さよならまぼろし

一次創作サイト

紫翠 / 嘘つきは振り返らない

 振り返ってみれば自分たち兄弟の間柄は健全と呼べるものではなかった。
弟は悪くない。不健全にしてしまったのは他でもなく自分である。初めから歪ませたくて歪ませたわけではない。正しさを求めて選んだものが後から悪手だったことに気づくことはそう少なくはない。
私の弟、経嗣は幼い頃から聡明な童だった。教えられたことはすぐに吸収し新たな知識を得ようとする探究心が強い。それが生まれついての素質といっても誤りではないように思う。しかし感受性が強いところもあり、それゆえに人一倍他者から向けられるものに敏感でもあった。
お互い母を同じくする兄弟ではあるが経嗣は一条の家に養子に入ったため共に同じ場所で育ってきたわけではない。一条家の当主であった経通、房経親子が相次いで逝去したため父の良基が経通の息子と偽って自分の息子を養子に送り出したのだ。
離れて暮らしていたとはいえ決して多くは無い頻度で顔を合わせることもあったためか兄弟であるという実感をわかせるのに難しくはなかった。歳が近いこともあって打ち解けやすかったし、なにより経嗣は自分にとって都合のいい存在だった。従順で素直で純粋で多少騙したり意地の悪いことをしても反抗してこなかった。つまり承認欲求を満たすのに丁度良かった。今からすれば兄の風上にも置けないようなことをしていたが、まあしょせんこの年頃の童幼などそんなものである。
で、兄の特権を使って何かにつけて優越感に浸りたかった私だが弟を大切に思う気持ちは紛れの無いものだった。経嗣が困っているなら力になりたいし、苦しんでいるなら助けてやりたい。そういった肉親なら当然持ち合わせる類の感情をちゃんと持っていた。今思えばそれが間違いだったのかもしれない。
忘れもしないあの日、私と経嗣は邸の庭を目付け役の女房たちを連れだってに歩いていた。童らしく仲良く手を繋いだりして。経嗣はいつものように意気揚々と楽しそうに歩いていたが次第に萎れるように元気が無くなっていった。
「どうした、どこか痛いのか?」
私が腰をかがめて顔を覗きこむと経嗣は今にも泣きそうなほど顔を曇らせていた。
「兄上。兄上は、もうすぐおとなになるのですか?」
悄然としている経嗣が伺いを立てるように訊ねてきた。この時、もうすぐ元服だという時期だった。元服すれば大人の仲間入り、それまで無かった位や官職を与えられ内裏にも上がることとなる。これまでとは生活も変わることになる。
「そうだな。大人になって父上たちと同じように働くこととなる」
「おとなになったらもう私とは遊んでくれなくなるのですか?」
「今までのように多く来ることは出来ぬかもしれないが…また時を見つけて来るからまた遊んでやろう」
「ほんとうですか?」
なおも不安そうに訊ねる経嗣を安心させるために「ああ」と答えると私の思惑とは裏腹に素の双眸には涙が溜まっていた。「さみしい」と一言呟くと頬に一筋の線が流れた。
「わたしも早くおとなになりたい。置いていかれるのはいやだ。兄上といっしょにおとなになりたい」
経嗣の目から大粒の涙が溢れだしてくる。泣く姿は久しぶりに見た。昔から聞き分けが良くてほとんど泣かず、あまり周りの大人の手を煩わせることのない子どもだった。
その様子を見て女房たちが慌てて近寄る。なんとか慰撫しようとするもなおも潺湲と泣き続ける経嗣に女房たちはさらに慌てた。私は泣きながらも相変わらず離そうとはしない経嗣の手を見てあることを思い返していた。
これより少し前のことだ。元服が近いということもあってか私は父から改めて話をされた。
「跡目には師良がいるがこの先何が起きるかわからぬ。そなたも次期の二条を担っていく者としての自覚を忘れぬように」
父は真剣に、どこまでも誠実に私を見据えて言った。普段とはまた違う父の姿に思わず改まってしまい、そわそわするような気持ちで「はい父上」と返事したのを覚えている。
「そして、”あいつ”のことだが」
名を出さずとも”あいつ”が誰を指しているかすぐにわかった。何の感情も読み取れない目で父は淡々と言った。
「あれは一条を背負う者。一条を再興することは我が二条を盛り立てることにも繋がる。あいつが道を踏み外すことの無いよう兄として鑑として教え導くように」
父の言ったことがすべてだった。一条に養子に出したのも二条の家のためだ。そのために一条の者になったのだから経嗣はじきに当主となる。そして、経嗣に最も身近な兄である私がその鑑、手本となるということだ。ああ、なんと遠まわしな。
「いついかなる時も”正しく”あれ。弟は常に兄であるそなたのことを見ているぞ」
言葉が鐘の音のように響いた。私はただ深く頷いた。”正しく”あるというその命に従うために。
そうだ、私は兄なのだから弟を、経嗣を正しい方に導かなければならない。堕落してしまわないように守らなければならない。それが、正しい、あるべき姿なのだから。
「そう遠くない日にお前もおとなになれる。それまで少しの辛抱だ」
「でも兄上だけ先におとなになってわたしがなれなかったらひとりぼっちです。ひとりは嫌です。ひとりだとべんきょうも遊びもできないんです。べんきょうができなかったら父上に嫌われてしまいます」
経嗣がこんなに置いていかれることを、ひとりになることを嫌うのはただ幼いからというだけではなく環境がそうさせてしまったんじゃないかと思った。
父が一条に養子入りさせるとき、多少強引な手を使ったと聞いたことがある。そのせいで外聞が決して良いとは言えず陰で経嗣のことも含めて謗る者は少なくない。経嗣もそういった己に向けられる悪意や敵意を感じ取ってしまったのだろう。だから不安な気持ちも強いのだ。
私は繋いでいた手はそのままに経嗣に近寄って目線を合わせた。
「お前には私がいるからひとりじゃないよ。何があっても私がお前をひとりにしない」
「…ほんとうに?」
「ほんとうだ。一緒におとなになることはできないけど、お前がほんとうにおとなになったら私を支えてくれ。だからそれまでに強くなるんだ」
「つよくなったらずっと兄上といっしょにいれる?」
「ああ、一緒だ。お前が困ったときには助けてやるし、つらいときには守ってやるから」
そう言うと経嗣は笑って「うん」と返事をした。目は充血していたが涙はすっかり止まり、女房たちも安堵したようだった。それからまた私たちはしっかりと手を繋いで庭を歩いていった。
ここまではよかった。それから先はもう、思い出したくもない。もしこれが草子の中の物語ならその場で紙を破って作者に抗議の文を送り付けてやるくらい憤慨するだろうが、これは作り話ではないので感情を誰にぶつけることもできない。
あのようなことになるなんて一体誰が思うだろう。思えるはずがない。あの約束をした時にはこんな未来が訪れるなど露も考えなかった。
当代の将軍は、とても恐ろしい。いかに恐ろしいかは到底語りつくせないほどだ。その存在を一言で表すとすれば”嵐だろう。しかも春の嵐だ。穏やかな季節にどこからともなくやって来てあっと言う間に荒らし、過ぎ去った後には元の土壌など跡形もない。あの男が通った後にはぺんぺん草すら生えない有り様だ。”先例がない”という錦の旗のもと、先例をめちゃくちゃにされた。ここまで手に負えない惨状をどうすればいいかもわからない状況だ。
自分はまだいい。あの男からの被害は個人的には少ないし何よりそこまで”気に入られていない”。しかし、弟は違った。
「経嗣」
内裏に出仕した際、経嗣と行き合った。数日ぶりに姿を見かけて声をかければ振り向いたその顔は幾分か様相が変わっていた。私も経嗣も元服してとうに十数年経ち、当然だが容姿もずいぶん変わった。あの頃は微かも見られなかった疲れの色が垣間見えるとなんともやりきれない気持ちになるのは肉親ゆえなのか。
「ああ、これは。兄上、」
「そなた顔がずいぶんと疲れているが…どうした」
「いやまあ色々ありまして…」
「左府か」
若干声を落として言うと経嗣は眉宇をやや動かして「はい」とだけ答えた。生白く、以前よりも痩せたかのように見えるその顔は明らかに威勢があるとは言えなかった。
「本当にあの方には困ったものです。私がどれだけ説得しようがすべて突っぱねられるのですから。もう反抗することにも疲れてしまいました」
経嗣は笑いながらもその中には疲弊が滲んでいた。
あの男と経嗣は”合っている”。似たような性格をしているとか気が合うとかそういう意味ではない。むしろ”同じ”ではなく”違う”からこそ相性が合わせやすい。性格という欠片の形が違うからこそ合致する形を見つけられれば上手く欠片同士を嵌め込むことができる。経嗣はあの男に”気に入られてしまった”のだ。
父は経嗣のことを「気が弱い」と評していることがあったが、その気の弱さをあの男は利用しているところがある。そういう変えることが難しい生得的なものを弱点として突いて従順に飼い慣らそうとしている。私はそういう部分を卑劣と思わざるをえない。
しかし、私はこんな状況になってもまだ経嗣を救えないでいる。あの時言ったことを無効にしたつもりはなかったがいまだに経嗣を助けたこともなければ守ったこともない。
むしろ経嗣が従順であるからこそ自分が安泰でいられるところもあるので”守られている”のが正しい。なぜこうなった?あの男が現れたから?あの男に逆らったら自分の立場が危うい。私にだって家がある、家族がいる、他に守らなければいけないものがたくさんある。それを十年以上前に交わした口約束のために、弟のためだけに棒に触れというのか?そんな言い訳じみた言葉がいくつも浮かんでくる。
どうせ昔のことなのだ、経嗣も童の頃の戯れだと思っているかとっくに忘れているだろう。そうでなければ私はただの口だけの嘘つき野郎になる。
「この後も一旦自分の邸に戻ってから左府の邸に行くんです。次の朝儀の次第を早く伝えろって急かされてて…本当に人使いが荒くて嫌になりますよ」
「そうか」
「でも私も顔では大人しくしてますけど内心では『この野郎!』っていつも文句言ってるんですけどね。お前に何言われたって私には兄上がついてくれるから怖くないぞって思って我慢してて…」
経嗣の言葉に私は耳の奥で金切りのような音が響くのを感じた。ある種の、警鐘。
「経嗣、それはまさか」
「兄上、もしや覚えておられるのですか?とっくに忘れられたかと思っておりました。兄上が元服する少し前に私に『お前が困ったときには助けてやる、つらいときには守ってやる』と言ってくださった言葉をずっと糧にしてきたのですよ」
あああああああああああああああああああああああああああ
ここまで思い返して今すぐ廊に出て叫びながら走りたいほどの衝動に駆られている。その時も頭の中をめちゃくちゃに掻き毟られているような心地だったのをよく覚えている。
人は本当に衝撃を受けた時、鈍器で頭を殴られたような感覚になるのではなく鑿で頭蓋をごりごりと削られていくかのような感覚になるのだと知ったのもこの時だ。
私はこの時に過去の自分が吐いた言葉で、弟によって掘り返されて嘘つき野郎となった。人生が日記ならあの時の記憶を墨で思いきり塗り潰してやれるのに。
しょせん童が言ったことだと高をくくっていたのは自分のほうだったのだ。経嗣は私が言った言葉を誠実に受け止めたまま成長し、今もなおそれを覚えている。それを理不尽や困難に打ち勝つための糧にしてしまっている。私の中でのあの記憶は今となってはただの記憶で指で擦ったみたいに滲んで滲んでもうすぐ読めなくなってしまいそうなのに、経嗣は滲むどころかはっきりと覚えていた。
恐ろしい、実に末恐ろしいことだ。なにが恐ろしいのかって?すべてだ。
経嗣は本当に愚かだと思う。みなに都合のいいように利用されている。父もあの男も、そして自分も。一番愚かなのは自分だ。愚かにしてしまった張本人でありながらそれを気づかせることなく隠してそれが”正しい”ように見せかけているのだから。経嗣はその醜い姿の”正しさ”を今日まで信じ込んで生きてきたのだ。愚かであることこの上ない。あの後はどうやって別れて帰ってきたか記憶がない。感情の整理がいまだに出来ていない。再び経嗣と何事も無かったように顔を合わせられたとしても恐らく私は内心では罪悪と欺瞞でいっぱいだろう。私はあなたをこの先も一生守れません、あの時は嘘つきましたごめんなさいと思いながら生きていくというのだろうか。あの時交した情愛(純粋だけとは言いがたいが)による約束を反故にして取るに足らない悪辣な所業で上書きしてしまっていいのだろうか。
やはり私は最後まで兄でいたい。鑑であることは無理でも、今さら正しくなれなかったとしても命尽きるまで経嗣の兄でありたいと思う。そのために出来ることに何があるかはちょっとよくわからないがこれから探していくことにする。と、今後この記録が続くことを願ってここで筆を置くことにしよう。恐惶謹言。

