「南御所さま」
康子が北山第南御所にある居室にいると名を呼ばれた。声がした方へ振り向くとそこにいたのは先日薨じたばかりの夫である義満の実子である義嗣だった。康子は義満の正室であった業子の薨去により、後妻として入室したが義嗣は摂津能秀娘である側室の春日局との子でこの二人に血のつながりはなかった。しかし、義満は義嗣を梶井門跡から呼び戻し、傍に置くようになり、この北山第でともに暮らすようになったのだった。
義嗣の顔と声色には不安のようなものが滲んでいた。もともと堂々とした気風のある子ではなかったが、今はさらにその毛色が濃くなったように見える。真新しい直垂と烏帽子はまだ着こなせておらず、まだ初々しい。
「どうかしましたか?こちらにきなさい」
康子が穏やかな様子で手招きすれば義嗣はおそるおそると言った感じで部屋に入った。その様子は父にも兄にも似ておらず、ある意味武家の子らしさはない。義嗣にとって頼みの綱であり、精神的な支柱である父が急逝したことにより身の置き場がない気持ちになっているのだろうと康子は思った。無理もない。義嗣が還俗してから三ヶ月あまりしか経っておらず、その間に目まぐるしく色んな事が起こったのだから。
義満は義嗣を呼び戻すなり、童殿上させた。さらに半月ほど前に元服し、従三位で参議に昇った。さらに義嗣は後小松天皇の猶子となった。この義嗣への待遇と”義嗣”という名を与えたことから義嗣を将軍家の後継者にするのではないかと武家の間で、後小松天皇の猶子としたことで親王にするのではないかと公家の間でささやかれた。そんな噂が吹聴されたせいなのかはわからないが、生来気が強いわけでもない義嗣は重圧を感じたようで、その中でも特に実兄である義持に対して憚っているようなところがあった。
その義持がこの北山第に移徒することとなった。義持は三条坊門に義嗣と春日局のために邸を造らせた。そのため、義嗣は間もなくこの北山第を立ち去ることとなる。
康子はきっと義嗣のことだから、義持が怒って出ていけと暗に言っているのだと解釈しているのだろう。繊細で遠慮深いこの夫の愛児が、思い込みが激しいところがあるということを三ヶ月という短い間でもともに暮らした康子は知っているのだった。
「そんな顔をしないで。折角の立派な顔立ちが台無しですよ」
康子と向き合って坐った義嗣は康子の言葉に逡巡した後、気まずそうに口を開いた。
「私はどうすればよいのでしょうか」
「どうすれば、とは?」
「私は兄上を怒らせてしまったのかもしれません」
康子の思った通りであった。義嗣は今にも泣きそうな顔をしていた。
「三条坊門に邸を造ったのでそこに移れと兄上は仰いました。それはきっと私が父上や南御所さまと暮らしているのが許せないからでしょう。ほんの少し前まで寺にいた私ごときが突然やって来て参内して、官職まで賜ったのが間違いだと…」
「義嗣殿、落ち着いて」
早口で捲し立てるように話し始めた義嗣を康子は宥めた。一旦思い込んで話し始めるとなかなか止まらないのが義嗣の稟質であった。
「そんなにご自分を責めなくても宜しいではありませんか。三条坊門に移るのは御母上となのでしょう?もしかしたら今は離れて暮らしているので室町殿なりに気を遣ってくださったのかもしれませんよ」
「でも…」
「優しくて慎重なところは貴方の長所ですが、物事を悪く考えすぎてしまうのは悪い癖ですね。貴方は室町殿から嫌われていると考えているようですが、現に室町殿からそのような言葉をかけられたことはありますか?」
康子は膝の上に行儀よく置かれた義嗣の手をとった。まだ大人になりきれてない、刀を握ったことのない白皙の手だった。義嗣は康子の目を見つめて、「いいえ、」と囁くように答えた。
「そんなに悲観しないで。室町殿は貴方が思うよりずっと貴方のことを想い、愛してますよ。もちろん、私も」
握られた義嗣の手に力が込められる。その手はわずかに震えていた。
康子は、この子はきっとこれからも兄を慮って窮屈な生き方をするのだろうと思った。それでも、ほんの少しでもこの子が安寧に暮らしていけるように亡くなった夫のぶんも支えて、愛してやりたいと切に願うのだった。