さよならまぼろし

一次創作サイト

兄の遺産

 

 義時たちの木霊のような応酬を茫然と眺めていた。会話を聞き流しているわけではないが、耳に入って頭で内容を理解してもそれに対する応答は口から出ることはない。どの声も実朝に向けているようで向けていない、"形のない言葉"だった。
「御所」
実朝の意識が逸れてることに気づいてか気づいてないかは知らないが、義時が呼びかけるとその場にいた御家人たちの目が一斉に実朝に向けられた。
「お疲れなら評議は一旦やめて休まれますか」
実朝は義時のこの"目"が好きではなかった。実朝を慮るような言葉をかけておきながら、その目は実朝ではなくその後ろの几帳に向けられているようだ。実朝は義時が己にとってどういう存在であるか悟った時から彼が己をどう思っているかも気づいていた。この先親裁を摂るとして、その場に本当に己が"いる"のかについては確信を持つことはできない。
「すまぬ。少し考え事をしていた。外の空気を吸ってくるから|皆《みな》で話を進めておいてくれ」
義時の意見に憚らず己が意志を貫こうとしたら、どうなるのだろうと実朝は思った。中座するまで終ぞ義時と実朝の視線が交わることはなかった。


庭石を眺めながら、実朝の脳裡にある一人の男の顔が浮かんだ。それを思い出したことに気づいた時、実朝は思わず苦虫を噛み潰したような顔をした。
実朝と血をわけた実の兄​───頼家は前将軍だった。亡き父を継いで政を為し遂げるために志を燃やしていたが、彼の望むがままに沙汰を行うことは許されず、行き場のない熱望と葛藤は結果的に暴虐となって現れるに至った。実朝は兄の行いに関して良いことを聞いたことは一度もなかった。頑是無い頃から乳母夫婦によって聞かされる兄の月旦評は決して褒められたものではなく、実朝からすれば頼家と血が繋がっているという事実すら目を背けたいことだと思えることだった。すっかり成長する頃には、頼家とは"血の繋がっているだけの他人"と思うに至っていた。兄もきっと己を嫌っていて、己も兄を嫌っている。兄弟などそういうものだと実朝は自身に言い聞かせて生きてきた。
そんな時、頼家が病に倒れた。九死一生で回復するも後の祭り。既に朝廷への執奏で頼家が鬼籍に入り、代わりに実朝が征夷大将軍の宣下を受けていたのだった。後ろ盾であった比企は滅ぼされ抵抗の手段を失った頼家にとった苦肉の策は出家させ修禅寺へ押し込めることだった。そのことを聞いた時は流石に実朝も憐れに思った。
しかし、生かされている身分でありながら安達景盛の措置に介そうとしたり、近習の催促をしたりと政子と実朝宛てに図々しい文を送ってくる兄に実朝は飽きれるほかなかった。とても俗世を捨て、此世には既に存在していないことにされている人間の所業とは思えなかった。だから、兄が幽閉先の寺で惨殺されたことを知った時にようやく軛から逃れられたと実感した。頼家の話をする者は周りにはいなかったし、まるで始めからいなかったかのような扱いだった。それでも目に留まる範囲に無くとも、実朝にとって頼家はこの世に生きているだけで心の枷となっていたのだった。
頼家が弑されることは病から回復した時既に決まっていたのだろうと実朝は今になって思う。生きていれば頼家を奉じて反旗を翻す者たちが出る可能性を封じるためだけではない。頼家の存在を消すこと自体に北条にとっては意味のあることなのだ。
生前、己が意志を持って反抗し続けた兄は最期には無惨な方法で葬られた。兄と同じ命運を辿ることと自由を奪われることを秤にかけられたなら、己がどちらを選ぶのかは火を見るより明らかだった。
​────憐れな兄よ、私は貴方のようになりたくはないし、貴方のように死にたくはない。
空に向かって吐き捨てられた言葉は声にもならず、兄の顔とともに消えていった。