 

馴れ初め

 

  日野業子は元は内裏の女官で典侍だった。

しかし主上の御目にかなうこともなくもう二十四だというのに未だに嫁に行けていない。自分を貰ってくれる男性などいないんじゃなかろうか、いっそ尼にでもなってしまおうかとすっかり自信を無くしていた。そんな時、伯母の仲立ちである男性と見合いをした。
当代の将軍である足利義満と名乗る青年は業子より七つも歳下だった。義満は業子の顔を見つめた。
「お美しい」
曇りのない澄んだ瞳だった。
「こんなに美しい人を放っておくなど世の男達は見る目のない者ばかり。私には、貴方の美しさがわかる」
「まあ…」
突拍子もない義満の言葉に業子は気を打った。初対面の女人に淀みなく世辞めいたことを言うとは邪気のない風体をしながら色秋波に慣れているのか。
「お褒め頂くのは結構ですけど美しい女なんて何処にでもいますのよ。美しければいいのかしら」
言った後で業子は少し後悔した。長い後宮生活で弄れてしまったのかと我ながら辟易する。
「いえ、」
そんな業子に義満は柔く笑いかけた。業子の発言を気にしている様子もなかった。

「見目だけではなく貴方自身の心が美しいと私は感じたのです」
思わぬ返答に業子は面食らった。この青年の笑みには不思議な力がある。出会って間もないのに心が美しいなんてなぜわかるのか。
そんな一瞬浮かんだ疑問も義満の笑みで凪のように消えていく。
「他の女人ではなく貴方がいい。どうか私の傍に来てくれぬか」
気づくと業子は義満に手を引かれていた。冷たい手とは裏腹に業子は自分の顔が熱くなるのを感じた。業子は黙ってしまったが心の内はすでに決まっているような気がした。

 

花伽藍と春風と初恋

 

まだ自分が手児奈だった頃、朧げな記憶の中にあの人はいた。
邸の庭先に植えてある桜の木の傍に佇んでいる姿がやけに脳裏に焼きついている。私はあの人の姿を見ると乳母の元から離れて一目散に駆け出した。拙い足取りをしながらも近寄ってくる私をあの人は戸惑いながらも腰を屈んで受け止めてくれた。抱き上げてくれた時のあの感触は今も忘れていない。あの人は背が高いから抱き上げられるとあっという間に桜が近くなった。先刻よりもうんと近くなったあの人の顔越しに褪紅色の花弁が風によって雨のように散っていく。下を覗き込めば落ちた花弁が溜まり場を作っていた。顔に落ちてくる花弁がかかるのが私はなぜか楽しくなってあの人の上で笑っていた。あの人は何かを話してくれたけど内容までは覚えてない。
もうずっと前のことだからもしかしたらあの人はこのことすら覚えていないかもしれない。それでも良かった。私はずっと覚えている。ただ美しかったあの光景を、己の中で美しいまま蓋をするのだ。

姿を見つけてばたばたと音を立てて駆け出した。いつも侍女たちに「音を立てて奔らないように」だとか「もっと品よくするように」だとか口酸っぱく言われているが今ばかりは構っていられなかった。あの人は足が早いし用向きが終わるとすぐ去ってしまうから姿を見つけたら即座に向かえ、という訓はここ一年で身につけたものだった。
管領殿!」
広い背中にそう呼びかけるとあの人は振り返った。名前を呼んで私を見てくれるこの瞬間が私はたまらなく好きだ。
「恵子殿、また奔られていましたな。もう手児ではないのですからいい加減慎ましさを身につけられよ」
振り返るなりにべもなく返されて思わず言葉を詰まらせた。几帳面な性格だから品のことに関してはことさらうるさい。
管領殿、と呼んだ青年の名は斯波義将。齢は三十ほどで自分との歳の差はふた周りほどある。若くして将軍の輔弼を行う管領を務める人だ。以前は将軍である兄の足利義満を父親代わりとして育てた細川頼之がその座に就いていたが、二年前の明けに起こった政変で失脚し入れ替わりで就いた。兄のことを幼少の頃からよく知っており、波長が合うのかその関係は良好で政の手腕も申し分ないため、幕政において大いに助けとなっているようだ。
性格としては理知的で誠実ではあるものの、いささか朴念仁が過ぎるところがあるというか口うるさいこともある。そういうところも好ましいと思ってはいるのだが。
「ごめんなさい。管領殿のお姿を見たら嬉しくなってしまって…」
「まことに貴方は昔から変わりませんな」
昔から、という言葉に嬉しくなった。自分が幼い頃のこともよく知っているため付き合いは長い。改めてそのことを口にされると成長をわかってくれているようでくすぐったさを感じてしまう。
「ああそうだ。管領殿、そろそろ桜が満開になる頃合よね。近衛の太閤殿の御屋敷にある桜が綺麗で評判って聞いたの。今度一緒に見に行かない?」
今日会ったら絶対に言おうと思っていたことをようやっと告げられた。近衛道嗣という公卿の住む邸にある桜が毎年美しく咲くという話を聞いたときから義将と一緒に見に行きたいと思っていたのだった。あの時から桜には特別な思い入れがあった。過ぎた時は二度と返ってこないけれど、またあの頃のようにともに桜を見たい。だからどうしても誘いたかったのだ。
「恵子殿、申し訳ありませんが私は執務がありますので生憎時間がとれません。それに近衛の太閤殿は室町殿と昵懇の仲ですから私より兄君に申される方がよいでしょう」
義将は恭しく断った。他意はなく、律儀に説明を入れているところが本当に義将らしいと思った。
「確かに兄上に頼んだ方が早いかもしれないけど私は管領殿と一緒に見に行きたいの。しかも忙しいって言ってもずっと仕事があるわけじゃないのでしょう?少しだけでもいいから来てくださらない?」
自分よりも上にある顔をじっと見つめて言う。昔よりは近づいたが相変わらず背丈の差は大きくある。自分をある種妹分のように思っている義将がこういった姿勢に弱いのはよく知っていた。現に義将は困ったような表情をしている。わがままを言って困らせているとはわかっていても引き下がる訳にはいかなかった。
「恵子殿…」
義将が何かを言いかけた時、妻戸の向こうから義将を呼ぶ声がした。声からするとどうやら兄のようだ。義将は声のした方に一瞬目線をやった後、此方へ振り向いた。
「恵子殿、申し訳ありません。呼ばれたので私はこれで。先程の話はまた致しましょう」
「あっ待って…」
呼び止めようとするも、義将は足早に去っていった。まるで話の続きをはぐらかしたようだった。
私はしばらくその場で立ち尽くして廊の向こうをただ眺めていた。    

 

 

