さよならまぼろし

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夕霧 / この思い、左様なら

 五月十日、足利義満の葬礼は等持院で荼毘に付されたのちに恙無く終了した。
昼過ぎに葬送され、拾骨の頃には陽が傾き始めていた。
参列人がほとんど帰った寺の庭を歩きながら経嗣は池泉を眺める。緑青に縁取られた水面には陽光の粒が煌々と散らばっていて初夏の風月を映し出している。辺りに漂う吸葛の馥郁とした薫りを吸い込むと先刻までの無稽な心中はいくらか和らいだように感じた。
義満が薨じて今日まで四日ほどが経ったが草卒の間にあらゆることが過ぎていき、偲ぶ暇さえなかった。出棺の前に義満の顔を初めてちゃんと見た。顔は白いがこれまで見たことが無いほど穏やかだったように感じた。何となく顔を見る気にもなれずにいたがいざ見てみればどうということもなく、ある種拍子抜けしたような心地だった。瞼を閉じたその顔は眠っているだけのようにも見えて声をかければ起きるんじゃないかともふと考えたが、当然ながらそんなことはなく骸は微動だにしなかった。
どうということはない。義満がにわかに体調を崩したと聞いた時から薄々こうなることを考えていた。齢は同じといえど必ず何方が先に死ぬ。その先が義満だった。それだけの話だ。
改めて経嗣は義満がすでにこの世に居ないということを反芻した。魂は果無い空蝉を抜け出し彼岸へと旅立った。躰も火に焼べられて骨だけを残し崩れ落ちた。この先二度と名を呼ばれることも姿を見ることも頤で使われることも無いのだ。
今己は感慨しているのか清々しているのかあるいは悼み哀しんでいるのか、これら全て感じているのかあるいは何れも感じていたいのかよくわからなかった。霧のように縹渺としていて居所を失ってしまったかのような感覚だった。
あの方は、もう此の世にはいないのだな。
ただそう思うだけで泪さえ出てこない。
立ち止まって一面を見つめていると砂利を踏みしめる音が耳に入ってきた。
「関白殿、まだ居られていましたか」
現れたのは義満の弟である満詮だった。顔立ちは義満となんとなく似ているものの目許が違うせいで以前は意識することが少なかったが、今こうして見るとやはり兄弟だと感じさせるものがあると経嗣は思った。
「小川殿…、申し訳ない。気を落ち着かせてから帰ろうかと思って少し散歩を」
「関白殿はさぞ侘しいお気持ちもひとしおでしょう。昔より兄に至誠を尽くしておられていましたしそれに、」
烈々と言を立てた満詮は突如勢いを無くしたように口ごもった。目線を右から左に往させて口を半開きのまま黙った。言うつもりの無いことを言おうとしてしまったようだ。経嗣は続きを待ったが満詮がやや困ったように眉を下げたので「何か」と言を急かした。
「聊爾なことですから、気を悪くしたら申し訳ないのですが…。兄は恐らく、貴方のことを最も気にかけていたように感じていたのです」
「…………」
「この言い方だと要領を得ないな。兄の心を最も多く占めていたのは関白殿だと言えば伝わりますか」
ここまで言うつもりが無かったのか満詮は言葉を重ねて強調した。思ってもいなかった言葉に経嗣は「何と、」と些かわざとらしさを感じる反応を咄嗟にしたが、演技でもなんでもなく思ったままの反応だった。
「もちろん私の主観でしかありませんが」
「以前の私なら馬鹿げていると一蹴したやもしれぬ。だが今では強く否定できるような気持ちでもないのが正直なところだ」
やはり弟だけあって鋭い目を持っている。真実など今となっては草葉に隠れたが経嗣自身も義満からどう思われているかは薄々気づいていたし、己も義満をどう思っているか分かっていた。その思いに名をつけることも相手に伝えることもすることはなかったが。
「此方に悟らせるだけ悟らせて何も言ってくることもなし、特にどうともする気は無かったのだろう」
「では貴方と兄の間に徒めいた仲はなかったのですか」
「それは御辺の知っている通り」
何十年もの付き合いの中で義満の素膚に触れたことすらあったかどうかだ。それでいて枕を交じわすなんてことがあれば考えるのも厭になるような据が多くまとわりつくだろう。情に浮かされて不束な選択をすることを嫌うあの男が築き、守ってきたものを自ら壊すようなことをするだろうかなどと考えながらもやはりただ経嗣を弄したくて何もしなかったんじゃないかとも考えた。
「私をとんだ拗ね者だと思っただろう」
「いいえ。むしろ安心いたしました。もし本当なら貴方にどうお詫び申し上げようかと」
「詫びなど必要ない。私もきっとあの方と同じ気持ちだったから。ただ、薨るのに後少し時があればとは思ったが。あまりにも急すぎた」
言葉の後にわずかに満詮の双眸の奥が揺曳したのを経嗣は見た。経嗣は義満が求めるように動き、求めることだけの言葉を口にした。義満に求められなかったから必要のない"それ"を言うことはなかった。本当にどこまでも残酷で狡くて愛しい人。身勝手に生きて、身勝手に振る舞って人を振り回して何を言い遺すこともなく身勝手に置いて逝ってしまった。恨み言の一つくらい言いたいのにそんな言葉の具体的なものが一つも出てこない。若い頃は狂おしいほど惑わされて呪うように想っていたのにそんなことも嘘だったかのように記憶だけが遺される。
信じるより深く、希うほど強く。一度魅入ってしまえば正気ではいられなくなるのを知ったのはいつのことだったか。そもそも魅入ったのは何方が先だったのか、今となっては知ることもできない。
「小川殿は北山殿が身罷られてから体に触れたのか」
「触れましたが」
「感触は、体温はどうだった」
経嗣の問いに満詮は思い出すようにやや仰いだ。
「冷たくて、細くてがさついていました」
返答にただ「そうか」とだけ返した。心残りは体に直に触れられなかったことだけか。せめて一度くらいは手くらい触れてみたかったと思う。白くて、弓よりも筆を握ることの方が多かったせいで武家の者にしては細かった指。記憶の中にわずかにだけ残っている姿がぼんやりと頭に浮かんだ。死んだ直後にこれならば数年経てば顔も声もあらゆるもののほとんどを忘れてしまうのではないかと思った。 
そうなればどうしようか。奇麗さっぱり忘れてただ私とあの方が在った、という事実だけを残してしまおうか。でもそれもきっと悪くはない。美しさだけ取り除いた思い出は美しい記憶だけが残る。私が求めた姿のあの方を此岸に捨てていくのだ。ならばそれからはもう、思い残すことはない。清々した気持ちで私も彼岸を渡れる。
根拠はないが、経嗣は不思議とそう確信を得た。
「小川殿」
経嗣が呼ぶと満詮は目を合わせた。
「車を待たせて少し庭を歩かないか。こんな機会はまたと無いのだから思い出話でもしよう」
満詮は返答する代わりに微笑んで経嗣と肩を並べた。歩を合わせてどちらともなく過ぎ去った日の話をし始めた。 

この思い左様なら