さよならまぼろし

一次創作サイト

山眠る 1

人の命とはゆるやかに消えて行くものである。

死期が近づいていると気づいたその玉響にはもうすでに物言わぬ骸と化している。

"彼"もあっという間に死んでしまった。"彼"は労咳だった。発症してからほんの数か月で病という名の魑魅はいともたやすく"彼"を死の淵に引きずり込んだのだ。

いつだったか、"彼"の弟は"彼"を山のようだと言った。暖かな光がさして様々な植物が芽吹き、常に美しい緑青に彩られている姿はまさにいつも浮かべていた日輪草のような愛しき笑みのようで。常にそこに在る山々のような闊達とした心、そしてころころと変わるその表情は四時によって姿を次々と変えていく緑のようでまさに言い得て妙だなっと当時は思った。しかし今はその言葉を一つの呪いのように感じてしまう。秋になれば山は煌々とした紅葉によって染められるが、冬に近づけばあっという間に散って枯れた山肌が露となる。それはまるで山全体が死に向かっていくようでそれとない頽廃を感じさせるのだ。"彼"もその冬の山のように死んでいくのだと揶揄されているような気がしたのだ。もちろん、"彼"の弟はそんなつもりで言ったわけではないだろうし悪意がないということは分かっている。それでもいちど呪詛として体現したそれをはらうことは出来ず心の奥底に渣滓のように留まり続けている。"彼"の弟も此方の心情に気づいたのかは知らないが、以前は毎日のように屋敷に顔を出していたのに"彼"の死と共に次第に足が遠のいていってしまった。

私は只、風が吹き荒ぶ物悲しい水石を眺めながら夢想した。"彼"と言葉を交わしたあの夏の日のことを。

五月蠅いほど鳴いている蝉に雲一つない澄清、庭先に鮮やかに咲く葵葛や紫羅欄花。どこまでも美しくいきいきとしたその風景とは真逆に痩せ細った青白い顔で臥せっている彼は庭先の緑に生気を吸い取られたかのようだった。

かつては凛々しく覇気に満ちていた顔もすっかり浮舟のように頼りなく、今にも死んでしまいそうな様相だ。

"彼"の蒲団の横に物音立てぬよう静かに腰を下ろせば、彼は閉じていた双眸をゆっくりと開いた。

「ここには来ないほうがいい。うつるぞ」

ゆっくりと、息とともに吐きだすように言の葉が紡がれる。"彼"は自分が苦しんでいようが私のことをいつも心配する。たとえ、自分の死が近づいていようとも。

「気にするな」

双眸をじっと見つめて必死に言葉を返す。私は"彼"とは違って息災なはずなのに出てくる言葉は"彼"と同じように苦しそうで拙い。こうして臥せっている"彼"と会話をするときはいつもこうだ。用意してきた言葉も覚悟もすべて塵のように消えてゆく。折角今日は以前のように普通に話をしたいと思っていたのに、返す言葉がたったこれだけなんてなんと浅ましいことか。

「今年も唐柿がたくさん成っているなあ」

"彼"は私が口をきくのを憚るように言った。笑っている。しかしどことなく私にあまり話させたくないように見えた。

"彼"の視線の先にあるのは艶々とした銀朱に輝く唐柿だった。

数十年ほど前に欧羅巴から伝来した水菓子で数年前からこの屋敷の菜園でも栽培しているのだった。"彼"は新しく、物珍しいものをたいそう気に入っていたため水菓子の中でも唐柿が特にお気に入りだった。

硝子戸が開けられ、簾も上がっているため庭先を難なく見渡すことができる。これは恐らく"彼"がなるたけ養生しやすいように女中が気遣ってやったことなのだろう。しかし炎陽の光を浴びて爛爛としている唐柿と蒼々と生い茂る草花を今の"彼"に見せるのは、手を伸ばしたくても伸ばせない憧憬に焦がれさせるだけの残酷な厚意である。簾の向こうを見つめる"彼"の横顔はどこまでも虚無だ。湖に浮かんだ一艘の舟がただそこに漂っている。行き先もなく理由もなく"存在しているだけ"のそれがものすごく儚い。

