十日、足利義満の葬礼は等持院で荼毘に付されたのちに恙無く終了した。
昼過ぎに葬送され、拾骨の頃には陽が傾き始めていた。
参列人がほとんど帰った寺の庭を歩きながら経嗣は池泉を眺める。緑青に縁取られた水面には陽光の粒が煌々と散らばっていて初夏の風月を映し出している。辺りに漂う吸葛の馥郁とした薫りを吸い込むと先刻までの無稽な心中はいくらか和らいだように感じた。
義満が薨じて今日まで四日ほどが経ったが草卒の間にあらゆることが過ぎていき、偲ぶ暇さえなかった。出棺の前に義満の顔を初めてちゃんと見た。顔は白いがこれまで見たことが無いほど穏やかだったように感じた。何となく顔を見る気にもなれずにいたがいざ見てみればどうということもなく、ある種拍子抜けしたような心地だった。瞼を閉じたその顔は眠っているだけのようにも見えて声をかければ起きるんじゃないかともふと考えたが、当然ながらそんなことはなく骸は微動だにしなかった。
どうということはない。義満がにわかに体調を崩したと聞いた時から薄々こうなることを考えていた。齢は同じといえど必ず何方が先に死ぬ。その先が義満だった。それだけの話だ。
改めて経嗣は義満がすでにこの世に居ないということを反芻した。魂は果無い空蝉を抜け出し彼岸へと旅立った。躰も火に焼べられて骨だけを残し崩れ落ちた。この先二度と名を呼ばれることも姿を見ることも頤で使われることも無いのだ。
今己は感慨しているのか清々しているのかあるいは悼み哀しんでいるのか、これら全て感じているのかあるいは何れも感じていたいのかよくわからなかった。霧のように縹渺としていて居所を失ってしまったかのような感覚だった。
あの方は、もう此の世にはいないのだな。
ただそう思うだけで泪さえ出てこない。
立ち止まって一面を見つめていると砂利を踏みしめる音が耳に入ってきた。
「関白殿、まだ居られていましたか」
現れたのは義満の弟である満詮だった。顔立ちは義満となんとなく似ているものの目許が違うせいで以前は意識することが少なかったが、今こうして見るとやはり兄弟だと感じさせるものがあると経嗣は思った。
「小川殿…、申し訳ない。気を落ち着かせてから帰ろうかと思って少し散歩を」
「関白殿はさぞ侘しいお気持ちもひとしおでしょう。昔より兄に至誠を尽くしておられていましたしそれに、」
烈々と言を立てた満詮は突如勢いを無くしたように口ごもった。目線を右から左に往させて口を半開きのまま黙った。言うつもりの無いことを言おうとしてしまったようだ。経嗣は続きを待ったが満詮がやや困ったように眉を下げたので「何か」と言を急かした。
「聊爾なことですから、気を悪くしたら申し訳ないのですが…。兄は恐らく、貴方のことを最も気にかけていたように感じていたのです」
「…………」
「この言い方だと要領を得ないな。兄の心を最も多く占めていたのは関白殿だと言えば伝わりますか」
ここまで言うつもりが無かったのか満詮は言葉を重ねて強調した。思ってもいなかった言葉に経嗣は「何と、」と些かわざとらしさを感じる反応を咄嗟にしたが、演技でもなんでもなく思ったままの反応だった。
「もちろん私の主観でしかありませんが」
「以前の私なら馬鹿げていると一蹴したやもしれぬ。だが今では強く否定できるような気持ちでもないのが正直なところだ」
やはり弟だけあって鋭い目を持っている。真実など今となっては草葉に隠れたが経嗣自身も義満からどう思われているかは薄々気づいていたし、己も義満をどう思っているか分かっていた。その思いに名をつけることも相手に伝えることもすることはなかったが。
「此方に悟らせるだけ悟らせて何も言ってくることもなし、特にどうともする気は無かったのだろう」
「では貴方と兄の間に徒めいた仲はなかったのですか」
「それは御辺の知っている通り」
何十年もの付き合いの中で義満の素膚に触れたことすらあったかどうかだ。それでいて枕を交じわすなんてことがあれば考えるのも厭になるような据が多くまとわりつくだろう。情に浮かされて不束な選択をすることを嫌うあの男が築き、守ってきたものを自ら壊すようなことをするだろうかなどと考えながらもやはりただ経嗣を弄したくて何もしなかったんじゃないかとも考えた。
「私をとんだ拗ね者だと思っただろう」
