さよならまぼろし

一次創作サイト

七十七年先の君を想ふ


七十七年前の彼に捧ぐ



海が割れるんじゃないかと思うほどの轟音がした。
その一瞬音が消え、次第に耳鳴りのように高い音が鳴り響く。再び聴覚が鮮明になったとき、先程までは聴こえなかった音が近くからした。水が流れる音だ。落とされた爆弾によって甲板か船体のどこかに穴が空き、この通信室に水が入ってきたようだった。しかし、感覚はどこか鈍麻で意識はあるはずなのにわずかに靄がかかってるようにただ音のする方向を見ているだけだった。
「​───き、志木!」
耳元で名を叫ばれ、意識が引き戻された。名を呼んだ本人で同期の二水である浅海大介は鬼気迫った顔でこちらの顔を伺っている。
「おう、浅海…」
「大丈夫か?お前気の抜けた顔をしてる場合じゃねえぞ」
「ああ、すまん…」
そこまで会話を交わして先程の衝撃か突然の出来事に混乱したせいかはわからないが、状況とは裏腹に頭が冷えていくような、途端に思考が止まってしまうような感覚に陥ったのだと自覚した。そのような状態になってしまうのも無理はなかった。
巨大な揺れに襲われてから、この状態に陥るまでの時間は余りにも短く、一刻の猶予も許されていない。米軍機の襲来を受けて攻撃開始をしたものの、あっというまにこの有り様である。他の数少ない味方護衛艦の被害も同様に甚大でおそらく小笠原諸島輸送艦が無事に到着できる可能性は限りなく低いだろう。
水が脛の辺りまで来ると、通信機器からばちばちと火花が経つ音がした。非常に精密な機械だ。水がかかって故障したのかもしれない。もう使用することはできないがそれ以上に不用意に近づけば感電する危険がある。浸水を止めることもできないだろう。今の我々に残されている道は艦とともに運命を共にするか、退艦するかのどちらかだ。そう考えた時、伝声管から声がした。
「退艦!総員退艦!各員即刻この艦から退避せよ!」
司令塔からの総員退艦命令だ。この命令でようやくこの艦から脱出することが可能となる。鶴の一声により通信室にいた者たちは急いで梯を駆け上がり出ていく。
「志木!俺らも行くぞ!」
流れ込んでくる水の勢いは弱まるはずもなくますます激しくなっていく。後少しすれば体の自由がきかなくなるほど水量が増してしまう。ほんの前の様相が見る影も無いほど無惨な姿になってしまった通信室に少しだけ離愁を感じながら我々も速やかに通信室を去った。

甲板に出た頃には船体は大きく傾き、機関室辺りが黒煙を出しながら燃えていた。乗組員たちは次々に海に飛び込んでいく。その間にもさらに艦は傾き、最後の者がなんとか飛び込んでしばらくした後に火柱を上げながら海の中へと消えていった。
そこからが地獄だった。海は艦から漏れ出した重油で黒くなり、べったりと体に張りついてとてつもなく臭かった。救助の艦が来るまでの途方もない時間を海の上に漂いながら待たなくてはならないが、漂流物に身を任せているだけでも体力をひどく消耗した。海域によっては鮫も出る。それに敵がまた来る可能性もある。いつ助けが出るかもわからない状況の中で何時間も待つということは体力面でも精神面でもあまりにも過酷なことだった。
怪我をしていた者から次々に力尽き、海の中に消えていった。艦が沈んだときは大勢いた生存者も時の経過とともに減っていった。そんな姿を目の前で見ていたせいかわからない。段々と自分の力もそう残っていないことに気づいたのは強烈な眠気に襲われた時だった。明らかに普通の状況ではないのに今なら眠れるような気がしたし、眠りたかった。此方の様子がおかしいことに気づいたのか隣にいた浅海に肩を掴んで揺さぶられた。
「おい、志木、寝るな!寝たら死ぬぞ!」
「そんな無茶言うなよあさみ…眠いときにねてなにがわるいんだ…」
舌が上手く回らず自分でも何を言っているのかわからなくなる。きっと今自分は見るに堪えない姿をしているのだろう。浅海も重油と煤で汚れた顔は隈ができて窶れている。何より一刻も早くこの状況から解放されたいという気持ちの方が大きかった。
「しっかりしろ!お前女房と子どもがおるんだろ!ここで死んでどうする!」
浅海の叱咤で二人の顔が脳裏に浮かんだ。妻の富美子と産まれたばかりの娘の勇子。自分が死んだら二人は生きていけるのだろうか。叶うなら勇子の成長を見守っていきたい。でもそれも無理そうだ。生きたいというわずかばかりの願いは人間としての体力の限界には非常にも敵うことはできない。悲しいがこれで最期なのだ。
「志木…志木!」
名を何度も呼ぶ浅海の声が聞こえるが次第に音も薄れていく。視界が霞んで瞼を開けるのも億劫になってきた。これが命尽きるときに感じる感覚か。痛みや苦しみをあまり感じずに死ねるのは幸せかもしれない。悔いは残るが、と自嘲するようにわずかに口角が上がった気がした。
ぼんやりとした視界の中に不釣り合いなほど鮮やかで赤いものが過ぎった。それが何なのかはふしぎとすぐに気づいた。あの花だ。あの時の花だ。
頭の中にかつての記憶が映画のフィルムのように流れていく。
​────そういえば何年か前に奇妙な体験をした。未来から来たとかいう頓痴気なことを言う男に出会って、家に住まわせて色んなことを一緒にした。それで、突然姿を消す前に花のことを教えてもらった。あの花はその時のものだ。
一夏をともに過ごした青年の顔が一瞬浮かんで波のように消える。彼の名前、それは​────
つぶやいた言葉は声にならずに泡と化した。ふっと赤い花は消え、最後に見えたのは暗く黒い海だけだった。







