さよならまぼろし

一次創作サイト

碧い瞳は美男の証 4

 四階に辿り着き、端に在る大人一人ようやく通れそうなほどの幅の物置部屋に入るとグラントリ―は梯を取り出し天井に向かって掛けた。

矩形のタイルの一つを剥がすと、タイルがあった向こうに何かが在るのが見えた。フィリックスがそれを見て驚いていると、グラントリーは梯を上ってその穴の中に入っていった。グラントリーに声を掛けられ慌ててフィリックスも続いて梯を上る。グラントリーが電燈を付けると、其処には六帖ほどの部屋であることが分かった。小さな出窓が付いていて、フィリックスが棲んでいたホワイトチャペルの宿舎よりは少しだけ広い。板張りの床は踏むたびにぎしぎしと鳴り、白い絨毯が出来ていた。グラ

ントリーは埃を吸い込まないように口を蔽いながら白くなった出窓を開いた。がたがたと今にも壊れそうな音を出しながら開くと、そこに黒色が現れた。四階の更に上にある屋根裏部屋からの眺めはなかなか良さそうなものだった。

「長らく使っていないし、掃除をしていないから汚いがベッドもあるんだから一人で住むにはじゅうぶんだろう」

窓のすぐ傍には埃を被っているベッドが置かれていた。その隣には小さなテーブルも在る。その他には簡易的なビューローデスク、クローゼットも在った。箒で履き、雑巾で水拭きをし、敷布を洗濯すれば充分に使える状態だった。壊れているようなところも見られない。フィリックスにとっては充分すぎる部屋だった。此処は自分だけの屋根裏の楽園だ。

「本当にここを此処を使っていいんですか?」

「好きに使ってくれ。もうきみのものだから」

「ありがとうございます」

フィリックスは部屋の中を歩き回って部屋じゅうの物を一つ一つ確認していった。デスクの抽斗を開いてみたり窓を触ってみたり意味もなく壁から壁に歩いてみたりした。隅にあるクローゼットの扉を開くと、衣紋掛けが二つあった。下を見ると隅の影に何かが隠れていることに気づいた。体を屈めて手を伸ばしてみると指先に硬い物がこつんと当たった。掴んでみると掌に乗るほどの蝋で出来た彫り物だった。ゾウの上に乗ったマハラジャが精巧に形作られている。フィリックスは何故こんな物が此処にあるのかと不思議に思ったが、きっと以前この部屋を使っていた住人が置いていったものだろうと考えた。フィリックスはなんとなく、そのマハラジャの彫り物が気に入った。電燈の灯りに重ねると透けるように象牙色が橙色を帯びるのがとても奇麗なのだ。いつでも見られる場所に置こうと、ベッド横のテーブルに壊れ物を扱うようにそっと置いた。

フィリックスはグラントリーに心から感謝した。なんだって、自分を雇ってくれて食事を与えてくれてこんな素敵な寝床まで宛がってくれるのだから。この先不幸に見舞われようが殃禍に巻き込まれようがかまわない。若しグラントリーが悪魔だったとしてもそれで良い。どうせ魂を売るなら幸せを感じながら死んでいきたい。そんなことを考えながら、フィリックスはこれからの此処での生活を夢想した。

 

 

敷布を交換し簡単に掃除をして、残りは明日やろうと思ってフィリックスは寝床に入った。

その夜、フィリックスは奇妙な夢を見た。何故だか知らないが、フィリックスは今自分が見ているものが現実のものではなく”夢の中のもの”だと気づいた。元来、夢は夢だと認識できないのが常だがフィリックスは気づいたら”いま自分は夢を見ている”のだと気づいたのだった。

靄がかかったようなぼんやりとした意識の中で最初に現れたのは綾羅錦繍と煌びやかな宝石を全身に纏った王様だった。密陀僧色の衣裳を身に着けた四人の従僕と輦台の付いた象に乗ってフィリックスのいる方へ前進して来た。