「いいえ。むしろ安心いたしました。もし本当なら貴方にどうお詫び申し上げようかと」
「詫びなど必要ない。私もきっとあの方と同じ気持ちだったから。ただ、薨るのに後少し時があればとは思ったが。あまりにも急すぎた」
言葉の後にわずかに満詮の双眸の奥が揺曳したのを経嗣は見た。経嗣は義満が求めるように動き、求めることだけの言葉を口にした。義満に求められなかったから必要のない"それ"を言うことはなかった。本当にどこまでも残酷で狡くて愛しい人。身勝手に生きて、身勝手に振る舞って人を振り回して何を言い遺すこともなく身勝手に置いて逝ってしまった。恨み言の一つくらい言いたいのにそんな言葉の具体的なものが一つも出てこない。若い頃は狂おしいほど惑わされて呪うように想っていたのにそんなことも嘘だったかのように記憶だけが遺される。
信じるより深く、希うほど強く。一度魅入ってしまえば正気ではいられなくなるのを知ったのはいつのことだったか。そもそも魅入ったのは何方が先だったのか、今となっては知ることもできない。
「小川殿は北山殿が身罷られてから体に触れたのか」
「触れましたが」
「感触は、体温はどうだった」
経嗣の問いに満詮は思い出すようにやや仰いだ。
「冷たくて、細くてがさついていました」
返答にただ「そうか」とだけ返した。心残りは体に直に触れられなかったことだけか。せめて一度くらいは手くらい触れてみたかったと思う。白くて、弓よりも筆を握ることの方が多かったせいで武家の者にしては細かった指。記憶の中にわずかにだけ残っている姿がぼんやりと頭に浮かんだ。死んだ直後にこれならば数年経てば顔も声もあらゆるもののほとんどを忘れてしまうのではないかと思った。 
そうなればどうしようか。奇麗さっぱり忘れてただ私とあの方が在った、という事実だけを残してしまおうか。でもそれもきっと悪くはない。美しさだけ取り除いた思い出は美しい記憶だけが残る。私が求めた姿のあの方を此岸に捨てていくのだ。ならばそれからはもう、思い残すことはない。清々した気持ちで私も彼岸を渡れる。
根拠はないが、経嗣は不思議とそう確信を得た。
「小川殿」
経嗣が呼ぶと満詮は目を合わせた。
「車を待たせて少し庭を歩かないか。こんな機会はまたと無いのだから思い出話でもしよう」
満詮は返答する代わりに微笑んで経嗣と肩を並べた。歩を合わせてどちらともなく過ぎ去った日の話をし始めた。 

この思い左様なら

薄氷 / この世界は木陰と太陽の3メートル

  ようやく春信の風が吹くかという頃、今日はいつものような寒さはどこへやらと思うようなほどの陽気だった。
縁に出てきた斯波義将は庭先にある日差しに切り取られた木陰を目にとめた。黄褐色の福寿草が慎ましく咲いている。もう長らく続いているような冬がもうすぐ明けるのかという考えが過ぎり、つい反射的に空気を吸い込めば鼻腔が突き刺されたように痛んで背骨が軋む。春めいているのは青い空と陽光だけで空気は相変わらず冷たい。しかし、ここまで麗らかな日が近頃なかったせいもあって義将はなんとなく誘われるようにその場に留まった。
すっかり見飽きたと思っていたこの景色もあと少しで見納めだと思うとなんとなく寂しさを感じるような気がする。
もうすぐこの三条坊門の御所から北小路室町にある新邸に移徒することとなる。邸は完成を間近に控え、すでに幾分か室札を運び終えていた。御所の主、足利義満の新邸に対する期待はそれはたいそうなもので諸人に頼んで他家の枝垂桜を所望したり、あらゆる花の種を植え百花斉放のごとく庭を飾ろうとしている。

元は光厳天皇の皇子である崇光天皇の御所であった。観応二年に初代の尊氏が弟直義との抗争を決着させるために南朝に帰順したことにより廃位され、その翌年に和平を破って進軍してきた南朝軍に賀名生へと拉致されたのだった。その数年後に帰京が叶ったが、十年ほど前に先代義詮が別邸としていた室町の邸に献じたことで御所となった。しかし、やがて使われなくなりしばらく無人であったが隣にある今出川の菊亭も含めて新たな御所とすることになったというのが経緯だ。
移徒が近いせいか将軍の近臣たちも遽しくしているのをよく見る。その中には当然のごとく管領も含まれており義将は彼の男の顔を思い出して苦々しい気分になった。 
細川頼之。その男の顔が浮かぶたび義将の胸中に暗い翳を落とした。