舷側に打ち付ける水飛沫が風とともに舞い上がる。
クルーザーは滄浪をかき分けるように海原を進んでいく。雲の峰が見えるどこまでも青い空と、同じく青い海が夏の気色を写し出していた。今日という日に相応しい天候だ。こんな夏らしく晴れ渡った日に会いに行けると思うと、ふしぎと胸が高鳴る。

今日は祖父の三回忌だった。
受験を乗り越え、希望通りの大学に進むことができた後、入学を見届けて安心したかのように亡くなった。それ以前から体調を崩すことが多くなり、入学の一月前には床に臥せきりになっていた。死が近いことは本人も周りも悟っており、誰に言われることなく式後に自然と祖父の家に足を向けていたことを思い出す。
祖父の顔は痩せこけてすっかり元気がなくなっていたが、自分の顔を見るなり以前と変わらない笑顔で「おめでとう」と言ってくれた。息を引き取ったのはその数日後だった。
四年前の夏のあのふしぎな体験。あの後から祖父は体調を崩すようになった。今思えば、亡き友の思い出を清算して蟠りが消えたせいかもしれない。祖父は何も思い残すことなく逝くことができたのだろうか。未だにそのことを考える。
今、こうしてクルーザーに乗って海上を往っているのは祖父のためだ。生前、望んでいた通りに海洋葬で散骨された。場所もかつて自分が乗っていた駆逐艦が沈んだ地点の近くがいいと言っていたらしい。父島冲、それが艦と祖父の戦友たちが眠る場所だ。父島は東京都の管轄ではあるものの、本島からはかなり離れており島に行くのにも一日はかかる。そうした事情で去年の一周忌は海辺に出かけてのものだったが、今年は三回忌ということもあり、実際に散骨地まで赴いて親族一同で正式な法要をすることとなった。

もう二年も経ったのかと改めて思う。本当にふしぎなものだ。祖父とのことも、あの四年前の体験も昨日のことのように思い出せるというのに。記憶はいつまでも残るものと、やがて忘れてしまうものがある。だが、あの思い出だけは一生自分の中に残り続けるのだろうと何故だか確信を持って思える。
ふと思い立って、ジャケットの内ポケットから一枚の写真を思い出した。祖父の死後、私物の整理をしたがアルバムはとっておこうと言うことで実家で保管されている。その中から一枚だけ抜き取って、今回お守りのように懐に忍ばせているのだ。
凛々しい顔立ちをした男の隣に立つ面長で鼻筋の通った顔の男。
"志木敏郎"
昭和十四年に出会い 、ともにひと夏を過ごした青年。若き祖父と並んだ写真の中にいつまでも変わらない姿のまま"彼"はいた。

