さよならまぼろし

一次創作サイト

自由への渇望 4

 ヴァレンタインの指示で教官が位置についたのを見て、フリストフォールとジェイコブは銘々間合いを取った。フリストフォールは少し離れたところに屹立しているジェイコブを見据えた。錆色の鋭い瞳がフリストフォールを捉える。視線が合ったその一瞬で体が縛り付けられたかのように”重く”なったのを感じた。ジェイコブの周囲だけではない、訓練場すべての空気が彼によって作り替えられたようだった。

空気に飲み込まれそうになって、フリストフォールは咄嗟にその気概を振り払った。流されているようでは駄目だと、そう己に言い聞かせて剣を構えた。飲み込まれるくらいなら飲みこんでやれと、左足で地面を踏みしめ、思いきり空気を吸い込んだ。

「———始め!」

その一声と同時にフリストフォールが駆け出した途端、眼前に一閃が過った。それが何なのかと考える暇もなく気配が”背後に”移動したことに気づいた。それを認知したその瞬間すでに目の前に”ジェイコブの姿はなく”、其処にあるのは虚空のみだった。フリストフォールが慌てて体勢を立て直そうとした時、一閃がフリストフォールの頚筋を捉えた。

金属ががなり立てるように交じり合う。寸前のところで切っ先を防ぐことができたが、未だ鼓膜に残る鋭い音と、腕に伝わる衝撃で筋肉が軋む感覚が残っていた。そして、次に訪れる攻撃を迎える暇もなく先刻の衝撃で跳ね返されたジェイコブは針のように一定の体幹で体を支えた。

――その瞬間のことはまるでコマ送りのようにゆっくりで、なお且つ鮮明に脳髄に焼きついた。ジェイコブは軽やかな動作で一回転すると重心を低くし、瞬時に前方に飛び出した。フリストフォールは傀儡(マリオネット)のようだと思った。糸で操られているように緩慢なのに、驚くほど俊敏だ。再び耳許で鋭いが玲瓏にはほど遠い音がすると、フリストフォールの頚筋にはジェイコブの剣先が触れそうになっていた。

フリストフォールはどうにか必死に剣で防ごうとするが、今この拮抗している状態からほんの少しでも力量差が生まれれば、勝敗はもう火を見るよりも明らかだった。両腕とも悲鳴を上げ、耳鳴りと脂汗が止まらない。途轍もない圧をかけられているこの剣から逃れるのは今の己には到底無理だと、フリストフォールは逼迫した状況の中で思考がいやに冷え切っていくのを感じた。フリストフォールは眼前にあるヤコブの瞳を盗み見る。先刻までは冷めたような錆色が熱を持って違う色に変化しているように見えた。その瞳はあまりにも犀利で、断乎としてお前をこの剣で馘首してやるという気概で満ちていた。気のせいだと言ってしまえばそれまでだが、感情の無いはずのこの”塑像”は今たしかに見せかけの殺意を滲ませていた。

しかし、フリストフォールは勝機はまだ完全に喪っていないと確信していた。この塑像が狙っている場所はすでに分かっている。かなり押されている状況ではあるものの、どうにかして隙を突いてこの剣をどかしてやれば、そこから一気に畳みかけることは可能だと考える。一瞬だ。一瞬の判断が雌雄を決す。一片の隙もないこの塑像にも何か必ず隙が生まれるはずだと、だからその隙を作る一撃を与えなければならないとフリストフォールは熱の上がった脳で思惟する。その一撃を与えるタイミングは見誤ってはいけない。速く、確実に突くには適する時を待たなければいけない。これで勝利へ近づくことができると、静かにほくそ笑んだ瞬間、その時はすぐに来た。ジェイコブの筋肉が動くのを感じた。腕をわずかに緩めたことに気づいたその瞬間に、フリストフォールは両腕に力を込めた。すでに玄関間近だったがそれも構わず前腕を駆動して、二本の剣を振り上げるとフリストフォールはすぐに己の剣を引き抜いて、照準を合わせた。狙うところは何処でもよかった。どうせ当たるならどこでも良いと、腕を伸ばした時、再び気配が動いたのを感じ取った。体勢を崩したジェイコブが片足で重心を支え、瞬く間に飛び出した。そんな無茶な動きをすれば体に負担がかかるのではないかという考えなど無視していとも容易くその肢体を操った。

フリストフォールの脳が危険信号を出したその時に視界の端で見えたのは鋭い錆色だった。

「あっ…まっ、う”あ”ぁ”っ!?」

がんっ、とヤコブの足がフリストフォールの足首の上を捉えた。ジェイコブがフリストフォールに与えた痛恨の一撃は見事に脛に炸裂したのだった。

その攻撃をまともに喰らったフリストフォールは初めて味わう激痛に顔面を歪め、その場に倒れ込んだ。

「勝負あり、だな」

ヤコブの足許で蹲り痛みに悶え苦しんでいる”敗者”に、その上でただ恬然としている唖の”勝者”にヴァレンタインと教官は目を見合わせて笑った。

「私たちから見れば勝敗はさもありなん、という感じだったがなかなか面白い物を見せてもらったよ」

愉快気に笑いながら近づいてくる憎たらしい傍観者に、フリストフォールは蹲りながら顔だけ動かして睨みつけた。

「やぁ、大丈夫かい?通常の人間より痛覚を感じにくい妖魅のきみでもそんなに痛がっているということは、ジェイコブが喰らわせたローキックは相当の威力だったようだね。いやぁ、まったく恐ろしいな。想像するのも恐ろしいよ」

想像するも何も目の前にそれを喰らった者がいるというのに何を言うか、と言いたげにフリストフォールはなお痛みの引かない足をひきずりながら上体を起こす。

「…まぁ、ずいぶんと優秀なホログラムを開発したもんだな」

「ああ!自分でもそう思うよ!そう言ってもらえると感激の至りだね」

皮肉のつもりで言った言葉はヴァレンタインにはまったく効かずフリストフォールは肩を落とした。もうこの男には何も言うまいと口を噤むのだった。

「それにしてもどうだったか、ジェイコブとの手合いは。自分の実力不足を身に沁みて感じられただろう?」

ヴァレンタインの言葉に頭が痛くなったがその通りだとフリストフォールは思う。想像以上の俊敏さと判断力、臨機応変な対処能力などすべてにおいてフリストフォールの上をいっていた。隙を突いて一本取ってやろうという思惑はジェイコブには筒抜けだった上、予測していた狙いどころも外れて思いもよらない場所(しかもがら空きだった)を当てられるとは考えていなかったせいで醜態を晒すこととなった。ジェイコブから見ればフリストフォールはいくら身体能力に優れていようが、技術は嬰児同然だ。この剣士は、あまりにも玄妙で怜悧だとそう確信した。

「まぁ、でも修練相手としてはこれ以上ない相手だろう。きみを陶冶させ、真の力を引き出してくれるにちがいないよ」

そう言ってヴァレンタインはフリストフォールの肩に手を載せた。顔は笑っているが、真意は読み取れない。

「あくまでも焦らずに、気長に鍛えるんだ」

その言葉で隣にいる錆色がわずかに光を孕んで揺らめいた。