さよならまぼろし

一次創作サイト

花伽藍と春風と初恋

 

まだ自分が手児奈だった頃、朧げな記憶の中にあの人はいた。
邸の庭先に植えてある桜の木の傍に佇んでいる姿がやけに脳裏に焼きついている。私はあの人の姿を見ると乳母の元から離れて一目散に駆け出した。拙い足取りをしながらも近寄ってくる私をあの人は戸惑いながらも腰を屈んで受け止めてくれた。抱き上げてくれた時のあの感触は今も忘れていない。あの人は背が高いから抱き上げられるとあっという間に桜が近くなった。先刻よりもうんと近くなったあの人の顔越しに褪紅色の花弁が風によって雨のように散っていく。下を覗き込めば落ちた花弁が溜まり場を作っていた。顔に落ちてくる花弁がかかるのが私はなぜか楽しくなってあの人の上で笑っていた。あの人は何かを話してくれたけど内容までは覚えてない。
もうずっと前のことだからもしかしたらあの人はこのことすら覚えていないかもしれない。それでも良かった。私はずっと覚えている。ただ美しかったあの光景を、己の中で美しいまま蓋をするのだ。

姿を見つけてばたばたと音を立てて駆け出した。いつも侍女たちに「音を立てて奔らないように」だとか「もっと品よくするように」だとか口酸っぱく言われているが今ばかりは構っていられなかった。あの人は足が早いし用向きが終わるとすぐ去ってしまうから姿を見つけたら即座に向かえ、という訓はここ一年で身につけたものだった。
管領殿!」
広い背中にそう呼びかけるとあの人は振り返った。名前を呼んで私を見てくれるこの瞬間が私はたまらなく好きだ。
「恵子殿、また奔られていましたな。もう手児ではないのですからいい加減慎ましさを身につけられよ」
振り返るなりにべもなく返されて思わず言葉を詰まらせた。几帳面な性格だから品のことに関してはことさらうるさい。
管領殿、と呼んだ青年の名は斯波義将。齢は三十ほどで自分との歳の差はふた周りほどある。若くして将軍の輔弼を行う管領を務める人だ。以前は将軍である兄の足利義満を父親代わりとして育てた細川頼之がその座に就いていたが、二年前の明けに起こった政変で失脚し入れ替わりで就いた。兄のことを幼少の頃からよく知っており、波長が合うのかその関係は良好で政の手腕も申し分ないため、幕政において大いに助けとなっているようだ。
性格としては理知的で誠実ではあるものの、いささか朴念仁が過ぎるところがあるというか口うるさいこともある。そういうところも好ましいと思ってはいるのだが。
「ごめんなさい。管領殿のお姿を見たら嬉しくなってしまって…」
「まことに貴方は昔から変わりませんな」
昔から、という言葉に嬉しくなった。自分が幼い頃のこともよく知っているため付き合いは長い。改めてそのことを口にされると成長をわかってくれているようでくすぐったさを感じてしまう。
「ああそうだ。管領殿、そろそろ桜が満開になる頃合よね。近衛の太閤殿の御屋敷にある桜が綺麗で評判って聞いたの。今度一緒に見に行かない?」
今日会ったら絶対に言おうと思っていたことをようやっと告げられた。近衛道嗣という公卿の住む邸にある桜が毎年美しく咲くという話を聞いたときから義将と一緒に見に行きたいと思っていたのだった。あの時から桜には特別な思い入れがあった。過ぎた時は二度と返ってこないけれど、またあの頃のようにともに桜を見たい。だからどうしても誘いたかったのだ。
「恵子殿、申し訳ありませんが私は執務がありますので生憎時間がとれません。それに近衛の太閤殿は室町殿と昵懇の仲ですから私より兄君に申される方がよいでしょう」
義将は恭しく断った。他意はなく、律儀に説明を入れているところが本当に義将らしいと思った。
「確かに兄上に頼んだ方が早いかもしれないけど私は管領殿と一緒に見に行きたいの。しかも忙しいって言ってもずっと仕事があるわけじゃないのでしょう?少しだけでもいいから来てくださらない?」
自分よりも上にある顔をじっと見つめて言う。昔よりは近づいたが相変わらず背丈の差は大きくある。自分をある種妹分のように思っている義将がこういった姿勢に弱いのはよく知っていた。現に義将は困ったような表情をしている。わがままを言って困らせているとはわかっていても引き下がる訳にはいかなかった。
「恵子殿…」
義将が何かを言いかけた時、妻戸の向こうから義将を呼ぶ声がした。声からするとどうやら兄のようだ。義将は声のした方に一瞬目線をやった後、此方へ振り向いた。
「恵子殿、申し訳ありません。呼ばれたので私はこれで。先程の話はまた致しましょう」
「あっ待って…」
呼び止めようとするも、義将は足早に去っていった。まるで話の続きをはぐらかしたようだった。
私はしばらくその場で立ち尽くして廊の向こうをただ眺めていた。    

 

 

