四
夕方になり、満詮は兄のいる三条坊門の御所に入った。
昼頃まで激しい雨が降り、一旦止んだが暫くしたのちに再び驟雨が降った。雨が止むのを待って再び降り出さないのを確認して武者小路の小川第を出たのだった。
煌々と道を照らす夕陽は美しく、これを見ることができるため馬の脚を取る泥濘を除けば雨上がりの外出は嫌いではなかった。
通された間でしばらく待っているとやがて義満がやって来た。
「お前が斯様な時間に来るとは珍しいな」
「ええまあ、私も来たくはなかったのですが行かないと後が怖いものですから」
満詮はあっけらかんとした口調で言った。臆せず物を言うところは一つ間違えれば相手の勘気を蒙ってしまいかねないが不思議と満詮にはそういう気にはならない雰囲気があった。
「どうせまた母上だろう」
「お見事、よくわかりましたね」
「わざわざお前が来て伝える用件などたいがい検討がつくからな」
「わかっているならお会いしてあげればいいのに」
「余もそう頻繁に会えるほど暇ではない。母上もわかっているだろうに」
満詮がわざわざこの時間に伝えに来た用件というのは生母の良子のことだった。
義満は長く良子と離れてくらしているのだが、良子は親心ながら息子のことを甚く気にかけていた。そこで二人の架け橋となるのが満詮であった。小川第で良子とともに暮らしている満詮は義満と顔を合わせる機会も多いため、逐一義満の様子について聞いてきたり義満に小川第に来るように伝えてほしいと頼んだり、時には己の方から御所へ会いに行くと言ったりと少々手のかかることが多々あった。
「もう余も童ではないと言うのに。なぜそんなに気になるのかわからん」
「親というのは子がいくつになっても心配なものなのですよ」
「なぜお前にわかる?」
「さあ?なんとなくです」
当たり障りのない応酬に義満は眉間を押さえた。満詮が適当な物言いをするのはこれに限ったことではないのだが、無駄に説得力を感じてしまうから困る。
「母上も大方殿や細川局殿にたまにお会いしているんだからそれで十分かと思うのですが」
「お前からも言って聞かせれば良いではないか」
「母上が言って聞く性分だったら私は今ここに来ていませんよ」
満詮の言い分に言い返すことも出来ず義満は押し黙ってしまった。他の人間ならばこんなことはないのに、満詮を相手に話をするとどうしても雰囲気に取り込まれてしまいそうになることがあった。
「そういえば武州にも会って話をしたいとも言っていましたが」
「際現ないではないか」
「だから困るんですよ。あ、でも暫くは無理でしょうね。”あのこと”が落ち着くまでは」
満詮の言葉で義満の眉がぴくりと動いた。まさに”思い出さないようにしていたことを思い出してしまった”と言わんばかりの顔をしていた。
その悩みの種というのは、今月に起きたばかりの越中守護代と国人勢力の武力衝突のことだった。所領における問題というのはいわく単純なものではない。しかも荘園を燼滅させられたとなればさらに収めるのが困難となる。斯波と細川が一触即発で周りの大名もそれに乗っかろうとしているという風聞は義満の耳にも入って来ていた。恐らく満詮も知っている。義満からすれば合戦など起こされるのはたまったものではないし、何としても鎮静させなければならない。よくもこんな厄介なことを引き起こしてくれたなと胸の内で悪態をついた。
「兄上も大変ですね。こんな面倒事の尻拭いをさせられて」
「まったくだ。世の中頭の足りん莫迦ばかりよ」
「ですがここまでやってのけられるのは兄上だからでしょうな。私には到底斯様なことはできませぬ」
「何じゃ、藪から棒に。わざとらしく言いおって」
「思ったことを言ったまでです。日々将軍の務めを果たしている兄上はかくや立派なのかと感心しているのですよ」
満詮の柔和な笑みが夕陽に照らされ赤く染まった。思えば、性格は正反対ではあるが同じ母から産まれた兄弟あってか己らは顔はわりと似ているのではなかろうか。円やかな輪郭に垂れ目と一見すると穏やかそうな顔立ちだが義満は周知の如く真逆の気質だ。対する満詮は概ね似ているものの、少し眉がきりりと上がっていて目も大きい。義満よりわずかに凛々しい顔立ちのため、満詮の容姿に心惹かれる女も少なくなかった。