目的の地点に着くと、散骨を行った。三周忌のために分骨していたぶんだ。粉状にされた骨が砂のように海面へ散らばっていく。きっと、あの夏のことがなければなぜ祖父が海洋葬を望むかわからないままだっただろう。あの"夏"が祖父に一歩近づくきっかけとなり、そして忘れられない思い出となった。これはあの"夏"そのものなのだ。
この近くで七十七年前の五月、祖父と敏郎の乗っていた駆逐艦は沈んだ。沈み行く艦から脱出し、その数時間後付近を航行していた日本軍の艦艇に救助されたおかげで祖父は生還することができた。しかし敏郎は還れなかった。はっきりしたことはわかってない。沈没時点では生きていたという。だが生きながらえるほどの体力は残っていなかったのだろう。祖父が敏郎の死を知ったのは療養先の病院でのこと。骨すら残ってない。志木家に敏郎の死を伝えに行った祖父はおそらく中身のない骨壷を抱えていた。志木家の人々は深い悲しみに包まれたのだろう。自分はその悲しみを七十年以上経ってから感じることとなったのだ。
自分はあの日、数十年の時を越えて同い年の青年と出会い、ともに過ごした。すべて夢ではない現実のことで、感じた気持ちも幻ではなかった。そこにあったのは今と変わりのない日常だった。彼は確かにそこにいて、息をしていたのだ。いずれ来る運命を避けることはできなかったけれど、後悔はしていない。ずっとあのことを忘れないのならそれでいいと思える。たまに思い返して、「あの時こんなこともあった」なんて感慨に浸るのもたぶん悪くない。
こうして海の底に眠る友たちの元へ七十七年前の若き思い出とともに海へ還っていく。そしてようやくあの"夏"もいつまでも美しいままの残像となるのだろう。
散骨の次に行った献花では菊や百合の他に千日紅を用意した。一番初めの散骨の際にもこの花を献じた。あの夏に咲いていたものと同じ色のものだ。花のことを相談すると、親族はみなふしぎそうな顔をしていたがわけを何となく察している母だけは笑っていた。
ゆっくりと花びらを落とすと、白い花と赤い花が青い海面と混ざりあった。花も骨と同じ場所へと還っていくことを信じて、海の底に届くようにと静かに手を合わせた。


一連の供養を終えて海域を遊覧した後に父島に到着した。
他の親族たちは民宿に向かったが、自分は母に海岸を散歩してから合流すると伝えた。せっかくここに来たのだから少しでも"彼ら"と近い場所にいたいと思ったからだ。
誰もいない夏日の渚を一人で進んでいく。本土にいるときはこの季節の砂浜に誰もいないということがほとんど無いため不思議な感じだった。向こうを見れば空と海が一つになったような景色が広がっていた。この海を"彼ら"は往っていたのだ。八十年近く前の人々と同じ景色を見ていたと思うと時の隔たりというものは意外と何でもないことなのかもしれない。
立ち止まってみて水平線を眺めていると、浜辺に凪が訪れたことに気づいた。風は止み、波の音が静まる。幽かに右隣に気配を感じる。一人の青年が立っている。白いシャツにカーキのズボン。かつて見た純朴な二十代のままの姿だった。
「敏郎……?」
考えるよりも先に口が動いた。突然のことにびっくりしながらも何とか舌を動かしたが咄嗟に出た声は掠れていて、波が静かでなければかき消されていただろう。今きっと、自分は恐ろしく情けない顔をしているだろう。だって目の前に彼がいるのだから。
"久しぶり"
彼は声を出さずに口だけをゆっくりと動かしてそう言った。なぜ声を出さないのか分からない。訳があって出さないのか、それとも出せないのか。もしかしたらただの幻だから声など聴こえなくて当然なのかもしれない。幻であるか現であるかは問題ではない。彼に会えたのだからそれでいい。
彼はにっこりと笑って再び口を動かした。
"啓太、ありがとう。"
それを見て堪らなくなって駆け出した。もうすぐで触れるところで、頭に手が触れる感覚がした。一瞬のことだったが体温があって、まるで生身の人間のもののようだった。それに気づいたとき、彼の姿はどこにもなかった。
「敏郎、」
海に向かって消えるような声でその名を呼んだ。彼はこの海と一つになったのだろうか。
わずかな先に手を振る二人の青年がいた。はっきりとしていて凛々しい顔立ちの男とやや面長で穏やかな顔をした男。慌てて自分の方からも"若き二人"に大きく手を振り返した。
彼らの伝えたいことはちゃんと届いた。此方の伝えたいことも彼らに届けねばならない。
写真を入れてる方とは逆の、ジャケットの内ポケットを探った。そこから小さな箱を取り出して蓋を外す。すっかり萎れて元の姿を残してないほど変色した花びら。彼が未来につなぐために遺した千日紅の押し花だ。それを取り出して放つと、穏やかな風に乗って海へ飛んでいく。 やがてあの花は海の底へと降り注ぐのだろう。そうすればきっとこの願いは届く。七十七年前の彼と、彼らの思いがいつまでも未来を繋いでいくことを信じながら風に吹かれる花を見送った。