さよならまぼろし

一次創作サイト

薄氷 / この世界は木陰と太陽の3メートル

  ようやく春信の風が吹くかという頃、今日はいつものような寒さはどこへやらと思うようなほどの陽気だった。
縁に出てきた斯波義将は庭先にある日差しに切り取られた木陰を目にとめた。黄褐色の福寿草が慎ましく咲いている。もう長らく続いているような冬がもうすぐ明けるのかという考えが過ぎり、つい反射的に空気を吸い込めば鼻腔が突き刺されたように痛んで背骨が軋む。春めいているのは青い空と陽光だけで空気は相変わらず冷たい。しかし、ここまで麗らかな日が近頃なかったせいもあって義将はなんとなく誘われるようにその場に留まった。
すっかり見飽きたと思っていたこの景色もあと少しで見納めだと思うとなんとなく寂しさを感じるような気がする。
もうすぐこの三条坊門の御所から北小路室町にある新邸に移徒することとなる。邸は完成を間近に控え、すでに幾分か室札を運び終えていた。御所の主、足利義満の新邸に対する期待はそれはたいそうなもので諸人に頼んで他家の枝垂桜を所望したり、あらゆる花の種を植え百花斉放のごとく庭を飾ろうとしている。

元は光厳天皇の皇子である崇光天皇の御所であった。観応二年に初代の尊氏が弟直義との抗争を決着させるために南朝に帰順したことにより廃位され、その翌年に和平を破って進軍してきた南朝軍に賀名生へと拉致されたのだった。その数年後に帰京が叶ったが、十年ほど前に先代義詮が別邸としていた室町の邸に献じたことで御所となった。しかし、やがて使われなくなりしばらく無人であったが隣にある今出川の菊亭も含めて新たな御所とすることになったというのが経緯だ。
移徒が近いせいか将軍の近臣たちも遽しくしているのをよく見る。その中には当然のごとく管領も含まれており義将は彼の男の顔を思い出して苦々しい気分になった。 
細川頼之。その男の顔が浮かぶたび義将の胸中に暗い翳を落とした。
かつては父高経後見のもとに義将自身が務めていた管領の役職。それも佐々木道誉らの策略で地位を奪われ父は越前で没した。赦免されて京に戻ってくることはできたが、手中に取り戻せた国は越中のみ。極めつけは管領の座には信用に値するとも言えない男が我が物顔で居座っているとまである。この状況に黙っていられるほど無頓着でも愚鈍でもなかった。
これ以上、あの男の好きにはさせたくなかった。反頼之の派閥には先代義詮の正室の渋川幸子をはじめとして土岐頼康、京極高秀など大いに影響力を持つ者たちがいる。有力者が数あれば諸将を動かすことは難しくはないだろう。しかし、最も鬼門となるのは将軍である義満の存在だった。頼之は義満が元服する前からその助けとなり、父のようにあらゆることを教えてきた。妻で乳母である有子も同様で義満が赤ん坊の頃から養育している。第三者の目から見ても義満にとってこの二人がただの近臣と乳母ではないことは明白で、頼之に至っては他者には理解できない絆で結ばれているとしか考えがないほどだ。それほど義満と頼之を引きはがすのは難しい。どれだけ主張しようが頼之を管領の座から引きずり下ろすのは困難だろう。あのまだ若い、柔和に見えて頑固な将軍を懐柔するにはどうすればいいのやら。
「日向を遠くから眺めてるだけでそなたは満足なのか」
ふいにした声に振り返ると当の悩みの種(の一因)の義満がいた。縹色の小直衣を着て義将より低い目線で前を悠々と横切っていく。義満は義将と同じ縁ではなく庭土の上に立っていた。
突然の登場に義将は驚くそぶりも見せず平然と返答する。
「眺めているだけでじゅうぶんなのですよ。見ているだけでも入った気になれる」
まるで今の己のようだと思った。欲しいものがごく近くにあるのにどうすることもできず玩具を取り上げられた童のように指を咥えて眺めている。私はそんなものには興味がないですよ、などと平気な顔をしながら実際は求めてやまないほど渇望している。それを今手にしている奴を殺してやりたいほどに。
「つまらんのう」
義満はそう言いながら日向に足を踏み入れた。此方に聴こえるようにやや大きい声量だった。
「眺めてるだけじゃつまらんだろうが。本物がそこにあれば手を出さなければ己のものにした実感がわかぬ」
ざりざりと義満が土を踏みしめる音がいやに耳につく。日差しの下で義満の顔は白く明るく照らされていて、いつか見た遠い昔の記憶のように儚く眩しい。
「来客はいいのですか」
「途中で抜けてきた。按察使中納言の話は長いからいつまでも聞いてたら足が腐る」
来客の按察使中納言というのは日野資康のことだ。御台所である日野業子の兄で婚姻によって義兄弟になった関係か関わり合いが多い。互いの邸を行き合うことは珍しくなくなっており、波長が合うようだが資康は一度話し始めるとなかなか収まらないという気質あってか聞かされる側の義満は毎回適当な理由をつけて中座していた。
「それは疲れるでしょう。心中を察しまする」
「いつも"長々と話をするな"と釘を指しているのにこれだからな。手に負えん」
伸びをする義満の背を見て義将の中に昔の記憶が甦った。義将が十五、義満が七つのときのこと。 
義将の邸で行われた乗馬始の儀の日に場所こそ違えど縁の側で話をしたのを覚えていた。内容までははっきりと覚えていないが確かあれがちゃんと言葉を交わした初めてのことだった。
