さよならまぼろし

一次創作サイト

碧い眼は美男の証 3

 契約が終わり、部屋から出るとグラントリーは湯浴みをさせてやるとフィリックスを浴室に連れていってやった。

フィリックスはそのことに感激した。仕事終わりで泥塗れの上今までにないほど汗を流したので、体の汚れを水で洗い流せるのは恐悦至極なことであった。

まだ両親が健在で屋敷で暮らしていた頃は浴室があって湯水浴が出来ていたが、工場や救貧院、泥ひばりの仕事をしていたときはまともに入浴なんて出来なかった。浅い盥に水を入れて体を拭く程度しかできなかったが、これが元からの習慣ならまだしも、湯水浴の習慣があったフィリックスにとってはつらいものだった。だから湯水浴させてくれると聞いたときは涙が出そうなほど嬉しかったのだった。

浴室は広くは無かったが浴槽も一人入れるだけじゅうぶんな物だった。湯沸かし器の使い方を教えてもらい久しぶりの湯水浴をした。ひさびさすぎたせいかまるで生まれて水浴びをした赤子のような気分だった。

グラントリーは着替えにポプリンのシャツと褐色のズボンを用意した。他の従業員の御下がりらしく、そのうち仕立て屋で採寸してもらって専用の服を拵えると言っていた。フィリックスは御仕着せでも作るのかと思ったが実際どうなのかはわからない。

用意された服はフィリックスにぴったりのものだった。先刻まで着ていた継ぎ接ぎだらけの襤褸とは大違いで破れた箇所も色落ちした箇所も汚れた箇所も無かった。アイロンがあてられたのか皺一つ見当たらず、フィリックスは久しぶりに着たまともな服であったため上等な晴れ着を着たかのような気分だった。

「腹が減っているだろう。食事を出してやろう。と言っても、たいしたものは無いんだけどね」

そう言いグラントリーはフィリックスをキッチンへと案内し、テーブルに着席させると白いライ麦パン、チーズ、ニシンの燻製、ペストリー、ミルクを出した。テーブルに置かれた温かい食事にフィリックスは思わず唾を吞み込んだ。少し前ならドリッピングつきのパンにミルクというのが毎日の主な夕食だったというのに、かつての屋敷に居た頃の生活に戻ったんじゃないかと錯覚するような心境だった。精肉どころかベーコンすら食べられないほど質素な食生活だったのに突然こんなに良いものを食べて胃がびっくりしないかと心配にもなったが、それよりも獣のように唸り出る飢えと渇きを満たしたくて喰らいつくように料理に口を付けた。

グラントリーの「遠慮せずにおあがり」という言葉とともに、味わう暇もなくテーブルに出された料理を全て腹に入れていく。そうしているとあっというまに皿にあったものは影も形もなく消えていた。

「よほど腹がへっていたんだな。あっというまに無くなってしまったよ」

傍で見ていたグラントリーは感心したように言った。フィリックスはその言葉にちょっとした羞恥のようなものを覚えた。あまりに賤しい食べ方だったかもしれない。しかしどうしようもなく空腹だったのは確かだったし、食べ物に在りつける幸福のほうが上だった。フィリックスがふとキッチンの中を見回すと、先刻までは感じることのなかったものを感じた。家の広さの割にキッチンが広く見たことのないような器材が沢山置かれているが、それ以上にキッチンの空気が”異様”だと思った。至って普通の内装なのに”おどろおどろしい怪物”が潜んでいるような不自然と、端切れのように見えないところが腐蝕しているかのような奇怪さが漂っていた。”呪いが繞った荒寥の家”などと形容するといみじくも言い当てた表現だ。フィリックスは鼬の巣に放り出された盲蛇のような気分になった。雇ってもらえることになった時は純粋に喜ぶ気持ちがあったが、あの一計の帰趨が此れであるとは考えていなかったので突如として心配事が生まれたのだ。此れが単なる杞憂で終わるならば其れに越したことはない。否、そうであってくれと希うばかりであった。

フィリックスは何かを信じることももう厭になっていたが、望みを並べて失ったわけではなかった。この家が、この主人が自分を救ってくれるのではないかと思ってしまうのはきっと人間であれば至極真っ当なことだ。

「おいで。きみの部屋に案内してやろう。仕事は明日からだから今日はゆっくり休むといいよ」

食器を下げるとフィリックスはグラントリーの言葉に従ってキッチンを後にした。

「きみの部屋はいちばん上、屋根裏だけどいいかい」

「部屋をもらえるだけでもじゅうぶんです」

どれだけ狭くても汚くてもぼろくても個室が与えられるだけましだとフィリックスは考える。それにどうせ寝るだけならそうであって何ら問題はないはずだから。グラントリーを追って球根のような形の装飾的な手摺子のついた黒光りしている階段を上っていく。

