さよならまぼろし

一次創作サイト

酔生の夢

 

 辺り一面は銀世界だった。 
見渡す限り雪に埋め尽くされ、草の緑も土の茶もすべて喪ったような余白が広がっている。 
夜中には雨が降っていたが明け方ごろに雪へと変わったのだろうなと考えながら青年はがたがたと建付けの悪い戸を閉じながらその新雪の上へ足を踏み入れた。 

隙間から冷たい風が吹き抜け、天井からは幾つか雨漏りしているような有り様のこの陋屋だがどうやら雪にはなんとか耐えられているようだった。とはいえ、屋根に並々と雪が乗っているので後で雪おろしをしなければ重みに耐えられなくなって今にも壊れそうである。中でぐうたらと寝ている叔父を叩き起してやるかと思いながら男は茅屋に背を向け歩き出した。 
ここに来て幾分か経つがようやくこの生活に慣れてきていた。以前とはあまりにも違いすぎる暮らしぶりではあったが慣れてしまえばどうということはなかった。 
変わらないものなど存在しない。すべてのものは移りゆき、いずれ跡形もなく消えてしまう。変化から逃れ、宿命に抗うことなど不可能なのだからただ受け入れることに気を注げば良いのだ。決して望んだ行く末ではなかったがどうせ生きているのだからと考えて、男はそれ以上悔やむことも憤ることも憂うこともしなかった。 

雪道を暫し歩いていると銀色の一本道の端に黒いものが倒れているの視界に映った。 
最初は寒さに行き倒れた行者かと思ったが次第に近づいていき、その黒い衣を間近で見るとあるものが男の脳裏に過ぎった。まさか、と思った。しかし、すぐにそんなはずはないと即座に頭かぶりを振る。 
目の前までくると黒い衣をまとった男であることがわかった。衣は汚れてはいるものの上等なものであることがわかる。関わる必要もないのだから見て見ぬふりをして立ち去ればいいだけのことなのに男はそうすることができなかった。その場に膝を着いて衣に触れた。艶があって触り心地が良い。輪無唐草の文様といい、絹のような生地といい、男の見立て通り衣の正体は"束帯"だった。 

なぜこんなところに束帯を着た男が倒れているのかは見当もつかない。それなりの身分ではあることは間違いないが近くに貴人の邸があるわけでもないのに雪道で行き倒れているとはどういうことなのか。ただ謎ばかりが脳内で渦巻いた。 
男はその時気がついた。束帯の色と雪を被っているため気づくのに遅れたが束帯には明らかに雪とは違うもので濡れていた。それが"血"であることを触れていた手のひらを見て初めて知ると男は顔を顰めた。 
束帯を着た貴人が雪道に倒れているだけで尋常ではないが血という要素が加わったことでますます要領を得ない状況に拍車がかかる。 

とりあえず息をしているか確かめようと顔を覗き込むと心の臓がどくんと鳴るのがわかった。拍動が速くなる。警鐘が鳴っているかのように拍動は次第に速くなる。一瞬呼吸を忘れ、時が止まったかのように音が消えた。衝撃を受けるというのはこういうことを言うのかと感じた。 
そんなはずはない、そんなことはあってはならない、違ってくれと願う男の思いは虚しく、そこにあるのは正真正銘の"それ"だった。 
顔にかかっている雪を払って青白い肌に触れる。冷たいがわずかに体温を感じる。 

─────生きているようだ。 
生きていることに喜ぶべきか、がっかりするべきか。男は己は昔と比べて変わってしまったと思っていた。しかし違った。未だにこんなことを考えてしまうなど、己がいかに過去に囚われているか思い知る。 

「御所……」 

己の声はこんなに弱々しかったかと考える。目の前に本人がいるのに呼び声は空々しく雪面に散った。 
すると突然その声に呼応するかのように貴人の瞼が開いた。闇夜に蠢く蟲のようにぎょろっとした瞳が男を捉える。先刻まで思い描いていたものからは程遠く異様で醜悪な姿に男は何を発することもなく腰を抜かした。泥濘にある重石をひっくり返して見た時と同じ肌が粟立つ感覚が全身を駆け巡る。貴人の針金のような指が動いてゆっくりと男に近づいた。 

男はようやく気付いた。これが何なのか。己は何を見ているのか。そう思った時に貴人の唇が言葉を紡ぐように開閉した。声にはならなかった。それどころか何の音も存在していないかのように無音だった。気づいたら、辺り一面の白がすべてを呑み込んでいた。 