「なんだ、義将」 
見られていることに気づいた義満がやや訝しげに言った。義満は己に近しい人物を私的な場で呼ぶときは諱を使う。義将のことも公の場では"左衛門佐"と呼んでいるが、こういった時には"義将"と諱で呼ばれる。
「これは失礼。昔、御所の乗馬始で我らが初めて話をしたときのことを思い出したものですから」
「乗馬始か…。そういえばあったな。そなたを馬に見立てて乗って戯れたことを覚えている」
「そんなことがあったのですか」
「覚えていないのか」
「申し訳ない。それがしはほとんど覚えていないものですから…」
「だったら何だったら覚えているのだ?」
遠い昔のことを記憶の断片をかき集めるように呼び起こす。当時はとても大切なことだったように思っていた気がするのに今となっては端しか思い出せない。
「声変わりが近かったような気がします。あの時の私の声は確か掠れていた」
「声?何を言い出すかと思えばそんなことか。余は斯様なこと覚えておらんぞ」
「互い違いですね」
「なぜこうも噛み合わぬのか…」
「ですがあの時はそれがしも父もこれがいつまでも続くと信じていたように思うのです。無論、斯様なことがあるはずないと分かっていながら」
義将の言葉と同時に風が強く吹き、ざあざあと木々の葉が戦いだ。声に被さるようにざわめいた葉が揺らぎ終えると春の陽にはいささか遠い風が凪いでいく。
「それがしにはなぜあの男がいつまでもあの座に在るのか理解できぬ。確かに政を司る手腕や諸人をまとめあげる力はあります。あの男だからこそなし得たこともあるでしょう。ですが、だからといってこれ以上彼処に置いていく必要はないと思うのです。現にあの男の力は衰えてきているではありませんか」
雲に隠れた陽光の加減によって地面にうっすらと影ができる。義満からはなんの感情も伝わってこなかった。
「あなたが個人的に執着している以外、あの男を重用する理由があるというのですか」
義将に遠慮するだとか憚るだとかそういった感情はもはやどこにも無かった。相手が義満だからこそ忌憚なく言うことができる。義将と義満だって伊達に付き合いが長いわけではないのだ。義満自身も義将が本音でぶつかってくることを知っていたはずだ。
「そなたは遠慮するということを知らんな」
「時と場合と相手によります」
「今はその何れでも無かったということか」
「肉親に近い情を抱いているからといって寵を注ぐのは悪手だと言いたいだけです」
「誰にだって人間の好き嫌いはあるだろう」
「あるのは仕方ありません。ですが好悪によって人選を左右すると政が立ち行かなくなります。仁政は個人的な感情ではなく善い行いによって成し得ることで決まるのです」
「綺麗事を」
「それがしはそれを綺麗事で終わらせない為政者になって頂きたいと思っているのですよ」
義満は呆れたように笑う。この主君は若さゆえにまだ政の本質というものが分かっていないのかもしれないと感じた。極限にまで追い込まれたことがないからそれを知る機会もなく、ある意味目を逸らして見ないようにしていると言ってもいい。
知らずに生きて済むからどんなに恵まれているだろうが。だが、知らないままでは"本物"になることはできない。無理やり機会を作ってでも目を向けさせなければいけない。逃れることなど、見ないふりなど不可能だということを。
「して、武州が辞めたとしてその後釜には誰を入れるつもりか。まさかそなたではあるまいな、左衛門佐」
義満は先刻までの呼び方をやめ、笑顔を無くして改まった表情で問いかけた。
「それがしが管領を?まさか。それがしはまだ若いですしとても務まらぬでしょう…」
我ながら安い芝居だなと内心で笑った。義満も白々しさに呆れを通り越して鼻で笑っていた。
謙虚さを演じるのはもはや様式美だ。内心では微塵も思っていないことを口に出してみせる。相手に心から信じさせる必要はない。言うことに意味があるのだ。
恐らく管領には今のところ己以外に適任はいないだろうと思うのだから就任することはやぶさかではない。現に反頼之の派閥内でも義将を押し上げようという機運が高まっていた。
去年の六月に越中守護代と国人勢力が一悶着を起こして頼之の荘園を焼き払ったときも頼之と義将の間が剣呑な空気になるだけではなく、他の大名たちもどちらかに与してあわや合戦かという状況になったことがあった。結局、義満が頼之を説き伏せたのと義将が頼之に慰撫のための礼と、大名たちの元に説伏のための使者を送って「自分たちの仲は諸人が思うほど不穏当なものではないから戦になることはない」と伝えさせて事を収めた。
その約二月後に起きたことでもそうだった。義満の近習である山下五郎と横瀬某の間に諍いが起こり片や死亡、片や負傷の刃傷沙汰が起こった。このことにより一時、洛内で騒擾が起こったため義満より鎮静の命が下った。この時も中心となって動いたのは義将だった。
武州よりも力があると誇示するためにあなたが先頭に立つのです」と説くように言ってきた幸子を思い出した。義将はただその助言に従っただけでもあったが、事を丸く収める力に長けているのは頼之より義将だと、そう考える者が反頼之派閥以外にも次第に増えていた。 
​─────頼之よりも義将の方が管領に相応しいのではないか?