あれからしばらく義将が戻って来るのを待ってみたものの、執務が長引いているのかなかなか姿を表さなかったため、しぶしぶ室町第から小川第に戻ってきていた。
簀子縁に腰かけて庭を眺めながら大きく溜め息をつく。義母の良子は「溜め息なんてしたら幸せが逃げていくからおやめなさいな」なんてよく言っているが、今ばかりはそんなこと考えていられなかった。
「先程から溜め息ばかりついているな。悩み事なら聞くぞ」
背後から突然声がして隣に唐菓子の盛られた高杯が置かれた。差し出したのは小川第でともに住む兄の満詮だった。
「兄上…」
「どうしたどうした。斯様な顔をしては愛らしゅう顔が台無しだぞ」
兄の優しさに思わず涙が出てきそうになって堪える。満詮は「まあ食え」と言って高杯を寄せてきた。言葉に甘えて唐菓子を一つ手に取って口に放り込む。咀嚼すれば甘葛の汁が口の中に広がってあっという間に幸福感に満たされる。
「そなたは美味いものを食ったときまことに嬉しそうな顔をするから沢山食わせてやりたくなる」
満詮はふわりと人好きのする笑顔で言った。義満とは兄弟にしては一見顔立ちが異なるが笑うと如実に似ているところが現れると思う。恐らく自分は大して二人には似ていないだろう。
二人の兄は同母兄弟だが、自分は母が違う。父は嬰児だった頃に亡くなったので顔はまったく知らない。母は父の侍女で目をかけられて妻となったが、自分を産んでまもなく亡くなったので父と同じくどんな人なのかまったく知らない。両親とも亡くした自分を引き取って我が子同然に育ててくれたのが兄たちの母である良子で今もこうして小川第でともに暮らしている。
良子は己が産んだ子ではない自分を疎むことなく接してくれていて、自分の義将への好意を目にしても特に嫌がる様子はなかった。武家の娘なのだからいつかは他家に嫁がなければいけない。良子にはきっと嫁ぐまで立派に育て上げないといけないという意識があるのだろう。嫁入り前の娘が既婚の男に恋慕しているとなれば大いに差し障りとなる可能性があるというのに彼女は何も言わない。そういうところが逆に気を遣わせてしまっているんじゃないかと思うことも多々あった。 
しばらく黙っているのを見て満詮は話を己から振ろうと言を切った。
「して、今日は御所へ行ってきたのだろう?何かあったのか」
満詮は庭先の池に目をやった。春の穏やかな風で草木がそよぐ音と鳥の鳴き声以外はほとんど何も聴こえない。
今日御所であったことを順に話す。義将に近衛邸の桜を見に行くことを誘ったこと、それで断られたこと。話しながら思い出してしまって少々気分が滅入りそうにもなかったがなんとか話し終えると、ずっと黙っていた満詮が一言呟いた。
「恵子は、管領殿のことがまことに好きなのだな」
思ってもいなかった返答に戸惑う。
「それは私の口から直に"はい"とは言えないけれど…」
「何だ。いつも正直に何でも口に出してるくせにこういうことは恥ずかしがるのか」
満詮は愉快そうに言った。恥ずかしくて直接口に出せはしないが、たぶんその問いに"はい"としか答えようはないだろうと思う。
「でも管領殿は私のこと好きじゃないと思うんです。私は管領殿よりずっと歳下の小娘でしかもとうに結婚していて…妹というよりもしかしたら子どもとしか思われてないかもしれない」
もうずっと前から気づいていることだった。自分の若さ故に、立場故に相手にされないということを。この思いが遂げられることは確実に無いということを。
「私は妻になることは無理かもしれないけど出来るだけ長くあの方の傍にいたいの」
「切実だな」
満詮は一言返した。その声色には憐憫の情より、励ましの意が強いような気がした。
「こんなこと言ったらまた室町の兄上になにか言われるかもね」
「前から散々『あんな無愛想な男のどこがいいんだ?』だの『勝手に補正して見えてるんじゃないのか』だの言いたい放題だったからな」
「本当にね。でも、小川の兄上は私の言うこと茶化したり笑ったりしないから好きよ」
「まあ、可愛い妹の言うことは何でも聞いてやりたくなるからなあ」
義満のほうは義将をよく知ってるからなのか、性格ゆえなのか義将のことで何か言うたび茶々を入れてくるのが常だった。一方、満詮は義満とはうってかわり真剣に話を聞いてくれる。同じ兄でもここまで反応が違うのかと驚きさえする。
「ねえ、兄上」
「ん?」
満詮は数の減った唐菓子の載った杯をゆっくりと手繰り寄せた。
「私、管領殿と一緒になれないなら尼になるわ」
その言葉に満詮は下にやっていた目線を上げて此方へ向いた。その目はわずかに驚きがあった。
「だって他の人の妻になんてなりたくないもの。そうなるくらいだったら誰のものにもならないまま一生を終えるわ」
厳然とした様子に満詮はどこか思い惑うように口を開いた。
「…恵子、兄としては妹が"一緒になれないなら死ぬ"なんて言い出さなくて良かったとしか言いようがないな」
満詮は困ったように笑った。相変わらず思ってもいない返しをする兄に自分もつられて笑ってしまうのだった。 

 

足利兄弟のバレンタイン

  バレンタインが近づいていることをカレンダーで知ると直義は眉間を押さえた。
今年もまた”あのこと”を兄に伝えなくてはならない。
「もうすぐバレンタインではありますが貰った物を他人に配ることはしないように」
仕事終わりにオフィスから出てきた尊氏を見つけて捕まえると、直義は子どもに説教をする親のような面持ちで伝えた。
「またそれか」
「去年も言ったのに結局守らなかったでしょう。今年もそのようでは困るのです」
鋭い目で凄んでくる直義に対して尊氏はやや困ったように笑って身を縮こませた。ここまで直義が言うのも尊氏の”癖”に訳があった。
去年のバレンタインでは尊氏は相当の数のチョコレートを貰っていた。もちろん同じ部署の女性社員から義理として貰った物が大半だったが社内ではちょっとした有名人でもあることから部署を跨いで明らかに義理ではない物を受け取ることもあった。とまあ受け取る数自体は多いのだが最終的に尊氏の手許に残るのはかなり少なかった。それも尊氏が受け取った物を他の人間に渡しているからだった。物が多くあれば他人に分け与えたくなる性分なのか昔からその有り様で尊氏の人望と上手く躱しているお陰もあって幸い大きなトラブルはなかったが直義としてはこの先想定していないことが起こりえる可能性があるからと頑なにやめさせようとしていた。去年のバレンタインも事前に言いつけられていたが尊氏は結局いつもの癖をやめられるはずもなく随分と中身の軽い袋を提げて帰って直義に睨まれたことをよく覚えている。
注意するのも何事にも慎重な直義らしいことではあるが、何年もやって来たことを今さらやめられるはずもなくここまできていた。それに尊氏として自分ばかり咎められるのは不満があった。
「お前は俺ばかり責めるがお前も直すべきところがあるんじゃないのか」
「私のことはいいでしょう」
「よくなーい」
直義が触れてほしくないことだと言わんばかりに顔を引きつらせるのを見て尊氏はにやっと笑った。悪癖があるのは尊氏だけではない、直義にもある。それは人から物を受け取らないということだった。昔からそうだ。余程のことが無い限りどんなものでも受け取ろうとしない。昔、学生時代に直義に好意を持っていた女子がバレンタインにチョコレートを渡そうとしたが直義はそれを断って受け取らなかったことがあった。本人はトラブルを招かないためだと言っていたが極端すぎるし、渡そうとした人間が哀れだと尊氏は思うことがある。
「お前の言い分もわかるんだがだからといって全く受け取らないっていうのも相手に悪いだろう」
「兄さんのように何でもかんでも貰った物を他人にやるほうが良くありません。人間関係に亀裂が入る可能性が出ます」
「だからだな…ああもう、これじゃ埒が明かない」
危うく言い合いになろうかという時に尊氏は頭を掻いて制した。
「じゃあこうしよう。今年のバレンタインは俺は貰った物を人にあげないように努力してお前も人から物を受け取るように努力する」
「はあ…」
「それでその予行練習として互いにチョコレートを交換するっていうのはどうだ?」
「はい?」
尊氏が名案と言わんばかりの顔で言うと直義は目を白黒させた。
「あの、流れがよくわからないのですが」
「だってお前も俺も今まで普通に受け取るってことが少なかったわけだからいきなりやろうとしても慣れてないから出来ない可能性があるだろ?だからその練習」
「だからといって我々で渡し合う必要は…」
直義がぶつぶつと不満を漏らしていると尊氏はただじっとその目を見つめた。威圧感はないものの、どことなく”有無を言わせない”と言われているような気がして直義はそこで押し黙った。
「わかりましたよ」
「うん。じゃあ当日は宜しく頼む」
満足げに笑う尊氏を見て直義は昔から自分は兄には敵ったためしがないなと肩を竦めるばかりであった。

 


バレンタイン当日。尊氏は出社して朝一番に直義の元へ向かった。
声を掛けると直義は観念したように笑って袋を取り出した。
「やはり覚えていましたか」
「当然だろう。ほら、恥ずかしがらずに出せ」
直義はやれやれ、と言った様子で袋を尊氏のほうへ寄越した。
「どうぞ、兄さん。受け取ってください」
「ああ、ありがとな直義。これは俺からだ。受け取ってくれ」
まるで用意してきた台本を読むかのような口ぶりで尊氏と直義はチョコレートを交換した。些か不自然さを感じずにはいられない様相だったせいで互いに違和感を抱かなかったことはないがあえて何も言わないことにした。
「開けてもいいか?」
「どうぞ」
尊氏は貰った袋を開けて箱を取り出した。黒いシックなデザインの箱は尊氏も何度か見たことのあるもので有名な高級ブランドのものだった。
「お前…これ、気合入ってるな」
「どうせ渡すならと思いまして…おかしかったですか?」
「ああ、いや。良いと思うぞ」
いかにも直義の真面目なところが出ているなと内心ほほえましさを感じながら、これは帰って大切に頂こうと箱を袋に戻した。
「俺がやったやつも気になるだろう?いいぞ。中身を見ても」
「………ではお言葉に甘えて」
直義としては今この場で確認するほど気になってはいなかったが尊氏から圧を感じて開けることにした。
しかし、そこで直義はあることに気づいた。先程手渡された段階では地味な色の紙袋に入っていたため特に気になることはなかったが、中を見るとピンク色の物が見えた。
「兄さん。これはまさか…」
「ああ、気づいたか?俺の手作りだ!」
取り出したピンク色のラッピングはずいぶん可愛らしいデザインでさしずめ女性が恋人なり友人なりに渡すための物と言えるだろう。どう考えても成人男性が使うものではない。
「わざわざ作ったのですか…」
「ああ。一人で菓子を作ったのは初めてだったから幾分か苦戦したがちゃんと出来たぞ。あとお前は甘いのが苦手だからダークチョコレートにしておいた」
「お気遣いどうも」
尊氏なりに色々と考えてしたのだと思ったが努力の方向性が少しおかしいような気がして直義はなんともいえない表情をしたが、まあこれも兄の優しさだと納得することにしておいた。
「それにしても今年は良いものを貰ったな。まさかこんな上等なチョコを貰えるとは」
「私もです。まさかこの歳になって兄から手作りの物を貰うとは思ってはいませんでした」
「受け取っておいてよかっただろう?」
「兄さんこそ、他人にやりたくなくなったでしょう?」
二人は顔を見合って笑った。これがこのまま互いの癖を矯正する方向に繋がればいいが果たしてどうなるのかは未だわからなかった。ただ、両者とも兄(弟)から貰えたという事実に満足しているという心中は同じだった。