「そういえば、ずいぶんと見入っていたみたいだけどぼくの蒐集品が気に入ったのかな」

その言葉を聞いて、フィリックスは一瞬キッチンのことを言ってるのではないかと体が強張ったが”蒐集品”という言葉で違うのだと分かった。先刻のパントリーのことを言っているのだと、そう思った。

「あまりに奇麗な食器だったから。あんなに奇麗なものははじめて見ました」

「そうか!きみは良い”眸”をしているね。ぼくに言わせてみれば、あの食器たちはどんな高価な金地金より魅力的に見えるよ」

グラントリーはうっとりとして言った。宝石に魅入られた女さながらにまるで愛する者を想うように微笑んでいた。確かに言う通りあの食器たちはとても美しかった。あんなに美しく磨かれたものは今まで見たことがなかったし、生まれた時に授けられた銀の匙に劣らないほど魅力的に見えた。

「彼らが何の柄か分かるかい?蘭だったり木犀だったり薔薇だという植物や、孔雀や龍とかの動物をあしらっているんだ。ああいった物を何て呼ぶかわかるか?」

「さあ。わかりません」

そう言いながらフィリックスは先刻パントリーで見た食器の柄を思い出した。植物や動物が描かれているのは分かったが、それらの名前までは知らずぼんやりとした姿だけが浮かぶ。

シノワズリと言うんだ。聞いたことないか?ぼくはいわゆるシノファイルってやつだよ」

グラントリーは喃々と喋り続けた。好きな物に関することは幾らでも喋り続ける気性なんだろうとフィリックスは思う。様子からしてかなり好きなようだ。

三階へと続く階段の踊り場に来ると、上の廊下から足音が聞こえた。二人がその方向を見遣ると其処には若い男が立っていた。男はフィリックスに少し視線を遣って立ち止まるがすぐに階段を下りて二人のところまでやって来た。

「グリー。俺の時計を何処に置いているんだ?」

「やあアーニー。悪いね、今日時計屋から帰ってきてそのままにしてたんだった。ぼくの部屋のデスクに置いてるから、勝手に持って行ってくれ」

「わかった」

男はフィリックスのことを訊ねるわけでもなく、まるで居ない者かのようにグラントリーと言葉を交わした。フィリックスは男の無関心そうな態度と自分だけ一人蚊帳の外である状態にすこし居心地の悪さを感じた。それに聞き覚えのない名前が聞こえた。”グリー”というのは恐らくグラントリーのことで、”アーニー”というのはこの男のことだろうと察した。”アーニー”という呼び名もきっと本名ではなく綽名なのだろう。グラントリーは笑っていて随分睦まじい様子であるので余程親密な仲であることが分かる。

「アーニー、彼はフィリックス。新しい仲間だ」

グラントリーはフィリックスの方を見て言った。アーニーと呼ばれた男はフィリックスを訝しげに見た。突然仲間だと連れて来たのもおかしいし、そもそもフィリックスの瞳が”碧くない”ことを不審に思っているのだ。

「下働きか」

「そうだ。雑用兼小姓かな」

雑用はともかく小姓という聞き覚えの無い言葉を聞いてフィリックスは顔に出さずと内心で焦りを感じた。小姓をするというのは聞いていなかったが、グラントリーの様子では既に確定事項のようだった。

「俺はアーネスト・ノックス。宜しく頼む」

「宜しくお願いします」

アーニー――もといアーネスト・ノックス、と名乗った男は自己紹介をしたが、未だ不信感を拭い切れていないといった様子だった。フィリックスはノックスとしばしの握手を交わすと、彼の姿を観察した。ノックスはグラントリーと違いラウンジスーツを着用していた。象牙炭の黒髪に鋭く切れ長い紫青色の眸、滑らかな線の顔郭が冷たい印象を醸し出しており、鰾膠も無い男だった。此れだけだと只のいやな男だったが、ノックスの最たる特徴は容貌ではなく其の”声”だった。怜悧そうな容貌からは想像できないほど低く嗄れている。あまり聞き心地の良い声質ではないのでそれが更にノックスの印象を裏付けているのではないかと思った。

「じゃあアーニー、また後でな」

「ああ」

フィリックスがグラントリーに付いて階段を上ろうとした時、すれ違いざまにノックスと眸が在った。ほんの玉響だったが鋭く澄んだ紫青色が射抜くようにフィリックスを捉えたのだ。瞬間なのに其の場で足に杭を打たれたかのように動かなくなった。グラントリーが数段先に上がり、ノックスが数段下りた先にいるころに軈て足が動く。奇妙な感覚だった。グラントリーといい、ノックスといい神妙な碧眼ばかりだ。筆舌には尽くし難い、怪しい魅力が在る。きっとこの店にはそういった碧眼の者ばかりを集めているのだろうと、フィリックスはそう思った。