さよならまぼろし

一次創作サイト

紫翠 / 嘘つきは振り返らない

 振り返ってみれば自分たち兄弟の間柄は健全と呼べるものではなかった。
弟は悪くない。不健全にしてしまったのは他でもなく自分である。初めから歪ませたくて歪ませたわけではない。正しさを求めて選んだものが後から悪手だったことに気づくことはそう少なくはない。
私の弟、経嗣は幼い頃から聡明な童だった。教えられたことはすぐに吸収し新たな知識を得ようとする探究心が強い。それが生まれついての素質といっても誤りではないように思う。しかし感受性が強いところもあり、それゆえに人一倍他者から向けられるものに敏感でもあった。
お互い母を同じくする兄弟ではあるが経嗣は一条の家に養子に入ったため共に同じ場所で育ってきたわけではない。一条家の当主であった経通、房経親子が相次いで逝去したため父の良基が経通の息子と偽って自分の息子を養子に送り出したのだ。
離れて暮らしていたとはいえ決して多くは無い頻度で顔を合わせることもあったためか兄弟であるという実感をわかせるのに難しくはなかった。歳が近いこともあって打ち解けやすかったし、なにより経嗣は自分にとって都合のいい存在だった。従順で素直で純粋で多少騙したり意地の悪いことをしても反抗してこなかった。つまり承認欲求を満たすのに丁度良かった。今からすれば兄の風上にも置けないようなことをしていたが、まあしょせんこの年頃の童幼などそんなものである。
で、兄の特権を使って何かにつけて優越感に浸りたかった私だが弟を大切に思う気持ちは紛れの無いものだった。経嗣が困っているなら力になりたいし、苦しんでいるなら助けてやりたい。そういった肉親なら当然持ち合わせる類の感情をちゃんと持っていた。今思えばそれが間違いだったのかもしれない。
忘れもしないあの日、私と経嗣は邸の庭を目付け役の女房たちを連れだってに歩いていた。童らしく仲良く手を繋いだりして。経嗣はいつものように意気揚々と楽しそうに歩いていたが次第に萎れるように元気が無くなっていった。
「どうした、どこか痛いのか?」
私が腰をかがめて顔を覗きこむと経嗣は今にも泣きそうなほど顔を曇らせていた。
「兄上。兄上は、もうすぐおとなになるのですか?」
悄然としている経嗣が伺いを立てるように訊ねてきた。この時、もうすぐ元服だという時期だった。元服すれば大人の仲間入り、それまで無かった位や官職を与えられ内裏にも上がることとなる。これまでとは生活も変わることになる。
「そうだな。大人になって父上たちと同じように働くこととなる」
「おとなになったらもう私とは遊んでくれなくなるのですか?」
「今までのように多く来ることは出来ぬかもしれないが…また時を見つけて来るからまた遊んでやろう」
「ほんとうですか?」
なおも不安そうに訊ねる経嗣を安心させるために「ああ」と答えると私の思惑とは裏腹に素の双眸には涙が溜まっていた。「さみしい」と一言呟くと頬に一筋の線が流れた。
「わたしも早くおとなになりたい。置いていかれるのはいやだ。兄上といっしょにおとなになりたい」
経嗣の目から大粒の涙が溢れだしてくる。泣く姿は久しぶりに見た。昔から聞き分けが良くてほとんど泣かず、あまり周りの大人の手を煩わせることのない子どもだった。
その様子を見て女房たちが慌てて近寄る。なんとか慰撫しようとするもなおも潺湲と泣き続ける経嗣に女房たちはさらに慌てた。私は泣きながらも相変わらず離そうとはしない経嗣の手を見てあることを思い返していた。
これより少し前のことだ。元服が近いということもあってか私は父から改めて話をされた。
「跡目には師良がいるがこの先何が起きるかわからぬ。そなたも次期の二条を担っていく者としての自覚を忘れぬように」
父は真剣に、どこまでも誠実に私を見据えて言った。普段とはまた違う父の姿に思わず改まってしまい、そわそわするような気持ちで「はい父上」と返事したのを覚えている。
「そして、”あいつ”のことだが」
名を出さずとも”あいつ”が誰を指しているかすぐにわかった。何の感情も読み取れない目で父は淡々と言った。
「あれは一条を背負う者。一条を再興することは我が二条を盛り立てることにも繋がる。あいつが道を踏み外すことの無いよう兄として鑑として教え導くように」