 


*


寒い寒い冬の日の夜のことだった。 
いつもと違うことと言えば、昨日よりうんと増して風が冷たく、大雪が降ったことだ。 
夕方から降った雪は積もり明け方までやみそうにもない。 
草臥れた衣を手繰り寄せて貧相な塒でせめてもの寒さを凌ごうと男は背を丸める。 
手足はすらっと長く、以前に比べ肉が少ないが元々白かった肌はさらに血色が悪く生白い。顔立ちも端整ではあったが生気が薄く、年相応の健康さがすっかり抜けているような風袋であった。 
男はかつて貴々しい将軍家に仕える臣だった。かつての名は和田三郎朝盛という。 
武勇に秀で、歌を詠む才にも長けていたため同年代である君からの寵愛を一身に受けていた。 
主君への忠誠を忘れない寵臣だった。しかしそれが朝盛の誇りであったが故にそれは思わぬ形で仇となった。祖父が謀反を起こしたのだ。一族の意志に叛いて見捨てることも、主君に弓引くこともできなかった。結果、頭を剃って遁世しようとしたが祖父が孫の武勇を惜しんで息子に命じて無理やり連れ戻させた。そうして朝盛は望まない一族が起こした戦に身を投じることとなったが、結局首謀者である祖父は討死、生き残った数少ない他の一族の者たちとともに落ち延びたのだ。辿り着いたのは安房国だった。落ち延びた時は他に数人いたが離れ離れになったり、死んだりしたこともあって今所在を知っている一族の者は叔父である義秀のみだった。 

実の父はすでに死んでいる。他の者が言うには落ち延びる際に自害したとのことだった。あの絶望的な状況の中で生きて逃げ出せただけでも稀有なことだ。生きている者はたとえ二度と会うことはなくとも息災であってくれと願うばかりだった。 
共に暮らしている義秀に関しては朝盛にとって悩みの種でもあった。義秀は一日中寝ていることがあった。別段働くわけでもなく寝てばかりで、たまに思いついたようにふらふらと外へ行くだけだ。以前の叔父との驚くほどの変わりように強い言葉で諫めることもできずただ自堕落とした姿を眺めるだけであった。 

ただもう一つ朝盛を悩ませることがあった。義秀はいまだ朝盛のことを”三郎”と呼ぶのだ。朝盛は出家した身であるため”実阿弥陀仏”と名乗っていたが、義秀は呼び方に迷ったのか以前と変わらず三郎の名で呼び続けている。遁世に失敗していることもあり、寺に入ったわけでもない。今も念仏を唱えるのではなく近くに住む者の仕事をたすけたり、畑仕事をしながら慎ましく暮らしていた。頭も今は長らく剃っていないため、髪が伸び切ってしまっている。とても僧侶と呼べるような出で立ちではなく朝盛自身も己をいまだ俗世に身を置いているのか、はたまた俗世を断ち切ったのか判断がついていなかった。それにその名で呼ばれるとなぜか決まってかつての主君を思い出した。とっくの昔に今世の別れを果たしたというのに、呼ばれるたびに胸の内に寂しさが蟠るのはいまだに己が俗世にしがみついている証なんだろうと痛感させられる。何年経とうが思い出し、あの方を夢に見てしまう。 

———源実朝。それが三郎を俗世に縛り付けているかつての主君の名だった。 

名が頭に浮かんで朝盛は慌てて頭を振った。もう二度と会えない人間のことを思ったところで得られるものは何もない。思い出がある?一体それになんの意味があるのか。徒に追憶して胸が蝕まれるような思いをするくらいなら忘れたほうがずっといい。 

そう思っていたはずなのに、三郎は最近になってますます実朝に関するおかしな夢を見るようになった。昨夜見た夢はいっそう奇異だったと思い返した。 

雪道で束帯を着た男が倒れている。気になって近づいてみれば三郎はその男を実朝だと直感した。しかしその男が目を覚ますと明らかに実朝とは違う様相を呈していた。いったいなぜあんな夢を見てしまったのか。己は自覚しているよりもずっと強くかつての記憶に執着しているというのかと三郎は眉間に皺を寄せた。 

往時渺茫としてすべて夢に似たりという。今思うとあの時のことは夢の中のことだったのではないかと感じる。過ぎてみれば儚く形にすら残らない。形に残らないものをいったい誰が真に在ったと言えるというのか。生きていることすら夢に酔っているかのように頼りなく、脆く、煩わしい。この夢を見ることは藁に縋り続けることと等しく、ただ一時の悦楽に身を任せているに過ぎない。 