かつては父高経後見のもとに義将自身が務めていた管領の役職。それも佐々木道誉らの策略で地位を奪われ父は越前で没した。赦免されて京に戻ってくることはできたが、手中に取り戻せた国は越中のみ。極めつけは管領の座には信用に値するとも言えない男が我が物顔で居座っているとまである。この状況に黙っていられるほど無頓着でも愚鈍でもなかった。
これ以上、あの男の好きにはさせたくなかった。反頼之の派閥には先代義詮の正室の渋川幸子をはじめとして土岐頼康、京極高秀など大いに影響力を持つ者たちがいる。有力者が数あれば諸将を動かすことは難しくはないだろう。しかし、最も鬼門となるのは将軍である義満の存在だった。頼之は義満が元服する前からその助けとなり、父のようにあらゆることを教えてきた。妻で乳母である有子も同様で義満が赤ん坊の頃から養育している。第三者の目から見ても義満にとってこの二人がただの近臣と乳母ではないことは明白で、頼之に至っては他者には理解できない絆で結ばれているとしか考えがないほどだ。それほど義満と頼之を引きはがすのは難しい。どれだけ主張しようが頼之を管領の座から引きずり下ろすのは困難だろう。あのまだ若い、柔和に見えて頑固な将軍を懐柔するにはどうすればいいのやら。
「日向を遠くから眺めてるだけでそなたは満足なのか」
ふいにした声に振り返ると当の悩みの種(の一因)の義満がいた。縹色の小直衣を着て義将より低い目線で前を悠々と横切っていく。義満は義将と同じ縁ではなく庭土の上に立っていた。
突然の登場に義将は驚くそぶりも見せず平然と返答する。
「眺めているだけでじゅうぶんなのですよ。見ているだけでも入った気になれる」
まるで今の己のようだと思った。欲しいものがごく近くにあるのにどうすることもできず玩具を取り上げられた童のように指を咥えて眺めている。私はそんなものには興味がないですよ、などと平気な顔をしながら実際は求めてやまないほど渇望している。それを今手にしている奴を殺してやりたいほどに。
「つまらんのう」
義満はそう言いながら日向に足を踏み入れた。此方に聴こえるようにやや大きい声量だった。
「眺めてるだけじゃつまらんだろうが。本物がそこにあれば手を出さなければ己のものにした実感がわかぬ」
ざりざりと義満が土を踏みしめる音がいやに耳につく。日差しの下で義満の顔は白く明るく照らされていて、いつか見た遠い昔の記憶のように儚く眩しい。
「来客はいいのですか」
「途中で抜けてきた。按察使中納言の話は長いからいつまでも聞いてたら足が腐る」
来客の按察使中納言というのは日野資康のことだ。御台所である日野業子の兄で婚姻によって義兄弟になった関係か関わり合いが多い。互いの邸を行き合うことは珍しくなくなっており、波長が合うようだが資康は一度話し始めるとなかなか収まらないという気質あってか聞かされる側の義満は毎回適当な理由をつけて中座していた。
「それは疲れるでしょう。心中を察しまする」
「いつも"長々と話をするな"と釘を指しているのにこれだからな。手に負えん」
伸びをする義満の背を見て義将の中に昔の記憶が甦った。義将が十五、義満が七つのときのこと。 
義将の邸で行われた乗馬始の儀の日に場所こそ違えど縁の側で話をしたのを覚えていた。内容までははっきりと覚えていないが確かあれがちゃんと言葉を交わした初めてのことだった。
「なんだ、義将」 
見られていることに気づいた義満がやや訝しげに言った。義満は己に近しい人物を私的な場で呼ぶときは諱を使う。義将のことも公の場では"左衛門佐"と呼んでいるが、こういった時には"義将"と諱で呼ばれる。
「これは失礼。昔、御所の乗馬始で我らが初めて話をしたときのことを思い出したものですから」
「乗馬始か…。そういえばあったな。そなたを馬に見立てて乗って戯れたことを覚えている」
「そんなことがあったのですか」
「覚えていないのか」
「申し訳ない。それがしはほとんど覚えていないものですから…」
「だったら何だったら覚えているのだ?」
遠い昔のことを記憶の断片をかき集めるように呼び起こす。当時はとても大切なことだったように思っていた気がするのに今となっては端しか思い出せない。
「声変わりが近かったような気がします。あの時の私の声は確か掠れていた」