フィリックスはこの王様に見覚えがあった。そうだ、彼れは先刻クローゼットで見つけた彫り物と似ているのだとそう思った。姿も象に乗っているところも殆ど彼の彫り物と同じだ。フィリックスは奇妙な感覚に陥りながらも目を白黒させていると王様と従僕たちはフィリックスなど見えていないかのように傍をすり抜けて往った。

何が起こっているのかも分からず去って往く背中らを見送ってフィリックスは再び同じ方向から人影がやって来たことに気づいた。現れたのは漢服に身を包んだ男だった。ゆったりと緩慢な動きで歩く様子を見ていると、その後ろから幾つか物影が飛び出してきた。孔雀や丹頂などの動物だ。フィリックスはまたしても見覚えのあるものだと思った。ぼんやりと浮かんだ思考の中で、彼れらはパントリーに在った食器類に描かれていた動物だと分かった。

やはり不思議に思いながらもフィリックスの傍を通り抜けていく鳥たちをただ茫然と見ていることしか出来なかった。

鳥たちが完全に消えると今度は向こうから複数の顔がぼおっと浮かんだり消えたりしながら近づいてきていることに気づいた。

その顔たちがフィリックスが”よく知っているもの”だと気づく頃には、もうずいぶんと接近していた。茶髪の男とその隣に立つ金髪の女。そしてその周りには十代前半ほどの童幼が四人立っていた。

フィリックスはその人物たちが何者なのか分かると涙が滲んできたのを感じた。どんなに会いたいと焦がれても会えなかった、会うことが絶対に叶わない相手だった。たまらずに走り出そうとしたが、走ることは出来なかった。腕を振って足は地面を蹴った。前進をしたはずだった。

だが何度地面を蹴っても、体を前のめりにしても”彼ら”との距離は縮まらなかった。フィリックスは水中で溺れたかの如く踠いた。四肢に鉛の錘でも付けられているのかと思うほど体は重く、フィリックスの意思通りに動くことはなかった。次の瞬間には錘から解放され、薬室から吐き出された薬莢のように地面へと崩れ落ちた。

つんのめる前に見えた”彼ら”の顔は魂の入ってない石膏像然としていてフィリックスは”彼ら”が自分の知っている家族ではなく、単なるみてくれだけつろ似せた模倣物なのだと気づいた。フィリックスが再び体を起こす頃には”彼ら”は影も形も無く、水泡のように靄の中に消えて行った。ぼんやりとした視界の中で見たあの”しあわせな虚像”は確かに、フィリックスにとって最愛の家族と同じ外見をしているだけの人形だった。

あの顔が脳裡に強く焼き付けられ、発露しそうだった感情がティーカップの底に溜まった砂糖のように蟠った。其処から動くこともなく空ろな向こう岸を眺めているとどこからともなく人影が現れた。靄から出てきたのは院長だった。僧衣に身を包み姿形は”あの時まで”と同じだが、いつも浮かべていた柔和な笑みはどこにもなく只索然と立っていた。

フィリックスはそれが先刻の”彼ら”と”同じ類”の物だと感じた。外面だけ精巧に作っただけの人形だが裡に魂が入ってないことははっきりとわかる。次々と現れる珍妙な夢遊者たちに頭を悩ませながらただ院長の顔を見つめていると、突如院長の背中を黒い靄が蔽い被さった。亜麻布に沁みのように広がっていく黒い斑――あの時あの路地で見た彼れだった。

院長の全身が黒に染まったかと思えば、次の瞬間には塑像を壊すかのようにばらばらに砕け散っていった。肉が腐った独特の臭いとともに砂塵のように何処かに消えて行く。院長の姿が完全に失せると、不定形の黒い靄は質量を持ったようにみるみるうちに人の形を成していった。