もう済んだことだ。死んだ人間だと思ってしまえばなんてことはない。あの方と一瞬でも交わっていた線を自らの手で断ち切ったのだ。一度壊してしまったものをおいそれと修復するなんてことは不可能だ。それが自然だ。自然に逆らう気はない。せいぜい人ひとりが生きるのに窮屈な現世に折に触れて毒を吐き捨てながら、天命が訪れるその時まで全うするまでだ。 

びゅうと隙間風が入り込んできたのを感じて体を震わせた。もう床につく頃合いだと紙燭に手を伸ばす。 

―――その時、体の内を奇妙な感覚が走った。これまでにない、言いようのない感覚だった。同時に鐘をついたような音も聴こえた。朝盛は一瞬近くの寺からした音かと思ったが耳に入ってきたのではなく、頭の中で直接響いたようなものであった。朝盛は直感で何かを知らせる警鐘なのではないかと感じた。確かなことはなにも分からないがただ漠然とそう考えたのだ。 

そうこうしているうちに奇妙な感覚はすっかり消え、鐘の音が再び聴こえることはなかった。ただ残る寂寞に気のせいかと思いながらやや居心地の悪さを抱えながらも冷たい茣蓙に横になる。風は止み、外ではただ雪がしんしんと降り注いでいた。 

 

 

気がつくと朝盛は歩いていた。辺りがうっすらとぼんやりした靄の中をただどこへ向かうわけでもなく、何を目的にするわけでもなく歩いていた。 
――噫、ここは何処だろうか。そんな疑問が頭の中に浮かびながらも、足を止めることなくひたすら歩く。己自身では行先を知らないのに無意識というか、体が勝手に動いているようだった。 
——私はどこへ向かっているのだ。この先には何かあるのか。誰かいるのか。もし誰ぞいるのならあの方に—— 

「三郎!」 

不意に名を呼ばれ、朝盛は瞠目した。そして自分が無意識のうちに”あの方”に会いたがっていたことを認めた。そしてこれが現ではなく夢であることにも確信した。 

――これは夢だ。夢に決まっている。そうじゃなきゃこんなことは起こりえない。それにしても何でこんな夢を見てしまうんだ私は…… 
色んな思いが朝盛の中で交錯する。頭では拒まなければならないと思っているのにそれとは裏腹に体は自然と動いてしまう。これ以上己を制することはできなかった。 
目の前にいる人物が誰なのか認識するのにそう時は要さなかった。わかってしまうのだ。出で立ちで、声で、佇まいで嫌でもわかってしまう。かつて当たり前のように常に傍にあったものがそこにあるのだ。思い出さずにはいられない。 

「御所……」 

ようやく絞り出した声はうんと掠れていた。己の声はこんなに弱々しかっただろうかと三郎は思った。 

「三郎、儂がわかるか?」 
「わかる、わかるに決まってるではありませんか…」 
「まことか。嬉しいぞ。今斯様な姿であるのに…」 

――このような、”首がない”というのに。 

改めて目の前に広がる光景を言葉にされて朝盛は喉元が締め付けられるような感覚に襲われた。目の前に立つ人物には首が”ない”。つまり首から上、顔がない。顔がなければ誰かとわからないものだと普通は思うだろう。しかし朝盛は顔がなくとも瞬時にそれが”源実朝”だと、かつての敬愛する主君だとわかった。 

「御所、一つ疑問なのですが口がないのにどうやってしやべっているのですか?」 
「よくわからぬ。まあ目もないのになぜかはっきりと見えるしな。まぁこうしてお前を見て、お前と話せているのだからありがたいことか」 

ははは!と愉快そうに笑う実朝に朝盛は自身も自然と口角が上がるのを感じた。実朝が笑う姿はまるで以前と変わっておらず、昔に戻ったかのように錯覚した。 

「三郎、久しぶりだな。昔に比べて痩せ細っているが折角の見目が台無しだぞ」 
「あれから様々あったのです。こうもなりましょう。御所のほうは…なぜそのような御姿なのかと訊いても宜しいですか?」 

己のことを濁すような言い方となってしまったが、それよりも先に気になることもあるからだ。当の本人が朗らかな様子だったとしても状況としては尋常ではない。首のないかつての主君と夢の中で談笑するという明らかに普通ではない――言い方を変えれば気味が悪いとも言える――状況に何も触れずにいるというのは不可能だった。 