「声?何を言い出すかと思えばそんなことか。余は斯様なこと覚えておらんぞ」
「互い違いですね」
「なぜこうも噛み合わぬのか…」
「ですがあの時はそれがしも父もこれがいつまでも続くと信じていたように思うのです。無論、斯様なことがあるはずないと分かっていながら」
義将の言葉と同時に風が強く吹き、ざあざあと木々の葉が戦いだ。声に被さるようにざわめいた葉が揺らぎ終えると春の陽にはいささか遠い風が凪いでいく。
「それがしにはなぜあの男がいつまでもあの座に在るのか理解できぬ。確かに政を司る手腕や諸人をまとめあげる力はあります。あの男だからこそなし得たこともあるでしょう。ですが、だからといってこれ以上彼処に置いていく必要はないと思うのです。現にあの男の力は衰えてきているではありませんか」
雲に隠れた陽光の加減によって地面にうっすらと影ができる。義満からはなんの感情も伝わってこなかった。
「あなたが個人的に執着している以外、あの男を重用する理由があるというのですか」
義将に遠慮するだとか憚るだとかそういった感情はもはやどこにも無かった。相手が義満だからこそ忌憚なく言うことができる。義将と義満だって伊達に付き合いが長いわけではないのだ。義満自身も義将が本音でぶつかってくることを知っていたはずだ。
「そなたは遠慮するということを知らんな」
「時と場合と相手によります」
「今はその何れでも無かったということか」
「肉親に近い情を抱いているからといって寵を注ぐのは悪手だと言いたいだけです」
「誰にだって人間の好き嫌いはあるだろう」
「あるのは仕方ありません。ですが好悪によって人選を左右すると政が立ち行かなくなります。仁政は個人的な感情ではなく善い行いによって成し得ることで決まるのです」
「綺麗事を」
「それがしはそれを綺麗事で終わらせない為政者になって頂きたいと思っているのですよ」
義満は呆れたように笑う。この主君は若さゆえにまだ政の本質というものが分かっていないのかもしれないと感じた。極限にまで追い込まれたことがないからそれを知る機会もなく、ある意味目を逸らして見ないようにしていると言ってもいい。
知らずに生きて済むからどんなに恵まれているだろうが。だが、知らないままでは"本物"になることはできない。無理やり機会を作ってでも目を向けさせなければいけない。逃れることなど、見ないふりなど不可能だということを。
「して、武州が辞めたとしてその後釜には誰を入れるつもりか。まさかそなたではあるまいな、左衛門佐」
義満は先刻までの呼び方をやめ、笑顔を無くして改まった表情で問いかけた。
「それがしが管領を?まさか。それがしはまだ若いですしとても務まらぬでしょう…」
我ながら安い芝居だなと内心で笑った。義満も白々しさに呆れを通り越して鼻で笑っていた。
謙虚さを演じるのはもはや様式美だ。内心では微塵も思っていないことを口に出してみせる。相手に心から信じさせる必要はない。言うことに意味があるのだ。
恐らく管領には今のところ己以外に適任はいないだろうと思うのだから就任することはやぶさかではない。現に反頼之の派閥内でも義将を押し上げようという機運が高まっていた。
去年の六月に越中守護代と国人勢力が一悶着を起こして頼之の荘園を焼き払ったときも頼之と義将の間が剣呑な空気になるだけではなく、他の大名たちもどちらかに与してあわや合戦かという状況になったことがあった。結局、義満が頼之を説き伏せたのと義将が頼之に慰撫のための礼と、大名たちの元に説伏のための使者を送って「自分たちの仲は諸人が思うほど不穏当なものではないから戦になることはない」と伝えさせて事を収めた。
その約二月後に起きたことでもそうだった。義満の近習である山下五郎と横瀬某の間に諍いが起こり片や死亡、片や負傷の刃傷沙汰が起こった。このことにより一時、洛内で騒擾が起こったため義満より鎮静の命が下った。この時も中心となって動いたのは義将だった。
武州よりも力があると誇示するためにあなたが先頭に立つのです」と説くように言ってきた幸子を思い出した。義将はただその助言に従っただけでもあったが、事を丸く収める力に長けているのは頼之より義将だと、そう考える者が反頼之派閥以外にも次第に増えていた。 
​─────頼之よりも義将の方が管領に相応しいのではないか?