そして、院長が居た場所にまるで最初から其処に居たかのように屹立した。グレーの背広に包まれた痩せて頼りない線を描く躯、靄がかかって隠れた顔と素性は全く読み取れない。微動だにせず只一点こちらを見つめてきているということだけを感じてフィリックスは体を震わせた。そしてこの人物が院長を殺したということは自ずと分かった。顔が隠れているという以外は街中を歩くサラリーマンと一見変わらない出で立ちだが、その背にナイフを隠しているかのような秘められた兇暴さ、邪悪さが伝わってきた。

まさにそれは快楽殺人鬼が纏うそれのような――「喃喃汝の心の臓を喰らわせて給え」――突如として響いてきた声が空気を震わせた。とても離れた距離から発せられているとは思えぬほど明瞭に、そして低く淀んだ男の声だった。蛞蝓が耳のところまで這い上がってきたような不愉快さに思わずフィリックスは胴震いする。

今すぐ此の場から逃げてしまいたいのに意思に反して体は動かせず、腹の底から湧き上がる恐怖と憤怒に反して声を挙げることも叶わなず、只全身冷や汗が噴き出す感覚だけがあった。フィリックスの推察は次第に確信へと傾いていく。”彼れ”は間違いなく人の姿を成しているが、快楽殺人鬼でもサラリーマンでもない。”彼れ”はきっと、”怪物”だ。

 

「実に憐れだな」

背後から声が聞こえてフィリックスは瞬時に振り返った。先刻までの奇妙な拘束も嘘のように解け、夢から覚めたかのように震えも不愉快さも消え去った。しかし糸で引っ張られたように振り返った先に居た”男”にフィリックスは唾を呑み込んだ。

ノックスが先刻と同じ出で立ちでそこに居たのだ。さらに驚くことは、家族や院長のように石膏のような虚像ではなく、正真正銘”生きている”人間の姿をしていた。まるで”夢の中に直接入ってきた”かのようだった。麗らかな午後の畦道を散歩しているといわんばかりの足取りでフィリックスの方へ近づいた。先刻の無愛想な表情からは想像できないほどの笑みを浮かべているので、フィリックスはますます気味が悪くなった。

「おまえはほんとうに憐れなやつだ」

ノックスの掠れた声がすぐ傍で聞こえる。先刻聴いた時は聴き心地のいい声では無かったはずなのに、何故か今は流れるように、そして穏やかに耳の中に入ってくる。

金貨の流れる川を渡り、蒼い木が甘橙を実らせ、花を芽吹かせる息吹を侶て、春の精霊とともにやって来たようだ。見咎める言葉とは裏腹に悠然とした挙措で只鮮やかに、朗らかに笑っている。周囲の靄に包まれた奇妙な空間とあまりにもちぐはぐでノックスの存在だけが浮いている。フィリックスは自分にかけられた言葉の意味など考える暇もなく、茫然と立ち尽くす。

「家族は皆死に、雇い主からは虐げられ、ぼろ家で鼠と暮らし、その日食うパンすら手に入らずに遠くから他人を羨むだけのお前は憐れだよ」

フィリックスはなぜノックスが自分にこのような言葉をかけてくるのか分からなかった。先刻握手を交わした時も歓迎されていないということはなんとなく分かっていた。しかし、なぜ夢の中に現れてまでこのようなことを言ってくるのかはまったく見当がつかなかった。

「おまえは”あの時”死んでいたほうがよかったんだ。兄弟たちとともにな。人間は人生で最も幸せな時に死ぬのが一番なのだからな」

槌が金床に打ち付けたかのような衝撃をフィリックスは感じた。

そしてその槌に己の頭を殴打されたようだった。フィリックスはこれまで出来る限り考えないよう努めていた言葉だった。”あの時死んでいればよかった”ということは思うべきではないと己を律した。

しかしその言葉をかけられて真にそれが正しかったのかとう確信は持てなかった。ノックスの言うことこそが正しいのではないかと、そう思わずにはいられなかった。しばし黙して考えていると、フィリックスは背後に気配を感じた。背後にあったもののことを思い出してゆっくりと振り向いた。黒い靄から覗いた口が吊り上げるように笑っていた。