黒い虚の中にそれはぼうっと浮かび上がっていた。
白い人魂のようにも、あるいは夏日の陽炎のようにも見えるゆらぎが一瞬のうちに千々に梳かれていく。糸が乱れに乱れて何の形を成すのかと考える暇もなく目の前でそれは突然大きく化生した。先刻よりもさらに人形に近く、水面に雫が落ちたような揺らぎは烈しさが増した。これは何だと思っていると私の腹の辺りに長い腕のようなものが差し出された。
「近う、近う」
腕が招くように動くと連動して揺らぎも増えた。人間が発するそれには程遠い低く、唸るような人魂の声が私を誘ってくる。その誘いに応じるか否かという判断に時をかけることもなく、私はただ誘われるがまま、ただ糸のような腕に引かれるままに近づいた。
人魂の隣に立つと瞬間、ただ黒い虚しかなかったそこは幾色に彩られた。空は青々と染まり、丹塗りの唐門、白い花をつけた橘の木、蒼い葉桜、樺茶色の檜皮葺きの切妻屋根、踏みしめるたびに音のする白い玉砂利。そこは内裏だった。
あらゆるものがそこにあり、鮮やかに色がついていた。私は今、どうなっているのかと考えた。先刻まで何もない場所にいたはずなのにいつのまにか南殿の前に立っている。まるでついさっき”世界が築かれた”かと思うほどだ。そこらじゅうを見回した後にすぐ傍を見ると人魂は昼の陽光の下に晒されているとは思えぬほどなおもはっきりと存在を現していた。私はここに来て初めて身震いをした。これは夢だ。だから、こんな奇妙なことが起きるのだとそう己を納得させることにした。
「なあ、おまえは何者なんだ」
慄く気持ちを押し殺して私がそう聞くと人魂は口角を上げてにやっと笑った。
「おれか。おれは、鬼だ」
鹿角のように長く鋭い牙が覗いた。私は鬼だと言われて思い浮かぶ姿には似つかわしくないせいかなんとなく頭を振る心地だった。人形ではあれど、人には程遠い、しかし人ではないというその”異形さ”がなおさら人ならざる者たらしめているのではないかとも、そう思うことにした。
「その鬼がいったい私に何の用だというのだ」
「おまえ、憾みを持って生きているだろう。おれがそれを晴らさせてやろうとこうしておまえの前に現れたのだ」
「ほんとうに言っているのか」
「ああ。ほんとうだ」
毅然とした態度でそう言う鬼に私は疑心を抱いたが、どうせこれは現ではない、夢なのだからと思い夢の中でくらい己の胸の裡をありのままに告げてみるのも悪くないだろうと観念した。
「ならば私はもっと昇進したい。代々の先祖の極官をも越えてさらに昇り詰めたいのじゃ」
私の中にあるひとりの男の顔が浮かんだ。友である頭の弁だ。
あの男は羽林家である私より下の家格である名家の出身でありながら、私とそう歳も変わらないのに私より立身出世の見込みがある。官職は蔵人頭で私は右兵衛督。官位はどちらも従四位下だが蔵人頭は今後の昇進が大いに望める職掌である。主上に近侍し、禁裏での執務を統括するという重要な役目であるが故に多くの者が切望する職で、その中に当然ながら私も例外ではなかった。
頭の弁は少し前まで私より官位が下であった。だというのにこの短期間で昇進を遂げたのだ。それも、主上の覚えめでたいからだった。端整な容貌で、頭もよく切れる。ひいては人格も優れて人望に篤いとなれば上から気に入られるのもおかしなことではなかった。
されど、己より家格が下の友が主上の寵によって昇進していくのを指をくわえて見ているだけというのも実に歯痒いものである。私の家の極官は権大納言だが、頭の弁はさらに公卿として官位を極めていくに違いない。それを考えるだけでいつになく胸中に暗としたものが蟠り、渇望と嗜欲に雁字搦めにされてしまうのだ。
「いいぞ、叶えてやろう」
人魂は悠然と言う。
「その代わり、おまえの身近にいる人間をひとり差し出せ。それが対価だ」
身近にいる人間と言われて即座に思い浮かんだのは、またも頭の弁だった。なぜあの男を思い浮かべたのかは私でもよくわからない。
「目が覚めたら今小路に住む薬師の元へ向かえ。そしてそこで貰った薬をおまえが追い越したいと思っている一番の人間に飲ませるのだ。さすればひとたび道が拓けるだろう」
なぜ昇進と薬を飲ませることが関係あるのかわからなかったが、まあどうせ夢だからと深くは考えないようにした。
「楽しみにしておれよ、右兵衛督」
耳元で囁かれて気づいたときにはそこに殿舎も何もなく、黒い虚の中に還ってきていた。