あれからしばらく義将が戻って来るのを待ってみたものの、執務が長引いているのかなかなか姿を表さなかったため、しぶしぶ室町第から小川第に戻ってきていた。
簀子縁に腰かけて庭を眺めながら大きく溜め息をつく。義母の良子は「溜め息なんてしたら幸せが逃げていくからおやめなさいな」なんてよく言っているが、今ばかりはそんなこと考えていられなかった。
「先程から溜め息ばかりついているな。悩み事なら聞くぞ」
背後から突然声がして隣に唐菓子の盛られた高杯が置かれた。差し出したのは小川第でともに住む兄の満詮だった。
「兄上…」
「どうしたどうした。斯様な顔をしては愛らしゅう顔が台無しだぞ」
兄の優しさに思わず涙が出てきそうになって堪える。満詮は「まあ食え」と言って高杯を寄せてきた。言葉に甘えて唐菓子を一つ手に取って口に放り込む。咀嚼すれば甘葛の汁が口の中に広がってあっという間に幸福感に満たされる。
「そなたは美味いものを食ったときまことに嬉しそうな顔をするから沢山食わせてやりたくなる」
満詮はふわりと人好きのする笑顔で言った。義満とは兄弟にしては一見顔立ちが異なるが笑うと如実に似ているところが現れると思う。恐らく自分は大して二人には似ていないだろう。
二人の兄は同母兄弟だが、自分は母が違う。父は嬰児だった頃に亡くなったので顔はまったく知らない。母は父の侍女で目をかけられて妻となったが、自分を産んでまもなく亡くなったので父と同じくどんな人なのかまったく知らない。両親とも亡くした自分を引き取って我が子同然に育ててくれたのが兄たちの母である良子で今もこうして小川第でともに暮らしている。
良子は己が産んだ子ではない自分を疎むことなく接してくれていて、自分の義将への好意を目にしても特に嫌がる様子はなかった。武家の娘なのだからいつかは他家に嫁がなければいけない。良子にはきっと嫁ぐまで立派に育て上げないといけないという意識があるのだろう。嫁入り前の娘が既婚の男に恋慕しているとなれば大いに差し障りとなる可能性があるというのに彼女は何も言わない。そういうところが逆に気を遣わせてしまっているんじゃないかと思うことも多々あった。 
しばらく黙っているのを見て満詮は話を己から振ろうと言を切った。
「して、今日は御所へ行ってきたのだろう?何かあったのか」
満詮は庭先の池に目をやった。春の穏やかな風で草木がそよぐ音と鳥の鳴き声以外はほとんど何も聴こえない。
今日御所であったことを順に話す。義将に近衛邸の桜を見に行くことを誘ったこと、それで断られたこと。話しながら思い出してしまって少々気分が滅入りそうにもなかったがなんとか話し終えると、ずっと黙っていた満詮が一言呟いた。
「恵子は、管領殿のことがまことに好きなのだな」
思ってもいなかった返答に戸惑う。
「それは私の口から直に"はい"とは言えないけれど…」
「何だ。いつも正直に何でも口に出してるくせにこういうことは恥ずかしがるのか」
満詮は愉快そうに言った。恥ずかしくて直接口に出せはしないが、たぶんその問いに"はい"としか答えようはないだろうと思う。
「でも管領殿は私のこと好きじゃないと思うんです。私は管領殿よりずっと歳下の小娘でしかもとうに結婚していて…妹というよりもしかしたら子どもとしか思われてないかもしれない」
もうずっと前から気づいていることだった。自分の若さ故に、立場故に相手にされないということを。この思いが遂げられることは確実に無いということを。
「私は妻になることは無理かもしれないけど出来るだけ長くあの方の傍にいたいの」
「切実だな」
満詮は一言返した。その声色には憐憫の情より、励ましの意が強いような気がした。
「こんなこと言ったらまた室町の兄上になにか言われるかもね」
「前から散々『あんな無愛想な男のどこがいいんだ?』だの『勝手に補正して見えてるんじゃないのか』だの言いたい放題だったからな」
「本当にね。でも、小川の兄上は私の言うこと茶化したり笑ったりしないから好きよ」
「まあ、可愛い妹の言うことは何でも聞いてやりたくなるからなあ」
義満のほうは義将をよく知ってるからなのか、性格ゆえなのか義将のことで何か言うたび茶々を入れてくるのが常だった。一方、満詮は義満とはうってかわり真剣に話を聞いてくれる。同じ兄でもここまで反応が違うのかと驚きさえする。
「ねえ、兄上」
「ん?」
満詮は数の減った唐菓子の載った杯をゆっくりと手繰り寄せた。
「私、管領殿と一緒になれないなら尼になるわ」
その言葉に満詮は下にやっていた目線を上げて此方へ向いた。その目はわずかに驚きがあった。
「だって他の人の妻になんてなりたくないもの。そうなるくらいだったら誰のものにもならないまま一生を終えるわ」
厳然とした様子に満詮はどこか思い惑うように口を開いた。
「…恵子、兄としては妹が"一緒になれないなら死ぬ"なんて言い出さなくて良かったとしか言いようがないな」
満詮は困ったように笑った。相変わらず思ってもいない返しをする兄に自分もつられて笑ってしまうのだった。