そうした思いを抱いてしまうのも、もはや仕方のないことだった。義将自身も待望の目を向けられていることに多少なりとも気づいていた。
鉄面皮だの無愛想だの普段表情の変わらなさを揶揄されることの多い義将だったがこの時ばかりは笑みを堪えるのに苦労したのだった。
だから義満も諸大名と同じことを考えていると思うのはなんらおかしなことではないはずだった。
「そなたが本音で言ったのだから余も本音を言わぬわけにはあるまいよ。はっきりと言ってやろう」
義満は義将に近寄っていき、同じように縁のすぐ側に腰掛けた。ぐっと顔を近づけると義将の目とその黒い双眸がかち合った。
「そなたに管領は務まらぬ。なぜなら、そなたは頼之の代わりにはなれぬからな」
義満は耳元で囁くと体を離して居住まいを正した。義将はしばらく何を返すこともなく黙ったままであった。
義将の胸中にはよくわからない、なんともいえない感情が渦巻いた。怒りとも憤りとも悲しみともつかない、そんな感情。
​​─────あの男の代わりだと?儂を彼奴の身代わりにするつもりか。そんなのは御免だ。儂は彼奴ではない。代替品になどなってやるものか…
義将は俯いて顬を押えた。なんの気のせいか頭が痛むのを感じたからだ。
「御所」
義満と目を合わせることもなく問いかける。
曹植が兄の曹丕から敵意を向けられ、『七歩歩くうちに詩を詠まねば殺す』と言われた時に詠んだ漢詩に"本は同根より生ずるに 相ひ煎ること何ぞ太だ急なる"という節がありますがそれがしも今同じ気持ちです。元は同じ根なのになぜこうも煎られねばならないのか…誠に不思議ですね」
「しかし同じ根と言えど今となっては違うではないか。違う釜で煎れば変わってしまうのは当然だろう」
「御所が変わってしまわれたことを嘆いているのです」
足利宗家と足利尾張家の交わり。その元を辿ればまだ鎌倉に将軍と北条がいたころに始まる。はじめは足利尾張家が"宗家であった"。しかし、家氏の時代に母の実家の名越が得宗に翻ったがために嫡子から庶子に替えられ、代わりに異母弟である頼氏が嫡流となった。頼氏が足利宗家、家氏が足利尾張家の先祖の兄弟筋となる。
陰と陽、足利の光と影。この騒動が無ければ両者の現在の立ち位置は入れ替わることがなく、まったく違ったものとなっていただろう。元は同じ根。しかし今は違う釜。先祖の話だけではどうにもならない度し難い壁だった。宗家に近いところにあるという誇りを持っていた父が義詮によって頭を押さえつけられた時のように己も叩き潰されてしまうのだろうかと考え、義将は頭を振った。
抑圧がなんだというのか。己を押さえつけようとするものがあるならそれを排除しようとするのは当然の摂理ではないのか。
中納言を待たせているので余はそろそろ行くぞ」
腰を上げてその場を去ろうとする義満に義将は言葉を投げかけた。
「御所、あなたが言った通り眺めているだけではつまらないと思ったので私も日向に入ろうかと思います」
義満は唐突な言葉に一瞬なんのことがわからないと言いたげな顔をしたがやがて察したように笑った。
「太陽が隠れんうちにな」
義将が言わんとすることに気づいているのかいないのかは分からないが意味深ともとれる言葉を残して義満は去っていった。
庭に目をやると雲のせいか日向はうっすらと明度を落としていた。空には分厚い雲が流れてきているので恐らくもうすぐ日向は完全に消えるだろう。
"日向に入る"ためならば力を使うことも厭わない。それを強欲だとか身の程知らずだとか謗る者もいるだろう。それも構わない。ただ眺めるだけで無為に過ごすような弱者として終わりたくはない。義将はこの一筋縄ではいかない人生に賭けようとしている。
後は再び光が射す時を待つだけだ。それからどうなるかはなってみないとわからない。流れに乗ってみるのも悪くはないと思った。
この先の時運を見定めるかのように見上げると流れる雲は縷々と空を往っていた。