父の言ったことがすべてだった。一条に養子に出したのも二条の家のためだ。そのために一条の者になったのだから経嗣はじきに当主となる。そして、経嗣に最も身近な兄である私がその鑑、手本となるということだ。ああ、なんと遠まわしな。
「いついかなる時も”正しく”あれ。弟は常に兄であるそなたのことを見ているぞ」
言葉が鐘の音のように響いた。私はただ深く頷いた。”正しく”あるというその命に従うために。
そうだ、私は兄なのだから弟を、経嗣を正しい方に導かなければならない。堕落してしまわないように守らなければならない。それが、正しい、あるべき姿なのだから。
「そう遠くない日にお前もおとなになれる。それまで少しの辛抱だ」
「でも兄上だけ先におとなになってわたしがなれなかったらひとりぼっちです。ひとりは嫌です。ひとりだとべんきょうも遊びもできないんです。べんきょうができなかったら父上に嫌われてしまいます」
経嗣がこんなに置いていかれることを、ひとりになることを嫌うのはただ幼いからというだけではなく環境がそうさせてしまったんじゃないかと思った。
父が一条に養子入りさせるとき、多少強引な手を使ったと聞いたことがある。そのせいで外聞が決して良いとは言えず陰で経嗣のことも含めて謗る者は少なくない。経嗣もそういった己に向けられる悪意や敵意を感じ取ってしまったのだろう。だから不安な気持ちも強いのだ。
私は繋いでいた手はそのままに経嗣に近寄って目線を合わせた。
「お前には私がいるからひとりじゃないよ。何があっても私がお前をひとりにしない」
「…ほんとうに?」
「ほんとうだ。一緒におとなになることはできないけど、お前がほんとうにおとなになったら私を支えてくれ。だからそれまでに強くなるんだ」
「つよくなったらずっと兄上といっしょにいれる?」
「ああ、一緒だ。お前が困ったときには助けてやるし、つらいときには守ってやるから」
そう言うと経嗣は笑って「うん」と返事をした。目は充血していたが涙はすっかり止まり、女房たちも安堵したようだった。それからまた私たちはしっかりと手を繋いで庭を歩いていった。
ここまではよかった。それから先はもう、思い出したくもない。もしこれが草子の中の物語ならその場で紙を破って作者に抗議の文を送り付けてやるくらい憤慨するだろうが、これは作り話ではないので感情を誰にぶつけることもできない。
あのようなことになるなんて一体誰が思うだろう。思えるはずがない。あの約束をした時にはこんな未来が訪れるなど露も考えなかった。
当代の将軍は、とても恐ろしい。いかに恐ろしいかは到底語りつくせないほどだ。その存在を一言で表すとすれば”嵐だろう。しかも春の嵐だ。穏やかな季節にどこからともなくやって来てあっと言う間に荒らし、過ぎ去った後には元の土壌など跡形もない。あの男が通った後にはぺんぺん草すら生えない有り様だ。”先例がない”という錦の旗のもと、先例をめちゃくちゃにされた。ここまで手に負えない惨状をどうすればいいかもわからない状況だ。
自分はまだいい。あの男からの被害は個人的には少ないし何よりそこまで”気に入られていない”。しかし、弟は違った。
「経嗣」
内裏に出仕した際、経嗣と行き合った。数日ぶりに姿を見かけて声をかければ振り向いたその顔は幾分か様相が変わっていた。私も経嗣も元服してとうに十数年経ち、当然だが容姿もずいぶん変わった。あの頃は微かも見られなかった疲れの色が垣間見えるとなんともやりきれない気持ちになるのは肉親ゆえなのか。
「ああ、これは。兄上、」
「そなた顔がずいぶんと疲れているが…どうした」
「いやまあ色々ありまして…」
「左府か」
若干声を落として言うと経嗣は眉宇をやや動かして「はい」とだけ答えた。生白く、以前よりも痩せたかのように見えるその顔は明らかに威勢があるとは言えなかった。
「本当にあの方には困ったものです。私がどれだけ説得しようがすべて突っぱねられるのですから。もう反抗することにも疲れてしまいました」
経嗣は笑いながらもその中には疲弊が滲んでいた。
あの男と経嗣は”合っている”。似たような性格をしているとか気が合うとかそういう意味ではない。むしろ”同じ”ではなく”違う”からこそ相性が合わせやすい。性格という欠片の形が違うからこそ合致する形を見つけられれば上手く欠片同士を嵌め込むことができる。経嗣はあの男に”気に入られてしまった”のだ。