「殺された」 
「…何者に?」 
公暁だ」 
公暁公暁というと甥御の…」 

実朝の兄であり前将軍である頼家の遺児が公暁なのだが、つまり実朝は自らの甥の手によって落命したということであった。朝盛が知る限り公暁は出家して京へ修行に行ったはずだ。その公暁によって殺されたということは自身が鎌倉を去った後に帰ってきたということかと推測した。 

公暁殿がそのような強行に出たのは将軍の地位のため、ですか」 

朝盛の言葉に——首がないのであくまで想像上の光景だが――実朝は目を丸くして、軈て観念したように頭を振った。その様子は、驚いているような微笑んでいるような、もしくはわずかに寂しさを滲ませたような何ともいえないものだった。まさか、これ以上ないほどおかしな夢を見たと思えばさらにそれを凌駕するようなことが起こるとはこの世はわからないものだ。 

「その可能性は高いな」 
「御所を弑すれば空いた座に己が収まれると思ったのでしょう」 
前将軍の子なのだから、出家した身とはいえ将軍に相応しいのは己だと思うのも無理はなかった。 
「それだけではないかもしれぬ。兄上を殺して将軍の座を奪ったのは儂だと考えていることもある」 
公暁殿は御所の猶子でもあるではないですか」 
「向こうからすればそんなものはもはや形骸よ。儂に近づく体のいい言い前に過ぎん」 

頼家が死んだ当時十二歳であった実朝に兄を殺すなどの謀を巡らすことなど不可能だし百歩譲って幼い実朝にそれを吹き込んだ者がいたとしても、容易く従うような単純さも愚かさも実朝にはない。見た目以上の強かさを持っているということを、朝盛は誰よりも知っていた。公暁だって実朝がそのような人間ではないことは直に関わっていたのだから大なり小なり知っているはずだ。なのに結末がこれとは、公暁自身も気づいていながら長らく抱いてきた恨みと憂いを改めて後戻りすることなどできないという思いに駆られていたのかもしれないと朝盛は禅問答のように考えていた。 

「もしや…気づいておられたのですか?」 
「互いに腹に抱えているものを曝け出しあってそれで幸になるのなら良いだろう。しかし常にそうとは限らないものだ。例え気づいていても知らないふりをして笑ってやるのも情けのうちよ」 

まだ若い主君が、穢れることを知らない為政者が、誰よりも己に向けられる好意にも害意にも人一倍敏感でありながらまるで気づいていないかのように振る舞うことに長けていることすら悟らせないその残酷な慰めが、一人の青年を駆り立てさせ終ぞ蛮勇に殺されてしまったのだ。――嗚呼、なんと哀れで優しい御方だ。ここまで美しい魂を持つ御方に一時でも仕えていたなど、私はなんと幸福者であろうか。 

全身が打ち震えて毛が粟立つような感覚を覚える。朝盛は歓喜していた。ただこの瞬間を己が内に刻みこもうと実朝の頚から上、かつて在った漆黒の双眸を夢想する。 

「それにしても兵の者たちは何をしていたのでしょう。主の傍にいながらみすみす死なせてしまうとは…呆れたものです」 
「まぁ、仕方ない。なんせあっと言う間のことだったから。いや、儂は『あっ』と声を出すこともなく殺されたが」 

渾身の冗句と言わんばかりに高らかに笑う実朝を見てそれがただの虚勢ではないことを感じ取った。過ぎたことを省みて悔いるのではなく、その一瞬一瞬のすべての物事を愉しむのがこの主君の気風だった。 

「しかし…ずっと思っていたのだ。お前は儂自身に憤っているのだと」 
「怒る?御所にですか?むしろ御所が私に怒るほうが自然でしょう」 
「お前にはつらい思いをさせてしまった。誰よりも儂に尽くしてくれたお前が和田の一族と板挟みになることを分かっていながら何もしてやることができなかった。それにあの時僧形のお前を無理やり呼んでしまったことも後悔しているのだ」 

おそらく、朝盛が義盛による謀反の企図の折に出家遁世し、結局連れ戻されてしまった後のことを言っているのだとすぐに気づいた。確かに朝盛は実朝に呼ばれて僧の姿のまま御所へ出向いた。顔を合わせた時は短く、朝盛自身も己の姿を見られることもどんな顔をして向き合えばいいのかわからず居た堪れない気持ちを抱いていたことしか覚えていないため何をしたかなど、終始実朝が穏やかな表情をしていたこと以外は二言、三言交わした内容すら忘れてしまった。実朝はあの場で朝盛を罵っていてもなんらおかしくはない。地頭職補任の下文まで給わったのに放棄して断りも入れずに出家したのだから。実朝はさぞ腹を立てているだろうと覚悟して来てみれば、怒りの一つも顔に出ていないものだから朝盛は拍子抜けした。腹の中では怒っていたとしても、なぜそれを表に出さないのか。今くらい素直に伝えてほしいと切に思ったのだ。 