 

 

その後
「直義~!助けてくれ!」
「どうしたのですか」
「貰ったチョコが多すぎて持って帰れない!どうすればいいと思う!?」
「……………。もう知りません」

かりそめの幕引きを終わらせて

 二十日に及ぶ後小松天皇による行幸が終わり、愛息子である鶴若が元服し、義嗣と名を改めてから数日経過したのち、足利義満がにわかに体調を崩した。 

山科嗣教の元服の儀を執り行った後に咳が出始め、風気かその時は軽いものであったが夜にかけて次第に重くなり、翌日には誰にも対面せず自邸の北山殿に籠る有り様だった。 

その後平癒のための神楽を石清水八幡宮惣社に命じて奏したり、祈祷を行わせたが一向に恢復の兆しは見えず依然として居室で臥せっていた。そして七日経った日の昼、危篤に陥った。しばらくしても目を覚まさないため、侍医は死亡したと判断し、その報せを伝えるための使いも出されたが晩になって蘇生したのだ。 

公武ともに見舞いの客が連日来たり、文を寄越して来たがごく一部の者を除いて北山第には人を入れさせないようにしていた。一部の者以外には同居している妻の日野康子と足利義嗣も含まれていた。 

自室の前には見張りを置き、何人たりとも簡単には入れぬようにされていた。康子は病で臥せっている夫の顔すら見られないことを嘆き、やって来るたびに物憂げな顔をして近づいてくるものだから毎度嘆息していた。義嗣も義母と同じく悲しそうな顔をして、不安げに父の容態はどうかと訊ねてくる。残されている猶予は多くはなさそうだなと満詮は思うのであった。 

満詮がいつものように北山第の常御殿に来ると、義嗣がゆっくりとした足取りで近寄ってきた。眉が下がって、普段よりいっそう神妙な顔つきをしていた。 

「あの…叔父上」 

元服したばかりでもあってか、顔つきはまだ幼く端整ではあるが父と似ているとも言いにくいものであった。本当にあの人の血を引いているのかと満詮は疑いたくもなったし、少し前まで寺に居たとはいえ、おおよそ武家の子らしくもないなと思った。 

「何だ」 

満詮の平坦な声色に義嗣は少し気圧されたように身体を竦ませた。 

「父上には…まだお会いしてはならないのでしょうか?」 

「まだだ。目を覚まされてそんなに時が経っていないのだ。まだあまり人に会わない方がいい」 

「でも…」 

「御体の負担になってしまってはいけない。そなたも父上が無理している姿を見たくはないだろう?」 

そう告げれば義嗣は押し黙った。満詮の勢いに押されたのか、これ以上何を言っても聞き入れてもらえないと思ったのかは知らないがただ一言「はい…」と返事をするだけだった。 

俯く義嗣に「元気になられたらお会いできるからそれまで待っていろ」とだけ伝える。それを聞いて義嗣は顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。義嗣をこれまで嚮導してきた父が命の瀬戸に立っているのだ。気にかかるのは当然だ。 

騙してしまったことに満詮はいくらか良心が痛んだ。仕方ないのだ。甥を欺いてもやらねばならないことがある。 

満詮は義嗣に背を向けて歩き出した。義嗣には悪いが、目覚めた義満に会うことも、次再び眠ったらもう目を覚ますことはないだろう。この事を起こしたのは満詮本人なのだから。 

 

事を思い立ったのは一年半ほど前、応永十三年の年末だった。 

後小松天皇の生母三条厳子が危篤に陥った。父である後円融天皇はすでに亡くなっており、在位期間中に母も薨じてしまうのは諒闇となってしまい、たいそう縁起が悪い。なので代わりに准母を立て、天皇の母はなおも存在するということにしようという話になった。そこで白羽の矢が立ったのが北山殿として公武の頂点に立ち、朝廷での権力を掌握している義満の妻である康子であった。康子は准母となり北山院の院号が宣下され、提案した日野重光が義満に太上天皇の尊号を贈るという案も出したが結局その時には実現しなかった。 

件の話を聞いて、満詮はまずいことになったと思った。義満は自身の心の内をごく近しい人間にすら話したことがほとんどなかった。義満と満詮は非常に親しい間柄であり、かつては以心伝心といえるほどだった。しかし、最近の義満に関しては満詮でさえ何を考えているのかもわからず、心の内を伝えられたこともなかった。恐らく、自身の持つ野望を誰とも共有せず、すべて己一人の力だけで成し遂げようとしているのではないかと考えた。 

実に義満らしい考えだと思ったがそれは実に危険なものでもあった。義満はとうに出家していながら、依然として公武における絶大な権力を持っており、専横ともいえる行動が目立っていた。 

誰にも伝えていないことは誰も察知できないことでもある。もし義満の思い望むものが誰にも止められぬものであった場合、もしかしたら取り返しのつかないことになってしまう可能性がある。そうなってしまう前に止められる人間が止めなければいけない。 

義満の業が義満の一代限りで終わるならそれで良い。しかしそれが天皇家や将軍家の今後に累として及ぶなら?息子の義持の障害となってしまったら?そう思い至ってしまえば、満詮が答えを出すまではそうかからなかった。 

満詮がそれを実行するために相談したのは斯波義将であった。足利尾張家の出身で長く幕政において義満を補佐してきた男だった。義満にも腹心として頼られているため、このことを伝えられるのは義将しかいないと思った。 

満詮は勘解由小路にある義将の邸に赴き、その一室で密談に至った。 

義将は義満が出家した際に同じ時に出家し、家督も息子の義重に譲っていた。義将は満詮の話を聞いて居心地が悪そうに眉根に皺を寄せた。 

「それはつまり、北山殿を亡き者にしようということですか」 

満詮は腕を組んで一つ息を吐いた。 

「単刀直入に言うとそうなるか」 

義将からすれば心苦しいことではあるだろう。義満が年少の頃から知っており、歳も近いことから主君でありながら弟のようなものだと思っている節もある。義満の昨今の動向に思うところはあれど、手をかけてしまうのは避けたいと思うのはおかしなことではない。 

「良いでしょう」 

義将の思わぬ言葉に満詮は瞠目した。 

「北山殿がああなってしまった一端を私が背負っているのは確か。将軍家を次代へと継承する責務を担っている以上、その差し障りとなるのならば始末をつけるのも致し方ありませぬ」 

「そなたにとっては決して気持ちのいいものではないと思うが…すまん」 

「小川殿が謝られる必要はありません。これも命運の尽きです」 

最終的にこの計画を知るのは満詮と義将だけとなった。実行するのは機を見てからとのこととなったが、何を用いようかという話になった。弟として、満詮は義満に苦しみながら絶命してほしいとは思っていなかった。兄に憎しみなど微塵も抱いていない。ただ足利の今後を考えて行うことだ。だから出来る限り自然で、苦しむことなく逝ってほしい。刃傷沙汰を起こすのは駄目だ。騒ぎになるし惨いことになりかねない。そこで毒を使うことを考えた。しかし、生憎死に至らしめることができるほどの毒物は存在しない。しかも毒で殺すとなればそれほど強いものであるため、服用すれば苦しむのは当然だ。さあどうしたものかと悩んだ。そこで義将が旱天慈雨のごとく提案をした。 

毒は毒だが、特殊な毒だ。掌ほどの大きさの小刀で切っ先に毒を塗ることで用いることができる。義将が越前国から呼び寄せた男が持ってきた物で、おおよそ医者には見えない風体に偽物を掴まされてはないだろうかと気になったが他に代替案もない以上、これに頼るほかなかった。 

そしてついに卯月の終わり頃、機は熟し決行に至った。義満は咳気になり、床に臥せった。誰とも会おうとせず邸に籠ったことを聞いて今しかないと思った。 

満詮は義満を訪い、好物でもある瓜を見舞い品として持参した。その時の義満はいささか顔色が悪いものの、そこまで重篤ではない様子だった。満詮が瓜を切ろうということで例の小刀を出した。切っ先にはすでに毒を塗っていた。瓜に切っ先が当たろうとした時、満詮は大きく”手許を狂わせて”義満の左の手の甲を傷付けた。幸い深い傷ではなかったが、肌には一文字に線が入り血が流れた。痛みはほとんど無いようで義満は己の傷を見てそう驚く様子もなく、「ああ、傷がついてしまったな」と笑うだけだった。満詮は即座に謝辞を述べ、端女を呼んで手当をさせた。瓜は腐っていたということにして全く新しい別のものを渡した。それから少し話をして、早々に退室した。傷をつけてしばらくはあのまま。あの毒が本物ならば時をかけて全身に回り、ゆっくりと体を蝕んでいくという。毒が偽物ならば、数日経てば痕も残らず消えるだろう。事が望み通り運ぶかは、毒の真偽にかかっていた。 

 

そして義満は日が経つごとに容態が悪くなっていき、ほぼ毎日見舞っていた満詮は日毎に弱っていく兄の様子を克明に目に焼き付けた。 

ついに七日目、義満はいよいよ重篤な状態に陥り、意識を失った。声をかけても、体を揺すっても目を覚まさない状態が数時間続いたのを見て医者は死亡したと判断した。義満が眠っている間に傷を確認したが、数日前にほんの小さい線であったものが大きく広がり、周囲の皮膚は赤黒く変色していた。間違いなく腫脹している。恐らく膿も出ているのだろう。この状態ならば手を動かすどころか、何もせずとも痛いだろう。満詮は痛ましい兄の姿を見て胸が締め付けられた。毒は本物だった。それを実感した満詮は自分のやったことの重大さも同時に知らされたが、もう後戻りはできないのだと腹を括った。 

義満が死去したと聞いて満詮もその通りなのだと信じた。しかし事実は違っていた。死の宣告の数時間後、義満は蘇生した。死んでいなかったのだ。 

これには満詮は愕いた。まさかこの状態になって息を吹き返すとは予想していなかった。生き返ったのは未だ義満の命運が尽きていないのか、それとも天が満詮を見放したか。こうなってしまっては今後どうなるか分からなくなったと思った。しかし一度実行すると決めたことを一度想定外のことが起きた程度で完遂しないのは不可能だ。これは将軍家の命運がかかっている。最後までやり遂げるのが礼儀であり、兄への贐だと思った。引導を渡すのは、弟である満詮の役目だからだ。 