「おれは大丈夫だから、もう帰ったほうがいい」

"彼"は柔らかく笑いながらそう言った。ここに居て欲しくないから、というよりは純粋に私のことを気遣って言った様子だった。これ以上留まったところで埒が明かないと思って今日はひとまず帰ることにした。蒲団からわずかに覗いた彼の肱は、前よりもか細く青白くなっているように思えた。

空が銀朱に染まる秉燭のころ、そろそろ灯りを燈そうかと燐寸を取り出す。石油ランプが普及して久しいが日本造りの屋敷では異国生まれの耿耿とした灯より祖国生まれの仄かな灯のほうが性に合っているため、この屋敷では石油ランプより行燈を使うことのほうが多かった。燐寸でおこした火を油を入れた火皿の灯芯にともして覆いの中に入れる。夏が終わり、秋もあっというまに過ぎ去っていくこの季節は陽が沈むのも釣瓶落としのように速い。野山の錦も次第に侘しくなっており、庭先の木々は裸に剥かれた枝扇が曝されている。"彼"の命が尽きるのも桐一葉の前だった。"彼"は灯芯をゆっくりと溶かしながら燃えていた灯りが、しだいに弱まって静かに消えていくかのように死んだ。

秋の日を思うのと同じように蝋燭に火をつけるといつも"彼"のことを思い出した。あの夏果の神とともにやってきた青嵐の響きも、鮮やかな晩夏光も、雲の峰が轟く碧霄もすべては"彼"の死を賤しめるものにしか思えないのだ。夏終わりの収穫期が近くなれば、"彼"は毎年屋敷近くの農園の萃果を楽しみにしていた。「今年も良いのが成っていたらいいな」だなんて笑っていた。しかし、収穫された萃果を口にすることはできなかった。思い出せばきりがない。思っては消え、思っては消えを繰り返してすべては珪砂のように消え落ちていく。"彼"の青白い肌、痩せこけた頬、蒲団から放り投げだされたか細い腕が何度も脳裡によぎる。くれぐれも忘れるなと言っているのかのように想起させる。鮮明でありながらあまりにも静謐な強烈さを伴ったそれを受けとめるのは今の私には枷としかならなかった。

ふと、行燈の火の向こうに見えた物に目を向けた。仏壇の傍らにひっそりと中陰壇が鎮座している。遺影や位牌、そして骨壺に入った遺骨がある。仏壇の三具足も中陰壇もいつも通り整然としている。特に香華は、定期的に使用人が花を取り替えているのでいつ見ても恭しい樒が飾られており、四十九日の間日ごと絶やさずに焚いている線香は少し前に麝香から没薬に変えたものだ。麝香も没薬も刺激の強い薫りだが、私としては麝香より没薬の木のような温かみのある薫りが好きだった。仏壇の仏飯器の中身はすでに片付けられているが、線香の火は朝からずっと焚かれ続けている。

たまに、こうして夕刻ごろに彼の生家の仏間へと赴いて線香の火を消させてもらっている。元来ならば使用人の役目だが毎日はむりでも数日に一度、火を消す役目を担わせてほしいと頼んでのことだった。線香の火を消すのは、自ら申し出た務めであってもいつも心苦しいものであった。先程も述べたが、蝋燭の火とはすなわち命のメタファーである。人間とは有涯であるからこそ儚く美しいと言うが、病によって斃れたであれ不意の事故であれ、はたまた寿命による大往生であれすべからく嘆き悲しむべきものである。死ぬことでしか救済を得られないという考えもあるが、おそらく多くの人間は死を忌憚しているはずだ。すでに命尽きているものであれど、火を消すたびに"彼"の命も己の手で消してしまっているかのような気がしてならないのだ。何度も、何度も私は"彼"を殺してしまっている。私が嫌って身隠していたはずのことをやっているのだ。死魔はいともたやすく空蝉を慫慂し、己が往くことを許さぬ後の彼岸へと連れて行ってしまったのだ。往昔の伝承に『縊鬼』という人間に取り憑いて縊死させるようにする物の怪が或る。縊死ではないが、死魔は疫神で"彼"が病で死ぬように憑いたのではないかと、そう考える。