さよならまぼろし

一次創作サイト

終身名誉の罪業

 

 兄の悪癖が始まったのはいつだっだろうか。
厳密には覚えていない。物心ついたころにはもうすでにそれが普通であった。それを疑うことも拒むこともせず受け入れてきた。悪癖なんて言っても結局のところ今も受け入れているのだから自分も甘いなと思う。人の心根とはわからないものである。己の思い信じることさえそれが真に正しいかどうかわからなくなってしまう。己のことでも思い惑うというのになぜ人の心がわかろうか。晒した心根が紛い物ではない確証など存在しない。心の裡を覗くつもりがそれが表であることも、あるいは洞でしかないことだって有り得てしまうのではないだろうか。
私は今、兄の何を垣間見ているのだろうか。表か、裡か、洞か。
「満詮、」
兄が私の名前を呼ぶ。先程まで逃避するように外の音に耳を澄ましていたが、春らしい麗らかな光と草木をそよぐ風と庭に植えられた花の薫りは兄の声によって一瞬で消えてしまったように周囲が遮断された。鳥の鳴き声すら今はもう遠い。
普段直臣たちがいる前ですら出さないような声色でまるで縋るような、それでわずかに震えているようなものだった。ゆっくりと兄の顔に目線を移すと漆黒の双眸とかち合った。淀みなく、私だけを写した眸。そこから読み取れる意思はひとつだけ。
いけない、これはよくない流れだ。
「満詮、なにを考えている?」
冷たく淡い声。それはいつも決まって兄が私を辱める前触れだった。
兄の手が首にかかる。武弁ではあるが決して節榑だっているわけではない。弓や刀をとるより文筆をとることのほうが多いのだから。兄は豪力ではないが丁年の男らしく臂力はそれなりにある。だから力を込められれば当然ながら痛いし、苦しい。そういえば昔は手加減も知らずに力を込められたから本当に苦しいこともあったなと思う。まあ、今も苦しいことに変わりは無いのだが。あの時は年端もいかない童であったから臂力などたかが知れている。だが今の兄の臂力で限界まで絞められたらと思うとぞっとする。毎度命の瀬戸際に立たされているのかとおもうとやはり悪癖と形容するほかないなと考える。
首に回った手に力が込められると次第に気管が絞まっていくのがわかった。じわじわと真綿で絞められるように緩やかで、それでいて烈しさも同時に感じてしまうような不思議な感覚。意思に反して自分の手が兄の両手に重なるように置かれた。その苦しみから一刻も早く逃れるために、まるで手だけ違う生き物になってしまったかのようにもがき始めた。長くない爪が兄の手に食いこんだ。掻き毟ってひたすらに抵抗しようとしている。痛々しい線が引かれるのとともに鮮血が滴り落ちて指を染める。とうに兄の顔を直視することはできていなかったが、視界の端で快か不快かどちらとも言えない表情をしているのがわかった。痛みを感じてそれでさらに昂りを増幅させたのかさらに力がこめられるのを感じた。
だんだんまともに頭も回らなくなってきた。視界が次第に白く朧げになってくる。私は死ぬのかもしれない。自分たち以外誰もいない御所の常御殿で、兄の目の前で兄の手によって殺されてしまうのかもしれない。しかし私はこれ以上抵抗しなかった。爪を立てることだけが抗う術の限りだった。
せめてもの手立てと言わんばかりに喉に力を入れて声を出そうとした。出てきたのは声と呼べるものでもない、ひゅーひゅーという弱々しい音だった。それと共に爪を立てていた指を崩して血に濡れた肌を今度はゆっくりと撫で擦り始めた。それに呼応するように兄は手の力を弱めていく。拘束するものが無くなったことで空気をちゃんと吸えるようになった。胸を上下させて空気を吸い込むと先程までぼんやりとしていた視界と思考は冴え、涙と汗で顔中がぐちゃぐちゃになっていることに気づいた。息を整えるころには兄が虚ろな表情をしているのが目に入った。
「...すみません、手痛かったでしょう?後で手当します」
兄の手は無惨なことになっていた。折角先日の傷が治ってきていたと言うのに。いつもこんなことを繰り返している。
「いい、痛いのはそなたもだから気にすることはない。」
円やかな輪郭と自分よりも幾分か垂れた眸が印象的な柔和そうな顔立ちも今は釈迦に説法するように無稽さを感じる。
「そなたに傷つけられることによって余もそなたと同じ痛みを得られるのだから本望だ」
兄は口角を上げてにやりと笑う。首を絞められている時の兄の顔はよくわからないが、きっと愉悦を感じているのだろうと思う。
兄は先程までいつもと変わらないように振る舞っていてもなにかの拍子で突然豹変してしまうことがあった。なにがきっかけなのか私にはよくわからない。毎度決まって首を絞める前はいつもと違って弱々しくなるのに絞めている時はどこまでも強気だ。
なぜこんなことになったのか。まだ童だった頃に戯れとして始まったそれは互いに笑いながらやるようなただの冗談半分の戯れに過ぎず、力だって大したものではなかった。しかしいつのまにか戯れは"兄弟の立場を示すための轡"に昇華してしまった。きっと兄はこれを己の力の誇示の代替手段として使っているのだろう。己の方が上だと理解させるためのある種の牽制。しかし正直そうとも言いきれない気がしている。
「乙若、乙若」
先程まで呼んでいた"満詮"ではなく幼名ではなく"乙若"という名を呼ばれる。普段の尊大な態度はなりを潜め、眉がますます垂れて童のような幼気な顔を見せる。
「兄上、大丈夫ですよ。ただ昔の我らのことを考えていただけですよ」
兄を安心させるために再び傷だらけの手を両手で包み込んだ。ただ慈しむように、慰めるように撫でた。兄が心を許している人間は何人かいるか、その誰にも私と同じようなことはしないだろう。頼之にだって義将にだってもちろん乳母の有子にだってしない。血を分けた弟にだけ向けられる特異的な感情の表出だ。ただそれをぶつけられるのを私はひたすらに受け止めるしかない。
「兄上、私たちは本当にどうしようもない兄弟ですね」
傍から見れば私たちの関係は歪んでいるのかもしれない。私だって望んでこんな関係になったわけじゃない。ただ、私たちはどこかで本来あるべき道から外れてしまった。
父が若くして亡くなって以来、兄は年少ながら家督を継いで将軍の座についた。父が呼び寄せた管領の頼之の助けもあり、今となっては武家の王としても朝廷の権力者としても大成したがその重圧を一身に背負っているせいか、心は大いに蝕まれていた。普段周りに見せることはないが、弟である私にだけは弱みの片鱗を見せた。いや、むしろ見せるどころかそれを私と折半しようとしているかもしれない。"痛み"を共有することで同時にこれまで、ひいては今も日々負っている"苦しみ"を私と分かち合おうとしている。 
私は普段の高潔で気高く、何者にも靡かない兄が好きだ。こんな行為は不毛だし何の益にも繋がらない。しかし、この弱さも兄の確かな一側面でありそれを否定するほど酷なこともできない。ただ求められているから求められるがままに慰撫する。それが私の役目だ。もしかしたらこれは私たちのどちらか片方が死ぬまで続くのかもしれない。その時はその時だ。ただ私たちが兄弟として同じ空の下で生まれてしまった罪業を背負って生きていく他ない。
洞だってきっとどこかに繋がっている。表があれば裡があり、入口があれば出口がある。どうせ地獄なら居心地のいい地獄がいい。そんな地獄も甘んじて受け入れる。それが不毛で、歪な私たちの行き着く先なんじゃないかと思ってる。