さよならまぼろし

一次創作サイト

さびしさのけだもの

 

 簾の下りた室の中はまさに夜そのものだった。
灯台の火が几帳に影を作り、己が以外は何者も存在していないような寂寥がそこに横たわっていた。常に感じている感覚ゆえに腹の内に収まったような馴れさえあるが、それと同時に諦めもあるような物悲しいようなよくわからない感情が渾然一体となっている。
この"夜"の中にひとりでいる。
ただそれだけで言葉に言い表せぬ気持ちになるのは何故なのだろうか。
灯台の火が揺れる。向こうから足音が聴こえた。薄氷の上を、あるいは舞台を歩くように静謐な音だった。御簾越しに現れた影が其処に止まる。
「公方様」
鈴の音のような凛とした声だった。わずかに潜めたその声が頭蓋に響く。
「藤若、参りました」
「入れ」
答えると声の主は素早く御簾の内に身を潜らせた。屈んだままの状態のその少年​───藤若は無言で此方に目線を向けた。近う、とひとつ手招きをすると音もせず優然と躙り寄った。
なにか言を交えることもなく玄色の双眸をしばし見つめる。ただこの意味もない物事がほんの一瞬でも胸の内に一抹の安寧を齎しているかのような気分にさせた。
「公方様、寝物語ですか」
痺れを切らしたのか藤若が口を開く。返すこともなく続きを促す。
「それとも、夜伽ですか」
その言葉に内側から身が震えたような気がした。魂を揺さぶるとでも言えるのか。ある種"待ち遠しさ"を感じていた言葉を与えられることへの悦びと至楽で軀が疼いた。
「今日は月が出ていないからな。来ないかと思っていた」
今日は曇天の夜日だ。足下すら見えないほど暗く、徒歩には向いていないだろう。
「雨が降ろうが暗かろうがあなたに求められればいつでも参ります」
微かにも眉を動かさず、声色も変えずに言い放つ藤若に気が昂る。"堪らなく"なって手を伸ばして小さな頤に触れる。柔な肌だった。
「己が夜なら、其方は月か」
玲瓏で静か、常に変わらずに在る姿は月そのものだ。
「しかし月は雲に隠れてしまえば見えなくなります」
「見えずともその姿を思い浮かべるのも良いものだ」
依然として微動だにしない藤若に自然と口角が上がる。頤に触れていた手を頸へと滑らせた。肌を掠めるような動きは愛撫そのものだった。細く、血の色が透けそうなほどの白皙だ。凡そこの下に肉や臓物が詰まっているとは感じられない。
「あなたは、私がずっと変わらないままでいるとお思いなのでしょう」
あるいは変わらないままでいてほしいという意を含んでいる。
「そんなものはありません。変わらないものなどこの世にはないのです」
その通りだ。権力も、物事の趨勢も、人の美しささえもいつかは枯れ老いて朽ちていく。しかし藤若の美貌は終生変わらないままであるような気がした。
「もし余が其方の見目美しさにだけ惹かれていると思われてるなら見くびられたものだな」
頸に鼻を近づけると藤若は軀を震わせた。押しつけた肌越しに薫った色香は未だ乳臭さを感じる童特有の匂いだった。
「其方は常に余が求めたものをくれるから好きだ。今まで誰も余が真に欲しているものを与えてくれなかった」
肉親の情は知らない。血の繋がった母とは離れて暮らし、父も早世ゆえに何かしてくれた記憶はない。親代わりの頼之とその妻である乳母には実の子に与えるに等しい情を注がれていたと思っていた。以前までは。
そんなはずなかったのだ。やがて政を為す者として相応しい人間に育てているに過ぎなかった。己を"人に非ざる者"にしたのは頼之にほかなかった。そうでなければ将軍ではあれないと、生きていくことはできないと知らしめられてきたのだ。
己が"愛を欲している"ということに気づくまでずいぶんかかった。周りにいる者は誰も真の愛情を与えてはくれない。"周りが求めるように振る舞わなければその代償が己に与えられることはない"のだから。"足利義満"である限り"人間"であることは許されないに等しい。己が何者でも無くいられる場所は閨のみだ。
「其方に"これ"を教えたのは太閤殿か?」
頸筋に触れていた手に力を込めると藤若はびくりと体を弾ませた。答えを聞かずとも意味することはすでにわかってた。個人的に懇意にしている老獪な師の顔が思い浮かんだ。
「太閤殿は余に色んなことを教えてくれたが"これだけは"教えてくれなかった」
手を肩に滑らせて背後に倒した。褥の上に横たえられた藤若に覆い被さるように近づく。翳ができた軀の至るところに唇を押しつける。額に、髪に、頬に、頤に、頸に接吻しながらとある女を思い浮かべた。
​────三条厳子。先日内裏で垣間見た美しい後宮。瓜実形の顔に濡烏の髪、己が理想とする女そのものだった。藤若の軀に厳子を重ね合わせるようにその貌を辿っていく。あの衣の下にはどんな肢体があるのだろう。どんな香りで、どんな色で、どんな声で啼くのだろう。手弱女のように見えて以外と強気なあの女の柳腰を掴んで蹂躙したらどんな気分だろう。好き勝手に己の物を捩じ込んだらどんな心地がするのだろう。ひとたび考え出すと止まらなくなってしまう。
主上の后であると言うのに、そんなことも気にならなくなってしまうほど厳子を己の物にしたいという肉欲が暴れ出しそうになる。いや、人の物だからこそ興味が湧くのだろう。他者の物を奪って己が物にすることの快楽を嫌というほど知っている。
藤若の最奥に子種を放つ毎に厳子を孕ませる想像をして気が狂いそうなほどの悦に耽る。元服するまでは男も女とそう大差がない。股を濡らし、男根を受け入れ、普段より一層高い声で喘ぐ。特に藤若は見目のせいか股の物を見なければ女そのものだ。
厳子はきっと己の求めるものを与えてはくれないだろうが、それでも構わないと思うほど彼女を欲している。こんな気持ちを抱く己が居ることに驚きつつも至極の気分に抗うことはできなかった。
逸る思いを抑えきれずに藤若の水干に手をかける。
「く、公方様、一旦お待ちを」
先刻から顔色一つ変えなかった藤若の瞳が今夜初めて揺れた。動揺している。無理はない、きっと今の己は飢えた目をしているだろう。待たぬ、という返答の代わりに眼前の唇に己のそれを重ねる。月と夜が、溶け合った。