「儂のせいでお前にあのような目に遭わせてしまったうえ、現に今も…苦労をさせてしまっているようだからな」 
「あの時の御所は何も間違ったことはしていませんよ。あれで正しかったのですから。謀反のことも決めたのは祖父だし、逃げることを選択したのも私の独断ですから御所は何の関わりもありません」 

実朝が誤ったことをしたなどと思ったことは朝盛はこれまで一度もなかった。それだけは確かなことだった。しかし、今の有り様とこうして抱いている気持ちを清算するにはあまりに時がなさすぎる。 

「ですが今は別です。」 

実朝の顔を見て懐かしさと喜びを覚えてしまったのは事実だった。しかし同時にそう感じてしまったことを悔やんでいた。朝盛の意志は感情とは別のものであったからだ。 

「私はもう二度と会えないのだから貴方のことを忘れようとしていたのです。あの時のことを悔やんで、思い出しても苦しくなるだけならすべて忘れてしまった方が楽だと思っていました。それなのに、貴方は再び私の前に現れたりして、」 

朝盛は己がしていたことが"逃げ"でしかないことに気づいていた。それでもこれ以上過去に縋り続けていればまともに暮らすことは不可能だと思ったからそれを選んだ。なのにいざ顔を合わせればこれとは己の堪えのなさに笑ってしまいそうになった。 

「今になって私の前にそのような姿に現われられて忘れることなど、拒むことなどできますか」 

これまで夢に幾度も実朝を見た。いつも決まって過去のことでどれだけ執着しているのだと自嘲していた。きっと自分は一生実朝を忘れることはできないのだろうと思った。今はよくても、老いた頃に若き日に仕えていた主君のことをいまだに思っているなどきっと傍から見れば滑稽に写るだろうなど、場違いなことも考えた。 

「儂は思っていた以上にお前を苦しめていたようだな」 
「……情けないと思うでしょう」 
「そうは思わぬ。儂もお前にずっと会いたいと思っていたのだよ。お前はとっくに死んだものだと思っていたから。この奇妙な夢に感謝せねばならんな」 
「…夢、これはまことに夢なのでしょうか」 

実朝の言葉を聞いて朝盛はふと感じる。朝盛自身もこれは夢の中だと自然に感じた。しかしよく考えてみれば、目の前には今すでに死者となった実朝がいるのだ。首はあらず、束帯にはおびただしい血痕が白い首から緋色の単に向かってこびりついている。この光景を見て、もしかしたらこれはただの夢ではなく今ここにいる場所は冥土と現世の狭間なのではないかと思い立つ。もしそうならこのまま冥土へ向かうことも可能なのだろうか。今の朝盛は生きながら死んでいるのと同じ状態だった。体に目に見えない穴が空いていてそこから吸った空気も魂もやがて抜けていくような心地で日々過ごしていた。 

実朝の空いた"首"越しに靄で見えない向こうを垣間見る。 

「御所、私は実のところここが冥土だろうが現世だろうが、もしくはその境だろうが私はどうだっていいのですよ。今死んだとしても、もう悔いはないのです」 
「贅沢なことを言うのだな、お前は」 
「贅沢、ですか」 
「お前は儂と違って今こうして生きているのだぞ。なのに死んでも悔いはないなどあまりにも贅沢だ。儂はもっと生きたかった。やり残したことが沢山ある、叶えたい夢がある」 

実朝の声は朝盛にかつてないほどに心根を揺さぶらせた。今思えば実朝は己の野望を語ることはなかったと、朝盛は回顧した。それが生来の気質なのか、傍で睨みを聞かせている叔父のせいなのか、己が置かれている境遇のせいなのかはわからないがいつも胸裡を隠していた。実朝自身が決めたように見えることでも裏を返せば見えない糸で”どこか”と繋がっているようなものが常だった。いつだが朝盛は実朝のことを、どこか辺りを漂っている浮遊物のような印象を抱いたことがあった。簡単にまつろわぬ強かさと同時に儚さが共存するという矛盾しているとも言える側面を持っている。 