父は経嗣のことを「気が弱い」と評していることがあったが、その気の弱さをあの男は利用しているところがある。そういう変えることが難しい生得的なものを弱点として突いて従順に飼い慣らそうとしている。私はそういう部分を卑劣と思わざるをえない。
しかし、私はこんな状況になってもまだ経嗣を救えないでいる。あの時言ったことを無効にしたつもりはなかったがいまだに経嗣を助けたこともなければ守ったこともない。
むしろ経嗣が従順であるからこそ自分が安泰でいられるところもあるので”守られている”のが正しい。なぜこうなった?あの男が現れたから?あの男に逆らったら自分の立場が危うい。私にだって家がある、家族がいる、他に守らなければいけないものがたくさんある。それを十年以上前に交わした口約束のために、弟のためだけに棒に触れというのか?そんな言い訳じみた言葉がいくつも浮かんでくる。
どうせ昔のことなのだ、経嗣も童の頃の戯れだと思っているかとっくに忘れているだろう。そうでなければ私はただの口だけの嘘つき野郎になる。
「この後も一旦自分の邸に戻ってから左府の邸に行くんです。次の朝儀の次第を早く伝えろって急かされてて…本当に人使いが荒くて嫌になりますよ」
「そうか」
「でも私も顔では大人しくしてますけど内心では『この野郎!』っていつも文句言ってるんですけどね。お前に何言われたって私には兄上がついてくれるから怖くないぞって思って我慢してて…」
経嗣の言葉に私は耳の奥で金切りのような音が響くのを感じた。ある種の、警鐘。
「経嗣、それはまさか」
「兄上、もしや覚えておられるのですか?とっくに忘れられたかと思っておりました。兄上が元服する少し前に私に『お前が困ったときには助けてやる、つらいときには守ってやる』と言ってくださった言葉をずっと糧にしてきたのですよ」
あああああああああああああああああああああああああああ
ここまで思い返して今すぐ廊に出て叫びながら走りたいほどの衝動に駆られている。その時も頭の中をめちゃくちゃに掻き毟られているような心地だったのをよく覚えている。
人は本当に衝撃を受けた時、鈍器で頭を殴られたような感覚になるのではなく鑿で頭蓋をごりごりと削られていくかのような感覚になるのだと知ったのもこの時だ。
私はこの時に過去の自分が吐いた言葉で、弟によって掘り返されて嘘つき野郎となった。人生が日記ならあの時の記憶を墨で思いきり塗り潰してやれるのに。
しょせん童が言ったことだと高をくくっていたのは自分のほうだったのだ。経嗣は私が言った言葉を誠実に受け止めたまま成長し、今もなおそれを覚えている。それを理不尽や困難に打ち勝つための糧にしてしまっている。私の中でのあの記憶は今となってはただの記憶で指で擦ったみたいに滲んで滲んでもうすぐ読めなくなってしまいそうなのに、経嗣は滲むどころかはっきりと覚えていた。
恐ろしい、実に末恐ろしいことだ。なにが恐ろしいのかって?すべてだ。
経嗣は本当に愚かだと思う。みなに都合のいいように利用されている。父もあの男も、そして自分も。一番愚かなのは自分だ。愚かにしてしまった張本人でありながらそれを気づかせることなく隠してそれが”正しい”ように見せかけているのだから。経嗣はその醜い姿の”正しさ”を今日まで信じ込んで生きてきたのだ。愚かであることこの上ない。あの後はどうやって別れて帰ってきたか記憶がない。感情の整理がいまだに出来ていない。再び経嗣と何事も無かったように顔を合わせられたとしても恐らく私は内心では罪悪と欺瞞でいっぱいだろう。私はあなたをこの先も一生守れません、あの時は嘘つきましたごめんなさいと思いながら生きていくというのだろうか。あの時交した情愛(純粋だけとは言いがたいが)による約束を反故にして取るに足らない悪辣な所業で上書きしてしまっていいのだろうか。
やはり私は最後まで兄でいたい。鑑であることは無理でも、今さら正しくなれなかったとしても命尽きるまで経嗣の兄でありたいと思う。そのために出来ることに何があるかはちょっとよくわからないがこれから探していくことにする。と、今後この記録が続くことを願ってここで筆を置くことにしよう。恐惶謹言。