 

 

 

 開け放たれた簾から蒼々とした草花が覗く。
庭先を眺めながら隣に座す男を横目で窺った。
「最近は藤若とずいぶん懇ろにしているようで」
穏やかな声色で話す公卿、二条良基は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ええ、太閤殿の"お陰"もあって良い童を得ました」
藤若と初めて会ったのは新熊野での猿楽興行での折だったがその以後己を介して良基と藤若も親交を得た。良基は繁繁と藤若に蹴鞠や和歌を教えているようで、それに乗じてあの"手練手管"を仕込んだのだろうと想像がつく。
「あれはまことに美しい童ではありますが、お気をつけを。恐ろしいほどの魔性を秘めているところがある」 
「…承知の上、肝に銘じておきます」
その魔性を開花させたのは貴方によるものもあるのではないかと、という言葉が喉元まで出かかったがなんとか飲み込む。
「まあ左中将殿なら"路傍の花にうつつを抜かす"ことも無いでしょうが…花は花らしく在るべき場所で愛でられるのが正しい在り方でしょうから」
「いえ、それがしは摘んでも美しいままの花が好きですからその考えは容れませぬ」
良基は思わぬ返答に面食らったのか此方を見てわずかに目を見開いた。
「それがしにかかればあれは摘んでも水を注ぎすぎたとしても枯れることはありませんので、ご安心を」
「…は、はあ」
「そもそも"あれの手管"を仕込んだのは太閤殿なのでしょう?でしたら心当たりがあるのでは」
ますます目を丸くさせた良基の双眸を見つめると見るからに動揺していることがとれた。やはり見当は外れていなかったようだ。
「将軍家と朝廷の末永い栄達のためにもぜひ、"太閤殿直々に"ご指南いただきたい」
良基の袖口から手を潜り込ませて素膚を探ると其処が震えた。普段滅多に見ることも触ることもない部分だ。決して若いとも柔いとも言えない感触だった。
「駄目でしょうか?」
己より年嵩の男に本来向けるはずもない​────ある種の甘えとも言える​────目で縋ると良基の頸元が上下した。 
「…貴方も私もありのままではいられませんな」
良基は諦念したような顔で己の手に重ねてきた。それを"諾"と捉えて胸裡でほくそ笑む。
「まだ夜ではないというのに」と良基がぽつり呟く。「そんなことはない」とすぐ側の簾に手をかけた。"夜"は手の内にあった。