言いようによってはしがらみの少ない身かもしれないし、己を持っていないだけかもしれない。それでも朝盛は実朝に他の人間にはない”何か”を信じて付き従っていた。言葉でそれが何なのか説明することは当時はできなかったが、間違いなくこの方には”何か”があると直感していた。その”何か”がこれなんじゃないかと朝盛は思い至った。実朝は浮遊しているのではなく、ちゃんと地に足をつけて生きていた。その心根を他の誰にも知らせることなく、覚られることもなく生きていたのだ。朝盛は、やはり己はこの方が好きだと心の底から思った。 

「三郎、儂は思ったのだ。生きるとは夢を見ることなのではないかと」 
「夢を見ることですか」 
「儂は夢を見ることで望みを持てた。一度その心地よさを知ってしまえばもう夢も見ずに生きることなどできぬ」 
「…ずいぶん酔狂なことで」 
「笑うか?」 
「笑いはしませんよ。ただ…あなたらしいと思って」 

酔狂なことが実朝らしいと言えばそうだ。いかにも実朝の言いそうなことだと朝盛は思った。 

「では私も死ぬまでの玉響の生を夢を見て過ごすとしましょう」 

朝盛は息を吐いて見上げた。空にも似つかない鈍色の虚ろが広がっていてこの奥行の向こうに極楽があるのかと思う。 

「あなたが言うのですから夢を見て生きるのも悪くはないのでしょう」 

実朝のほうを見遣るとその出で立ちから何かを言いたげにしているのを感じ取った。 

「ご不満ですか」 
「儂からすると、お前は無謀なことを犯そうとしているように見える」 
「無謀ですか」 

「ただ激情に任せて蛮勇に身を窶し死んでいくことを儂は良しとは思わん。儂はお前には死んでほしくないと思っているのだ」 
「散り際を弁えることも生きる上で必要なのではないですか」 
「そうかもしれぬ。だが三郎、儂はお前に少しでも長く、どんなに惨めな姿になっても生きてほしい」 
「…残酷な人だな」 
「お前に生きることを諦めないでほしいだけだ」 
「それも御所の”夢”なのですか?」 
「そうかもしれぬ」 

朝盛は漏れ出るように笑みを浮かべた。朝盛が考えた”無謀”が何なのかを実朝は見抜いた。朝盛とてそれを実際に果たせるかどうかはわからなかった。もしこの先機会があればそれに乗るということだ。そしてその流れに身を任せて命運通りに死ぬということまで考えていた。なのに”生きることを諦めるな”と言われてしまってはただ面喰うしかなかった。それが夢だというのだから、どこまでも酔狂な夢だ。 

「では、そろそろ儂は行く」 
「もうですか」 
「伝えるべきことは伝えたのでな。先に行って儂はお前を待つことにする」 

実朝は歩を進めて朝盛の横を通り過ぎた。死んだ者とは思わぬ堂々とした足取りだった。 
数間離れたところで止まって振り返ると告げた。 

「お前はゆっくり来い」 

そう言い再び歩いていく。朝盛はその場で足に杭を打たれたかのように動かなかった。今生の別れだというのに悲壮感が足りないのは余生があっと言う間だからなのか、実朝の気質なのかはわからなかった。ただこの先の人生を心に従って生きても罰は下らないだろうと根拠のない感覚に駆り立てられた。 

「御所」 

朝盛は遠ざかっていく首のない背中を呼ぶ。実朝は振り返らなかった。 

「今度お会いする時までに首を見つけておいてくださいよ」 

見えずとも朝盛は遠くでにやりと笑われたのを感じた。 

 

 

 


目が覚めると明るい光が射し込んでいた。 
硬い茣蓙から体を起こして朝盛は辺りを見回した。外は静まり返っている。雪はもう止んでいるようだ。目の前にあるのは特にいつもと変わりのない簡素な陋屋で、奥行のある天井も鈍色の平原もない。朝盛の頭には先刻までのことが鮮明に刻まれていた。ただの夢かとも考えた。しかし、夢にしてはずいぶん明瞭なものだった。それに朝盛の胸裡には昨夜までは抱くことのなかったもので満ち足りていた。 
あれは夢か、現か。あの場で出会った実朝の幻影は真のものだったのか、今となっては知る由もない。とはいえ、朝盛にとってそれはあげつらうほどのものでもない。ただ覚えていることが重要だ。夢が、記憶ほどものを言わぬのと同じようなものなのだから。