満詮の性格は言ってしまえば人畜無害である。別の言い方をすれば、行雲流水、気宇壮大、春風駘蕩。穏やかな性格で感情を表に出すことがあまりなく、昔に比べれば話すようになったが口数が決して多いわけでもなく、何を考えているのかわからないところがあった。感情を表に出さない男は義将もそうだが、満詮は義将とは違って相手に威圧を与えるところはない。義将に比べるとかなり心象をよく持たれるだろう。
だが、たからといってお人良しだとか阿呆というわけでもない。むしろ何を考えているのか分からないからこそ兄である義満でさえ恐ろしく感じることがあった。罠があろうがかかったと相手に思い込ませておいていつのまにかいなしているようなところがある。まさに”柳に風”といったところだ。
「兄上」
いつのまにか義満は満詮の顔を見つめていたのか、満詮は訝しげに見つめ返してきた。
「私の顔を妬んでも、何にもなりませんよ」
「何の話だ」
満詮はむふむふと笑って自信満々に言った。
「私が美男だから妬んでいるのでしょう」
「何だそれは」
「だってずいぶん私の顔を見ていたから」
「…まあそういうことにしておいてやる」
前言撤回。お人好しではないかもしれないが阿呆ではあるようだ。
「そういうこととはどういうことですか。放下著ですよ放下著。執着を捨ててなにものにも囚われずに生きるのが一番です」
「お前は実に能天気でいいな」
「どういう意味です?」
執着を捨てる、か。
義満は満詮の言葉を反芻した。義満自身はできるだけ考えないようにしていたが、諍いの火種となる可能性がありがら弟を出家させるという案を跳ね除けて手許に置こうとするのも、そんな気を起こさせないように従順にさせようとするのも結局己が弟に執着しているからではないかと思った。
そのわけは、幼き日に見た赤子の姿のせいか、それとも道誉から説かれた言葉のせいか。それともそのどちらでもないのかは今となってはわからない。
(…まぁ、もうどうでもいいか)
どうせ弟を縛ることができるのは己だけなのだから。この何ものにも囚われることのなさそうな男が悩むこととなればそれもまた見物かと思うのは兄として是か非はもはや及ばなかった。
満詮は夕陽に照らされる己の兄の顔を見た。よく中身は似ていないと言われるが、顔立ちはわりと似ているのではないかと思っていた。改めて見てやはりそうだと感じた。
兄に似ているところがあるのだと思うと満詮は嬉しくなった。兄は高潔な人だ。いつも堂々としていて、己が決めたことなら周りが何といおうが構わず突き通す。そんな兄のことを中には不遜だとか尊大だとか言う人間もいるのだろうと思った。だが、それでも満詮は兄のことが好きだった。
『乙若様。兄は鑑ぞ。何があろうと兄を敬い支え、尽くすのです。きっと春王様が大きくなり大君となった後もこの方に従って間違いはないでしょうから』
満詮は何度目か分からない言葉を回顧した。あの時の己はとても幼く、言った本人の顔ですらあやふやなほど他の記憶はまともに覚えていなかったのになぜかこの言葉だけははっきりと覚えていた。昔はほとんど言葉を発することもない引っ込み思案な童だったが、あの時何かを言おうとして結局何も言えなかった記憶がある。
いつも兄に苛められて泣いていたが思い出せばあれ以来それも止まった。兄も言葉をかけられていたから同じようになにか感銘を受けたのかもしれない。
あの言葉は自然と己の中に刻み込まれ、無意識のうちにこの通りに生きていたように感じる。
兄は実に立派な方だ。己が兄の立場でなくて良かったと心から思える。己どころか、他の誰にもできないことを兄は成し遂げることができるだろうから。己はというと、面倒を嫌って出来る限り労力を使わないことを選択して生きる性分だ。だからそういう考えた方は兄とは決定的に違うが、それでも傍にいて持てる力で支えていきたいとは思う。
満詮は義満の考えていることをわずかだが感じ取っていた。己が何かあれば手強い仇となってしまう可能性がある故に飼い慣らそうとしているのではないかと考えたことがある。
それもよいだろう。どんな形であれ兄から与えられるものは甘んじて受け入れる。それが満詮の生き方だった。
(…兄上、私は気楽ではありますが能天気ではありませんよ)
伝えたいことを声にも出さず満詮はただ胸の裡に留めた。夏のうら寂しい晩光はすぐそこまで訪れていた。