 

皐月の良く晴れた日の昼、満詮はいつものように北山第の義満を見舞った。 

義満が息を吹き返して二日経っていた。義満はなんとか蘇生したものの、全快するなど都合のいいことは起こらず目に見えて衰弱しているのがわかった。まともに食事を摂っていないせいか頬は痩せこけ、顔面は青白くなっていた。体の線は弱々しい線を描き、まるで生気が感じられない。全身が強張り、人の手を借りないと体すら動かせなかった。会話しようとも声は掠れてほとんど発さないため、少し前までの元気はどこへ行ってしまったのかというほどの変わりようであった。まるで別人である。相変わらずごく一部の者だけが見舞うことを許可しているが、満詮は毎日のように訪れ、こうして兄に声をかけていた。義将は蘇生した次の日の朝に訪れたが例のことを察知されないように少しだけ顔を見せて早々に退出させた。満詮は義将には出来るだけ義満の弱っている姿を見させたくないと思ったのだ。義将が衰弱した義満を見た時にわずかにした悲痛の表情は未だ脳裡に焼きついていた。 

「兄上、聞こえますか。時鳥の鳴き声がしますよ」   

満詮の声に義満は床に臥せったまま、視線だけを寄越した。ゆっくりと満詮の方を見たのちに外の方へ顔を向けた。 

初夏にはまだ早いが、時鳥の鳴き声が聞こえ始めていた。 

「兄上、白楽天の『琵琶行』をご存じですか。白楽天が左遷された潯陽の地で出会った琵琶弾きの女の境遇を己の身に重ね合わせて詠んだ詩なのですが、その一節に”杜鵑は血に啼き猿は哀しく鳴く”というものがあるんです」 

字は違うが同じく”ほとどぎす”と呼ぶ漢字に”不如帰”というものもある。蜀の望帝杜宇はその死後ほととぎすとなり、蜀が秦によって滅ぼされたことを知り社宇は嘆き悲しんで、”不如帰去”と血を吐くまで鳴いたという伝説にちなむものである。 

「兄上は最近すっかり話してくれなくなりましたね。もう声も出せないのですか」 

満詮は衾に投げ出され、か細くなった兄の腕を見つめた。傷を隠すために広範囲にわたって布が巻かれているが義満もその下がどうなっているかということくらい分かっているはずだ。これが、ただの病などではないことを。 

「杜鵑のように血を吐いてでも私に言いたいことがあるのではないのですか」 

そう言った途端、義満は満詮に視線を向けた。眉も目も以前よりいっそう垂れ下がり、元あった覇気などどこにもない。 

「…なんとなく気づいていた。なぜこんなに長い間治らず臥せっているのか。ここまでこの手が痛むのか…」 

義満は囁くように言葉を紡ぎながら左手をわずかに持ち上げた。痛みと手の震えのせいで顔が歪む。義満はとうに満詮のしたことに勘付いていた。 

「…余はそなたから恨みを抱かれていたのだな」 

「違う、それは違います。兄上。私は何も兄上が憎くて斯様なことをしたのではありません」 

義満の弱々しい言葉に満詮は即座に否定した。義満を憎いと思っていないのは本当だ。確かに長い間兄弟としてともに過ごしていれば不和もある。義満に煮え湯を飲まされたこともあった。肉親ゆえの愛情と憎しみの狭間に置かれるような思いをしたこともある。しかし、それでも満詮は兄のことが好きだった。結果的に己は義満の弟として生を受けて幸せだったのではないかと思っていた。 

「これもすべては将軍家の、足利のためなのです。最近のあなたは些か専横が過ぎる。それを看過していれば将軍家ひいては天皇家にも害を及ぼしてしまう。だから私はそれを止めようと思った」 

義満はただ何の感情も感じられない目で満詮を見つめていた。 

「兄上からすれば私のしたことは許せないでしょう。でも私はもっと周りの者のことを…義持のことを考えてほしかった」 

義持は義満から家督を譲られて室町殿となっていたが、義満が実質頂に君臨して権力を掌握していることには変わりはなかった。最近の義満は義嗣にばかり目をかけ、義持に対して待遇が疎かになっている部分もあった。そんな義持も父に反発するようになっていた。顔を合わせてもまともに話をしようとせず、しても口論になることもしばしばあった。満詮はそんな義持に対して、義満の代わりに父としての役割を果たしているとも過言ではなかった。政にばかり注視し、息子を顧みようとしない父に振り回される義持を放っておくことはできなかった。義持は父からの愛情をずっと欲していたのだ。 

「余は…ずっと義持のことを考えていた。しかし彼奴にばかり目をかけると義持のためにならないと思ったのだ」 

「ではなぜ義持本人にそれを言ってやらないのです!あの子は貴方からの言葉を待っていたのですよ。義持は…貴方から愛されたいと思っていたのに…」 

病人の前にも関わらず満詮は声を荒げてしまう。一度思いのたけを表に出してしまうと抑え込むのは簡単ではなかった。 

「思うだけでは駄目なのです…口に出して、行動で示さなければ…伝えたいことも相手に伝わらないではありませんか…」 

「義持はそなたが気にかけているし、義持から嫌われているからな…余から気にかけられても迷惑なだけだと思っていた」 

「そんなはずないでしょう…親から気にかけられて嫌だと思う子がいるわけないじゃないですか。なぜあなたは有能のくせに身内のこういうことに対しては鈍いのですか…」 

「はは、すまぬ。すまぬな…満詮」 

義満は空笑いをして天井を仰いだ。満詮は目が熱くなっていくのを感じた。 

「なあ満詮…余はどこかで過ちを犯してしまったのだろうな。でもどこで誤ってしまったのか見当もつかぬ。常に最適解を選ぼうとしていたつもりだった。しかし余は…何を誤ってしまったのかここにきても分からなんだ。そなたならわかるか…?」 

満詮は堪らなくなって義満の体にしがみついて顔を埋めた。 

「兄上は…兄上は何も間違っておりませぬ。貴方のせいじゃない。私たちが間違っていたのです。だからこうしないといけなくなってしまった」 

満詮は衾が汚れることも構わず涙で濡らした。泣いたのはいつぶりだろうか。ただ年端もいかぬ童だったころは些細なことで大泣きしていたというのに成長とともに泣かなくなってしまった。 

“乙若様。兄は鑑ぞ。何があろうと兄を敬い支え、尽くすのです。きっと春王様が大きくなり大君となった後もこの方に従って間違いはないでしょうから” 

今までどれほど思い返したかわからない言葉が脳裏によみがえる。あれから数えきれないほどの年月が経った。泣かなくなったのもこの言葉を聞いた日からだったような気がする。満詮は常にこの言葉と生きてきたのだ。 

「みつあきら…そんなに泣くな。かなしいなら余がそばにいてやるから…弟は…たからだからな…兄がまもってやらねば…」 

義満は手を伸ばして弱々しくも満詮の頭を撫でようと動かした。やっとのことで触れた手から感じる温もりは風前の灯火のようにわずかなものだった。満詮は堰を切ったように声を上げて泣いた。 

 

応永十五年五月六日、足利義満が齢五十一歳で薨去した。蘇生してから二日後のことであった。 

朝廷は義満に太上天皇の尊号を贈ったが、斯波義将が辞退したことで結局贈与されることはなかった。 

 

終身名誉の罪業

 

