さよならまぼろし

一次創作サイト

かしましい手

 

 ぬるりとした湿り気が指に伝わってくるのを感じて経嗣は思わず片目を瞑った。
意識しなければまるで蛞蝓が指を這いずり回っているかのようだった。舌が皮膚に触れるたびぞわぞわとした感覚が背中から腰にかけて走るせいでややもすると出そうになる声をなんとか堪えた。
そもそも現に今の状況からして普通ではない。己が武家の男に指を舐められているなど、このようなことになるとは誰が思おうか。当の男​───義満は目を細め、時に瞑ってなにかを慈しむように指の付け根から節にかけて舌を這わせていた。
斯様なことをしていったい何の意味があるのか。経嗣は次第に居た堪れなくなったように義満から目線を外した。
そもそもこの男の言動は些か常軌を発したものが多い。もとは公卿に昇進した義満の礼節の師を経嗣の父である良基が務めたことから関わりが生まれたのだった。二条家の生まれでありながら一条家の養子となってなおも経嗣は良基から目をかけられていた。経嗣にとってそれは至極光栄で純粋に喜びを感じるものだった。
しかし、父が師となったことで関わりが増えて久しいが若き足利の棟梁のことは内心思うところがよくあった。一に人遣いが荒く、二に尊大で、三に距離が近い。一と二はもう今さらどうすることのできないものとしてまだ諦めがつくのでいい。しかし、三については経嗣にも許容できないことがあった。折に触れて意味もなく肩を寄せてきたり、項に顔を近づけたり、背後から抱き竦められたりとそれはもう色んなことをされた。行動の一つ一つが経嗣には理解が及ばす聞いたとて実のある返事は返ってこない。
​────室町殿は一条の当主を甚く気に入っているらしい、と公卿の間で囁かれていることを知った時は思わず目眩がした。人の噂というものは広まるのはあっというまだ。一条と二条の家名と位格を貶めるようなことだけは何としても阻止しなければならないと注力していたが思わぬ汚点であった。良基には其方は左府に気に入られているのだから喜ばしいことだと言われたが経嗣は素直に喜べるような心境ではなかった。
ああ、本当にこの男は私に何を求めているというのか。
経嗣は心底不可解そうな顔で義満を眺めた。いつまでこうしたままでいるつもりなのだろうかと思っていると、義満はようやっと指を離した。こういうふとした時に見せる表情は普段とはうって変わって、とてもあの尊大な振る舞いと地続きとは思えないものを滲ませる。足下すらままならない朝霞のように茫洋とした目とかち合って経嗣は些か擽ったさを覚えた。
「たいそう長くされていましたが私の指は斯様に気に入りました」
経嗣がなけなしの皮肉を込めてそう言うと義満は「ふむ」と頷いた。
「気に入った」
「それはそれは。私の指は味でもしましたか」
「いや、味はせんかった」
「では何が…」
義満は口の端を吊り上げて言った。
「其方の反応だ」
義満の思いがけない言葉に経嗣は「はっ?」と素っ頓狂な声をあげた。
「其方、余が舐めている時何度か声を出そうになっているのを堪えていただろう」
義満の言葉に経嗣は顔が熱くなるのを感じた。
​─────なぜわかったのか。絶対わかってないだろうと思っていたのに。
「舐めるたびに体がびくびくと反応して面白かったのう。いや、やはり其方の反応は実に愉快で揶揄いたくなるものだな」
「…………」
「なんならもう一度やるか?今度は違うところを、」
「も、もう二度とやりませぬ!」
ついぞ堪えられなくなった経嗣は急いでその場を辞した。ほんの一瞬でもわかるほど耳まで赤くさせながら逃げるように去った経嗣の背中を見つめて義満はひとりほくそ笑んだ。
「まことに揶揄いがいのある男だな」
その声はとうの本人に届くこともなく空に消えた。どうやら、経嗣が解放される日はそう近くはないらしい。