そうした思いを抱いてしまうのも、もはや仕方のないことだった。義将自身も待望の目を向けられていることに多少なりとも気づいていた。
鉄面皮だの無愛想だの普段表情の変わらなさを揶揄されることの多い義将だったがこの時ばかりは笑みを堪えるのに苦労したのだった。
だから義満も諸大名と同じことを考えていると思うのはなんらおかしなことではないはずだった。
「そなたが本音で言ったのだから余も本音を言わぬわけにはあるまいよ。はっきりと言ってやろう」
義満は義将に近寄っていき、同じように縁のすぐ側に腰掛けた。ぐっと顔を近づけると義将の目とその黒い双眸がかち合った。
「そなたに管領は務まらぬ。なぜなら、そなたは頼之の代わりにはなれぬからな」
義満は耳元で囁くと体を離して居住まいを正した。義将はしばらく何を返すこともなく黙ったままであった。
義将の胸中にはよくわからない、なんともいえない感情が渦巻いた。怒りとも憤りとも悲しみともつかない、そんな感情。
​​─────あの男の代わりだと?儂を彼奴の身代わりにするつもりか。そんなのは御免だ。儂は彼奴ではない。代替品になどなってやるものか…
義将は俯いて顬を押えた。なんの気のせいか頭が痛むのを感じたからだ。
「御所」
義満と目を合わせることもなく問いかける。
曹植が兄の曹丕から敵意を向けられ、『七歩歩くうちに詩を詠まねば殺す』と言われた時に詠んだ漢詩に"本は同根より生ずるに 相ひ煎ること何ぞ太だ急なる"という節がありますがそれがしも今同じ気持ちです。元は同じ根なのになぜこうも煎られねばならないのか…誠に不思議ですね」
「しかし同じ根と言えど今となっては違うではないか。違う釜で煎れば変わってしまうのは当然だろう」
「御所が変わってしまわれたことを嘆いているのです」
足利宗家と足利尾張家の交わり。その元を辿ればまだ鎌倉に将軍と北条がいたころに始まる。はじめは足利尾張家が"宗家であった"。しかし、家氏の時代に母の実家の名越が得宗に翻ったがために嫡子から庶子に替えられ、代わりに異母弟である頼氏が嫡流となった。頼氏が足利宗家、家氏が足利尾張家の先祖の兄弟筋となる。
陰と陽、足利の光と影。この騒動が無ければ両者の現在の立ち位置は入れ替わることがなく、まったく違ったものとなっていただろう。元は同じ根。しかし今は違う釜。先祖の話だけではどうにもならない度し難い壁だった。宗家に近いところにあるという誇りを持っていた父が義詮によって頭を押さえつけられた時のように己も叩き潰されてしまうのだろうかと考え、義将は頭を振った。
抑圧がなんだというのか。己を押さえつけようとするものがあるならそれを排除しようとするのは当然の摂理ではないのか。
中納言を待たせているので余はそろそろ行くぞ」
腰を上げてその場を去ろうとする義満に義将は言葉を投げかけた。
「御所、あなたが言った通り眺めているだけではつまらないと思ったので私も日向に入ろうかと思います」
義満は唐突な言葉に一瞬なんのことがわからないと言いたげな顔をしたがやがて察したように笑った。
「太陽が隠れんうちにな」
義将が言わんとすることに気づいているのかいないのかは分からないが意味深ともとれる言葉を残して義満は去っていった。
庭に目をやると雲のせいか日向はうっすらと明度を落としていた。空には分厚い雲が流れてきているので恐らくもうすぐ日向は完全に消えるだろう。
"日向に入る"ためならば力を使うことも厭わない。それを強欲だとか身の程知らずだとか謗る者もいるだろう。それも構わない。ただ眺めるだけで無為に過ごすような弱者として終わりたくはない。義将はこの一筋縄ではいかない人生に賭けようとしている。
後は再び光が射す時を待つだけだ。それからどうなるかはなってみないとわからない。流れに乗ってみるのも悪くはないと思った。
この先の時運を見定めるかのように見上げると流れる雲は縷々と空を往っていた。