 兄の悪癖が始まったのはいつだっだろうか。
厳密には覚えていない。物心ついたころにはもうすでにそれが普通であった。それを疑うことも拒むこともせず受け入れてきた。悪癖なんて言っても結局のところ今も受け入れているのだから自分も甘いなと思う。人の心根とはわからないものである。己の思い信じることさえそれが真に正しいかどうかわからなくなってしまう。己のことでも思い惑うというのになぜ人の心がわかろうか。晒した心根が紛い物ではない確証など存在しない。心の裡を覗くつもりがそれが表であることも、あるいは洞でしかないことだって有り得てしまうのではないだろうか。
私は今、兄の何を垣間見ているのだろうか。表か、裡か、洞か。
「満詮、」
兄が私の名前を呼ぶ。先程まで逃避するように外の音に耳を澄ましていたが、春らしい麗らかな光と草木をそよぐ風と庭に植えられた花の薫りは兄の声によって一瞬で消えてしまったように周囲が遮断された。鳥の鳴き声すら今はもう遠い。
普段直臣たちがいる前ですら出さないような声色でまるで縋るような、それでわずかに震えているようなものだった。ゆっくりと兄の顔に目線を移すと漆黒の双眸とかち合った。淀みなく、私だけを写した眸。そこから読み取れる意思はひとつだけ。
いけない、これはよくない流れだ。
「満詮、なにを考えている?」
冷たく淡い声。それはいつも決まって兄が私を辱める前触れだった。
兄の手が首にかかる。武弁ではあるが決して節榑だっているわけではない。弓や刀をとるより文筆をとることのほうが多いのだから。兄は豪力ではないが丁年の男らしく臂力はそれなりにある。だから力を込められれば当然ながら痛いし、苦しい。そういえば昔は手加減も知らずに力を込められたから本当に苦しいこともあったなと思う。まあ、今も苦しいことに変わりは無いのだが。あの時は年端もいかない童であったから臂力などたかが知れている。だが今の兄の臂力で限界まで絞められたらと思うとぞっとする。毎度命の瀬戸際に立たされているのかとおもうとやはり悪癖と形容するほかないなと考える。
首に回った手に力が込められると次第に気管が絞まっていくのがわかった。じわじわと真綿で絞められるように緩やかで、それでいて烈しさも同時に感じてしまうような不思議な感覚。意思に反して自分の手が兄の両手に重なるように置かれた。その苦しみから一刻も早く逃れるために、まるで手だけ違う生き物になってしまったかのようにもがき始めた。長くない爪が兄の手に食いこんだ。掻き毟ってひたすらに抵抗しようとしている。痛々しい線が引かれるのとともに鮮血が滴り落ちて指を染める。とうに兄の顔を直視することはできていなかったが、視界の端で快か不快かどちらとも言えない表情をしているのがわかった。痛みを感じてそれでさらに昂りを増幅させたのかさらに力がこめられるのを感じた。
だんだんまともに頭も回らなくなってきた。視界が次第に白く朧げになってくる。私は死ぬのかもしれない。自分たち以外誰もいない御所の常御殿で、兄の目の前で兄の手によって殺されてしまうのかもしれない。しかし私はこれ以上抵抗しなかった。爪を立てることだけが抗う術の限りだった。
せめてもの手立てと言わんばかりに喉に力を入れて声を出そうとした。出てきたのは声と呼べるものでもない、ひゅーひゅーという弱々しい音だった。それと共に爪を立てていた指を崩して血に濡れた肌を今度はゆっくりと撫で擦り始めた。それに呼応するように兄は手の力を弱めていく。拘束するものが無くなったことで空気をちゃんと吸えるようになった。胸を上下させて空気を吸い込むと先程までぼんやりとしていた視界と思考は冴え、涙と汗で顔中がぐちゃぐちゃになっていることに気づいた。息を整えるころには兄が虚ろな表情をしているのが目に入った。
「...すみません、手痛かったでしょう?後で手当します」
兄の手は無惨なことになっていた。折角先日の傷が治ってきていたと言うのに。いつもこんなことを繰り返している。
「いい、痛いのはそなたもだから気にすることはない。」
円やかな輪郭と自分よりも幾分か垂れた眸が印象的な柔和そうな顔立ちも今は釈迦に説法するように無稽さを感じる。
「そなたに傷つけられることによって余もそなたと同じ痛みを得られるのだから本望だ」
兄は口角を上げてにやりと笑う。首を絞められている時の兄の顔はよくわからないが、きっと愉悦を感じているのだろうと思う。
兄は先程までいつもと変わらないように振る舞っていてもなにかの拍子で突然豹変してしまうことがあった。なにがきっかけなのか私にはよくわからない。毎度決まって首を絞める前はいつもと違って弱々しくなるのに絞めている時はどこまでも強気だ。
なぜこんなことになったのか。まだ童だった頃に戯れとして始まったそれは互いに笑いながらやるようなただの冗談半分の戯れに過ぎず、力だって大したものではなかった。しかしいつのまにか戯れは"兄弟の立場を示すための轡"に昇華してしまった。きっと兄はこれを己の力の誇示の代替手段として使っているのだろう。己の方が上だと理解させるためのある種の牽制。しかし正直そうとも言いきれない気がしている。
「乙若、乙若」
先程まで呼んでいた"満詮"ではなく幼名ではなく"乙若"という名を呼ばれる。普段の尊大な態度はなりを潜め、眉がますます垂れて童のような幼気な顔を見せる。
「兄上、大丈夫ですよ。ただ昔の我らのことを考えていただけですよ」
兄を安心させるために再び傷だらけの手を両手で包み込んだ。ただ慈しむように、慰めるように撫でた。兄が心を許している人間は何人かいるか、その誰にも私と同じようなことはしないだろう。頼之にだって義将にだってもちろん乳母の有子にだってしない。血を分けた弟にだけ向けられる特異的な感情の表出だ。ただそれをぶつけられるのを私はひたすらに受け止めるしかない。
「兄上、私たちは本当にどうしようもない兄弟ですね」
傍から見れば私たちの関係は歪んでいるのかもしれない。私だって望んでこんな関係になったわけじゃない。ただ、私たちはどこかで本来あるべき道から外れてしまった。
父が若くして亡くなって以来、兄は年少ながら家督を継いで将軍の座についた。父が呼び寄せた管領の頼之の助けもあり、今となっては武家の王としても朝廷の権力者としても大成したがその重圧を一身に背負っているせいか、心は大いに蝕まれていた。普段周りに見せることはないが、弟である私にだけは弱みの片鱗を見せた。いや、むしろ見せるどころかそれを私と折半しようとしているかもしれない。"痛み"を共有することで同時にこれまで、ひいては今も日々負っている"苦しみ"を私と分かち合おうとしている。 
私は普段の高潔で気高く、何者にも靡かない兄が好きだ。こんな行為は不毛だし何の益にも繋がらない。しかし、この弱さも兄の確かな一側面でありそれを否定するほど酷なこともできない。ただ求められているから求められるがままに慰撫する。それが私の役目だ。もしかしたらこれは私たちのどちらか片方が死ぬまで続くのかもしれない。その時はその時だ。ただ私たちが兄弟として同じ空の下で生まれてしまった罪業を背負って生きていく他ない。
洞だってきっとどこかに繋がっている。表があれば裡があり、入口があれば出口がある。どうせ地獄なら居心地のいい地獄がいい。そんな地獄も甘んじて受け入れる。それが不毛で、歪な私たちの行き着く先なんじゃないかと思ってる。

 

酔生の夢

 

 辺り一面は銀世界だった。 
見渡す限り雪に埋め尽くされ、草の緑も土の茶もすべて喪ったような余白が広がっている。 
夜中には雨が降っていたが明け方ごろに雪へと変わったのだろうなと考えながら青年はがたがたと建付けの悪い戸を閉じながらその新雪の上へ足を踏み入れた。 

隙間から冷たい風が吹き抜け、天井からは幾つか雨漏りしているような有り様のこの陋屋だがどうやら雪にはなんとか耐えられているようだった。とはいえ、屋根に並々と雪が乗っているので後で雪おろしをしなければ重みに耐えられなくなって今にも壊れそうである。中でぐうたらと寝ている叔父を叩き起してやるかと思いながら男は茅屋に背を向け歩き出した。 
ここに来て幾分か経つがようやくこの生活に慣れてきていた。以前とはあまりにも違いすぎる暮らしぶりではあったが慣れてしまえばどうということはなかった。 
変わらないものなど存在しない。すべてのものは移りゆき、いずれ跡形もなく消えてしまう。変化から逃れ、宿命に抗うことなど不可能なのだからただ受け入れることに気を注げば良いのだ。決して望んだ行く末ではなかったがどうせ生きているのだからと考えて、男はそれ以上悔やむことも憤ることも憂うこともしなかった。 

雪道を暫し歩いていると銀色の一本道の端に黒いものが倒れているの視界に映った。 
最初は寒さに行き倒れた行者かと思ったが次第に近づいていき、その黒い衣を間近で見るとあるものが男の脳裏に過ぎった。まさか、と思った。しかし、すぐにそんなはずはないと即座に頭かぶりを振る。 
目の前までくると黒い衣をまとった男であることがわかった。衣は汚れてはいるものの上等なものであることがわかる。関わる必要もないのだから見て見ぬふりをして立ち去ればいいだけのことなのに男はそうすることができなかった。その場に膝を着いて衣に触れた。艶があって触り心地が良い。輪無唐草の文様といい、絹のような生地といい、男の見立て通り衣の正体は"束帯"だった。 

なぜこんなところに束帯を着た男が倒れているのかは見当もつかない。それなりの身分ではあることは間違いないが近くに貴人の邸があるわけでもないのに雪道で行き倒れているとはどういうことなのか。ただ謎ばかりが脳内で渦巻いた。 
男はその時気がついた。束帯の色と雪を被っているため気づくのに遅れたが束帯には明らかに雪とは違うもので濡れていた。それが"血"であることを触れていた手のひらを見て初めて知ると男は顔を顰めた。 
束帯を着た貴人が雪道に倒れているだけで尋常ではないが血という要素が加わったことでますます要領を得ない状況に拍車がかかる。 

とりあえず息をしているか確かめようと顔を覗き込むと心の臓がどくんと鳴るのがわかった。拍動が速くなる。警鐘が鳴っているかのように拍動は次第に速くなる。一瞬呼吸を忘れ、時が止まったかのように音が消えた。衝撃を受けるというのはこういうことを言うのかと感じた。 
そんなはずはない、そんなことはあってはならない、違ってくれと願う男の思いは虚しく、そこにあるのは正真正銘の"それ"だった。 
顔にかかっている雪を払って青白い肌に触れる。冷たいがわずかに体温を感じる。 

─────生きているようだ。 
生きていることに喜ぶべきか、がっかりするべきか。男は己は昔と比べて変わってしまったと思っていた。しかし違った。未だにこんなことを考えてしまうなど、己がいかに過去に囚われているか思い知る。 

「御所……」 

己の声はこんなに弱々しかったかと考える。目の前に本人がいるのに呼び声は空々しく雪面に散った。 
すると突然その声に呼応するかのように貴人の瞼が開いた。闇夜に蠢く蟲のようにぎょろっとした瞳が男を捉える。先刻まで思い描いていたものからは程遠く異様で醜悪な姿に男は何を発することもなく腰を抜かした。泥濘にある重石をひっくり返して見た時と同じ肌が粟立つ感覚が全身を駆け巡る。貴人の針金のような指が動いてゆっくりと男に近づいた。 

男はようやく気付いた。これが何なのか。己は何を見ているのか。そう思った時に貴人の唇が言葉を紡ぐように開閉した。声にはならなかった。それどころか何の音も存在していないかのように無音だった。気づいたら、辺り一面の白がすべてを呑み込んでいた。 

 


*


寒い寒い冬の日の夜のことだった。 
いつもと違うことと言えば、昨日よりうんと増して風が冷たく、大雪が降ったことだ。 
夕方から降った雪は積もり明け方までやみそうにもない。 
草臥れた衣を手繰り寄せて貧相な塒でせめてもの寒さを凌ごうと男は背を丸める。 
手足はすらっと長く、以前に比べ肉が少ないが元々白かった肌はさらに血色が悪く生白い。顔立ちも端整ではあったが生気が薄く、年相応の健康さがすっかり抜けているような風袋であった。 
男はかつて貴々しい将軍家に仕える臣だった。かつての名は和田三郎朝盛という。 
武勇に秀で、歌を詠む才にも長けていたため同年代である君からの寵愛を一身に受けていた。 
主君への忠誠を忘れない寵臣だった。しかしそれが朝盛の誇りであったが故にそれは思わぬ形で仇となった。祖父が謀反を起こしたのだ。一族の意志に叛いて見捨てることも、主君に弓引くこともできなかった。結果、頭を剃って遁世しようとしたが祖父が孫の武勇を惜しんで息子に命じて無理やり連れ戻させた。そうして朝盛は望まない一族が起こした戦に身を投じることとなったが、結局首謀者である祖父は討死、生き残った数少ない他の一族の者たちとともに落ち延びたのだ。辿り着いたのは安房国だった。落ち延びた時は他に数人いたが離れ離れになったり、死んだりしたこともあって今所在を知っている一族の者は叔父である義秀のみだった。 

実の父はすでに死んでいる。他の者が言うには落ち延びる際に自害したとのことだった。あの絶望的な状況の中で生きて逃げ出せただけでも稀有なことだ。生きている者はたとえ二度と会うことはなくとも息災であってくれと願うばかりだった。 
共に暮らしている義秀に関しては朝盛にとって悩みの種でもあった。義秀は一日中寝ていることがあった。別段働くわけでもなく寝てばかりで、たまに思いついたようにふらふらと外へ行くだけだ。以前の叔父との驚くほどの変わりように強い言葉で諫めることもできずただ自堕落とした姿を眺めるだけであった。 

ただもう一つ朝盛を悩ませることがあった。義秀はいまだ朝盛のことを”三郎”と呼ぶのだ。朝盛は出家した身であるため”実阿弥陀仏”と名乗っていたが、義秀は呼び方に迷ったのか以前と変わらず三郎の名で呼び続けている。遁世に失敗していることもあり、寺に入ったわけでもない。今も念仏を唱えるのではなく近くに住む者の仕事をたすけたり、畑仕事をしながら慎ましく暮らしていた。頭も今は長らく剃っていないため、髪が伸び切ってしまっている。とても僧侶と呼べるような出で立ちではなく朝盛自身も己をいまだ俗世に身を置いているのか、はたまた俗世を断ち切ったのか判断がついていなかった。それにその名で呼ばれるとなぜか決まってかつての主君を思い出した。とっくの昔に今世の別れを果たしたというのに、呼ばれるたびに胸の内に寂しさが蟠るのはいまだに己が俗世にしがみついている証なんだろうと痛感させられる。何年経とうが思い出し、あの方を夢に見てしまう。 

———源実朝。それが三郎を俗世に縛り付けているかつての主君の名だった。 

名が頭に浮かんで朝盛は慌てて頭を振った。もう二度と会えない人間のことを思ったところで得られるものは何もない。思い出がある?一体それになんの意味があるのか。徒に追憶して胸が蝕まれるような思いをするくらいなら忘れたほうがずっといい。 

そう思っていたはずなのに、三郎は最近になってますます実朝に関するおかしな夢を見るようになった。昨夜見た夢はいっそう奇異だったと思い返した。 

雪道で束帯を着た男が倒れている。気になって近づいてみれば三郎はその男を実朝だと直感した。しかしその男が目を覚ますと明らかに実朝とは違う様相を呈していた。いったいなぜあんな夢を見てしまったのか。己は自覚しているよりもずっと強くかつての記憶に執着しているというのかと三郎は眉間に皺を寄せた。 

往時渺茫としてすべて夢に似たりという。今思うとあの時のことは夢の中のことだったのではないかと感じる。過ぎてみれば儚く形にすら残らない。形に残らないものをいったい誰が真に在ったと言えるというのか。生きていることすら夢に酔っているかのように頼りなく、脆く、煩わしい。この夢を見ることは藁に縋り続けることと等しく、ただ一時の悦楽に身を任せているに過ぎない。 

もう済んだことだ。死んだ人間だと思ってしまえばなんてことはない。あの方と一瞬でも交わっていた線を自らの手で断ち切ったのだ。一度壊してしまったものをおいそれと修復するなんてことは不可能だ。それが自然だ。自然に逆らう気はない。せいぜい人ひとりが生きるのに窮屈な現世に折に触れて毒を吐き捨てながら、天命が訪れるその時まで全うするまでだ。 

びゅうと隙間風が入り込んできたのを感じて体を震わせた。もう床につく頃合いだと紙燭に手を伸ばす。 

―――その時、体の内を奇妙な感覚が走った。これまでにない、言いようのない感覚だった。同時に鐘をついたような音も聴こえた。朝盛は一瞬近くの寺からした音かと思ったが耳に入ってきたのではなく、頭の中で直接響いたようなものであった。朝盛は直感で何かを知らせる警鐘なのではないかと感じた。確かなことはなにも分からないがただ漠然とそう考えたのだ。 

そうこうしているうちに奇妙な感覚はすっかり消え、鐘の音が再び聴こえることはなかった。ただ残る寂寞に気のせいかと思いながらやや居心地の悪さを抱えながらも冷たい茣蓙に横になる。風は止み、外ではただ雪がしんしんと降り注いでいた。 

 

 

気がつくと朝盛は歩いていた。辺りがうっすらとぼんやりした靄の中をただどこへ向かうわけでもなく、何を目的にするわけでもなく歩いていた。 
――噫、ここは何処だろうか。そんな疑問が頭の中に浮かびながらも、足を止めることなくひたすら歩く。己自身では行先を知らないのに無意識というか、体が勝手に動いているようだった。 
——私はどこへ向かっているのだ。この先には何かあるのか。誰かいるのか。もし誰ぞいるのならあの方に—— 

「三郎!」 

不意に名を呼ばれ、朝盛は瞠目した。そして自分が無意識のうちに”あの方”に会いたがっていたことを認めた。そしてこれが現ではなく夢であることにも確信した。 

――これは夢だ。夢に決まっている。そうじゃなきゃこんなことは起こりえない。それにしても何でこんな夢を見てしまうんだ私は…… 
色んな思いが朝盛の中で交錯する。頭では拒まなければならないと思っているのにそれとは裏腹に体は自然と動いてしまう。これ以上己を制することはできなかった。 
目の前にいる人物が誰なのか認識するのにそう時は要さなかった。わかってしまうのだ。出で立ちで、声で、佇まいで嫌でもわかってしまう。かつて当たり前のように常に傍にあったものがそこにあるのだ。思い出さずにはいられない。 

「御所……」 

ようやく絞り出した声はうんと掠れていた。己の声はこんなに弱々しかっただろうかと三郎は思った。 

「三郎、儂がわかるか?」 
「わかる、わかるに決まってるではありませんか…」 
「まことか。嬉しいぞ。今斯様な姿であるのに…」 

――このような、”首がない”というのに。 

改めて目の前に広がる光景を言葉にされて朝盛は喉元が締め付けられるような感覚に襲われた。目の前に立つ人物には首が”ない”。つまり首から上、顔がない。顔がなければ誰かとわからないものだと普通は思うだろう。しかし朝盛は顔がなくとも瞬時にそれが”源実朝”だと、かつての敬愛する主君だとわかった。 

「御所、一つ疑問なのですが口がないのにどうやってしやべっているのですか?」 
「よくわからぬ。まあ目もないのになぜかはっきりと見えるしな。まぁこうしてお前を見て、お前と話せているのだからありがたいことか」 

ははは!と愉快そうに笑う実朝に朝盛は自身も自然と口角が上がるのを感じた。実朝が笑う姿はまるで以前と変わっておらず、昔に戻ったかのように錯覚した。 

「三郎、久しぶりだな。昔に比べて痩せ細っているが折角の見目が台無しだぞ」 
「あれから様々あったのです。こうもなりましょう。御所のほうは…なぜそのような御姿なのかと訊いても宜しいですか?」 

己のことを濁すような言い方となってしまったが、それよりも先に気になることもあるからだ。当の本人が朗らかな様子だったとしても状況としては尋常ではない。首のないかつての主君と夢の中で談笑するという明らかに普通ではない――言い方を変えれば気味が悪いとも言える――状況に何も触れずにいるというのは不可能だった。 

「殺された」 
「…何者に?」 
公暁だ」 
公暁公暁というと甥御の…」 

実朝の兄であり前将軍である頼家の遺児が公暁なのだが、つまり実朝は自らの甥の手によって落命したということであった。朝盛が知る限り公暁は出家して京へ修行に行ったはずだ。その公暁によって殺されたということは自身が鎌倉を去った後に帰ってきたということかと推測した。 

公暁殿がそのような強行に出たのは将軍の地位のため、ですか」 

朝盛の言葉に——首がないのであくまで想像上の光景だが――実朝は目を丸くして、軈て観念したように頭を振った。その様子は、驚いているような微笑んでいるような、もしくはわずかに寂しさを滲ませたような何ともいえないものだった。まさか、これ以上ないほどおかしな夢を見たと思えばさらにそれを凌駕するようなことが起こるとはこの世はわからないものだ。 

「その可能性は高いな」 
「御所を弑すれば空いた座に己が収まれると思ったのでしょう」 
前将軍の子なのだから、出家した身とはいえ将軍に相応しいのは己だと思うのも無理はなかった。 
「それだけではないかもしれぬ。兄上を殺して将軍の座を奪ったのは儂だと考えていることもある」 
公暁殿は御所の猶子でもあるではないですか」 
「向こうからすればそんなものはもはや形骸よ。儂に近づく体のいい言い前に過ぎん」 

頼家が死んだ当時十二歳であった実朝に兄を殺すなどの謀を巡らすことなど不可能だし百歩譲って幼い実朝にそれを吹き込んだ者がいたとしても、容易く従うような単純さも愚かさも実朝にはない。見た目以上の強かさを持っているということを、朝盛は誰よりも知っていた。公暁だって実朝がそのような人間ではないことは直に関わっていたのだから大なり小なり知っているはずだ。なのに結末がこれとは、公暁自身も気づいていながら長らく抱いてきた恨みと憂いを改めて後戻りすることなどできないという思いに駆られていたのかもしれないと朝盛は禅問答のように考えていた。 

「もしや…気づいておられたのですか?」 
「互いに腹に抱えているものを曝け出しあってそれで幸になるのなら良いだろう。しかし常にそうとは限らないものだ。例え気づいていても知らないふりをして笑ってやるのも情けのうちよ」 

まだ若い主君が、穢れることを知らない為政者が、誰よりも己に向けられる好意にも害意にも人一倍敏感でありながらまるで気づいていないかのように振る舞うことに長けていることすら悟らせないその残酷な慰めが、一人の青年を駆り立てさせ終ぞ蛮勇に殺されてしまったのだ。――嗚呼、なんと哀れで優しい御方だ。ここまで美しい魂を持つ御方に一時でも仕えていたなど、私はなんと幸福者であろうか。 

全身が打ち震えて毛が粟立つような感覚を覚える。朝盛は歓喜していた。ただこの瞬間を己が内に刻みこもうと実朝の頚から上、かつて在った漆黒の双眸を夢想する。 

「それにしても兵の者たちは何をしていたのでしょう。主の傍にいながらみすみす死なせてしまうとは…呆れたものです」 
「まぁ、仕方ない。なんせあっと言う間のことだったから。いや、儂は『あっ』と声を出すこともなく殺されたが」 

渾身の冗句と言わんばかりに高らかに笑う実朝を見てそれがただの虚勢ではないことを感じ取った。過ぎたことを省みて悔いるのではなく、その一瞬一瞬のすべての物事を愉しむのがこの主君の気風だった。 

「しかし…ずっと思っていたのだ。お前は儂自身に憤っているのだと」 
「怒る?御所にですか?むしろ御所が私に怒るほうが自然でしょう」 
「お前にはつらい思いをさせてしまった。誰よりも儂に尽くしてくれたお前が和田の一族と板挟みになることを分かっていながら何もしてやることができなかった。それにあの時僧形のお前を無理やり呼んでしまったことも後悔しているのだ」 

おそらく、朝盛が義盛による謀反の企図の折に出家遁世し、結局連れ戻されてしまった後のことを言っているのだとすぐに気づいた。確かに朝盛は実朝に呼ばれて僧の姿のまま御所へ出向いた。顔を合わせた時は短く、朝盛自身も己の姿を見られることもどんな顔をして向き合えばいいのかわからず居た堪れない気持ちを抱いていたことしか覚えていないため何をしたかなど、終始実朝が穏やかな表情をしていたこと以外は二言、三言交わした内容すら忘れてしまった。実朝はあの場で朝盛を罵っていてもなんらおかしくはない。地頭職補任の下文まで給わったのに放棄して断りも入れずに出家したのだから。実朝はさぞ腹を立てているだろうと覚悟して来てみれば、怒りの一つも顔に出ていないものだから朝盛は拍子抜けした。腹の中では怒っていたとしても、なぜそれを表に出さないのか。今くらい素直に伝えてほしいと切に思ったのだ。 

「儂のせいでお前にあのような目に遭わせてしまったうえ、現に今も…苦労をさせてしまっているようだからな」 
「あの時の御所は何も間違ったことはしていませんよ。あれで正しかったのですから。謀反のことも決めたのは祖父だし、逃げることを選択したのも私の独断ですから御所は何の関わりもありません」 

実朝が誤ったことをしたなどと思ったことは朝盛はこれまで一度もなかった。それだけは確かなことだった。しかし、今の有り様とこうして抱いている気持ちを清算するにはあまりに時がなさすぎる。 

「ですが今は別です。」 

実朝の顔を見て懐かしさと喜びを覚えてしまったのは事実だった。しかし同時にそう感じてしまったことを悔やんでいた。朝盛の意志は感情とは別のものであったからだ。 

「私はもう二度と会えないのだから貴方のことを忘れようとしていたのです。あの時のことを悔やんで、思い出しても苦しくなるだけならすべて忘れてしまった方が楽だと思っていました。それなのに、貴方は再び私の前に現れたりして、」 

朝盛は己がしていたことが"逃げ"でしかないことに気づいていた。それでもこれ以上過去に縋り続けていればまともに暮らすことは不可能だと思ったからそれを選んだ。なのにいざ顔を合わせればこれとは己の堪えのなさに笑ってしまいそうになった。 

「今になって私の前にそのような姿に現われられて忘れることなど、拒むことなどできますか」 

これまで夢に幾度も実朝を見た。いつも決まって過去のことでどれだけ執着しているのだと自嘲していた。きっと自分は一生実朝を忘れることはできないのだろうと思った。今はよくても、老いた頃に若き日に仕えていた主君のことをいまだに思っているなどきっと傍から見れば滑稽に写るだろうなど、場違いなことも考えた。 

「儂は思っていた以上にお前を苦しめていたようだな」 
「……情けないと思うでしょう」 
「そうは思わぬ。儂もお前にずっと会いたいと思っていたのだよ。お前はとっくに死んだものだと思っていたから。この奇妙な夢に感謝せねばならんな」 
「…夢、これはまことに夢なのでしょうか」 

実朝の言葉を聞いて朝盛はふと感じる。朝盛自身もこれは夢の中だと自然に感じた。しかしよく考えてみれば、目の前には今すでに死者となった実朝がいるのだ。首はあらず、束帯にはおびただしい血痕が白い首から緋色の単に向かってこびりついている。この光景を見て、もしかしたらこれはただの夢ではなく今ここにいる場所は冥土と現世の狭間なのではないかと思い立つ。もしそうならこのまま冥土へ向かうことも可能なのだろうか。今の朝盛は生きながら死んでいるのと同じ状態だった。体に目に見えない穴が空いていてそこから吸った空気も魂もやがて抜けていくような心地で日々過ごしていた。 

実朝の空いた"首"越しに靄で見えない向こうを垣間見る。 

「御所、私は実のところここが冥土だろうが現世だろうが、もしくはその境だろうが私はどうだっていいのですよ。今死んだとしても、もう悔いはないのです」 
「贅沢なことを言うのだな、お前は」 
「贅沢、ですか」 
「お前は儂と違って今こうして生きているのだぞ。なのに死んでも悔いはないなどあまりにも贅沢だ。儂はもっと生きたかった。やり残したことが沢山ある、叶えたい夢がある」 

実朝の声は朝盛にかつてないほどに心根を揺さぶらせた。今思えば実朝は己の野望を語ることはなかったと、朝盛は回顧した。それが生来の気質なのか、傍で睨みを聞かせている叔父のせいなのか、己が置かれている境遇のせいなのかはわからないがいつも胸裡を隠していた。実朝自身が決めたように見えることでも裏を返せば見えない糸で”どこか”と繋がっているようなものが常だった。いつだが朝盛は実朝のことを、どこか辺りを漂っている浮遊物のような印象を抱いたことがあった。簡単にまつろわぬ強かさと同時に儚さが共存するという矛盾しているとも言える側面を持っている。 

言いようによってはしがらみの少ない身かもしれないし、己を持っていないだけかもしれない。それでも朝盛は実朝に他の人間にはない”何か”を信じて付き従っていた。言葉でそれが何なのか説明することは当時はできなかったが、間違いなくこの方には”何か”があると直感していた。その”何か”がこれなんじゃないかと朝盛は思い至った。実朝は浮遊しているのではなく、ちゃんと地に足をつけて生きていた。その心根を他の誰にも知らせることなく、覚られることもなく生きていたのだ。朝盛は、やはり己はこの方が好きだと心の底から思った。 

「三郎、儂は思ったのだ。生きるとは夢を見ることなのではないかと」 
「夢を見ることですか」 
「儂は夢を見ることで望みを持てた。一度その心地よさを知ってしまえばもう夢も見ずに生きることなどできぬ」 
「…ずいぶん酔狂なことで」 
「笑うか?」 
「笑いはしませんよ。ただ…あなたらしいと思って」 

酔狂なことが実朝らしいと言えばそうだ。いかにも実朝の言いそうなことだと朝盛は思った。 

「では私も死ぬまでの玉響の生を夢を見て過ごすとしましょう」 

朝盛は息を吐いて見上げた。空にも似つかない鈍色の虚ろが広がっていてこの奥行の向こうに極楽があるのかと思う。 

「あなたが言うのですから夢を見て生きるのも悪くはないのでしょう」 

実朝のほうを見遣るとその出で立ちから何かを言いたげにしているのを感じ取った。 

「ご不満ですか」 
「儂からすると、お前は無謀なことを犯そうとしているように見える」 
「無謀ですか」 

「ただ激情に任せて蛮勇に身を窶し死んでいくことを儂は良しとは思わん。儂はお前には死んでほしくないと思っているのだ」 
「散り際を弁えることも生きる上で必要なのではないですか」 
「そうかもしれぬ。だが三郎、儂はお前に少しでも長く、どんなに惨めな姿になっても生きてほしい」 
「…残酷な人だな」 
「お前に生きることを諦めないでほしいだけだ」 
「それも御所の”夢”なのですか?」 
「そうかもしれぬ」 

朝盛は漏れ出るように笑みを浮かべた。朝盛が考えた”無謀”が何なのかを実朝は見抜いた。朝盛とてそれを実際に果たせるかどうかはわからなかった。もしこの先機会があればそれに乗るということだ。そしてその流れに身を任せて命運通りに死ぬということまで考えていた。なのに”生きることを諦めるな”と言われてしまってはただ面喰うしかなかった。それが夢だというのだから、どこまでも酔狂な夢だ。 

「では、そろそろ儂は行く」 
「もうですか」 
「伝えるべきことは伝えたのでな。先に行って儂はお前を待つことにする」 

実朝は歩を進めて朝盛の横を通り過ぎた。死んだ者とは思わぬ堂々とした足取りだった。 
数間離れたところで止まって振り返ると告げた。 

「お前はゆっくり来い」 

そう言い再び歩いていく。朝盛はその場で足に杭を打たれたかのように動かなかった。今生の別れだというのに悲壮感が足りないのは余生があっと言う間だからなのか、実朝の気質なのかはわからなかった。ただこの先の人生を心に従って生きても罰は下らないだろうと根拠のない感覚に駆り立てられた。 

「御所」 

朝盛は遠ざかっていく首のない背中を呼ぶ。実朝は振り返らなかった。 

「今度お会いする時までに首を見つけておいてくださいよ」 

見えずとも朝盛は遠くでにやりと笑われたのを感じた。 

 

 

 


目が覚めると明るい光が射し込んでいた。 
硬い茣蓙から体を起こして朝盛は辺りを見回した。外は静まり返っている。雪はもう止んでいるようだ。目の前にあるのは特にいつもと変わりのない簡素な陋屋で、奥行のある天井も鈍色の平原もない。朝盛の頭には先刻までのことが鮮明に刻まれていた。ただの夢かとも考えた。しかし、夢にしてはずいぶん明瞭なものだった。それに朝盛の胸裡には昨夜までは抱くことのなかったもので満ち足りていた。 
あれは夢か、現か。あの場で出会った実朝の幻影は真のものだったのか、今となっては知る由もない。とはいえ、朝盛にとってそれはあげつらうほどのものでもない。ただ覚えていることが重要だ。夢が、記憶ほどものを言わぬのと同じようなものなのだから。