さよならまぼろし

一次創作サイト

千日紅が咲く季節には 1

「おじいちゃんの若い時の写真?」

扇風機を「強」に設定し、うるさいモーター音とともに風を顔に受けていれば台所からそんな声が聞こえてきた。一人で扇風機を占領して回転する羽根をぼうっと眺めていたので話の脈絡が分からないが先程の声は妹のものだ。台所のテーブルに祖父と母と妹と叔母が群がっているのが見える。テーブルの上には色褪せて年季の入ったアルバムが何冊か置いてある。おそらく祖父のアルバムなのだろう。妹たちが目を輝かせながら楽しそうに眺めている。

扇風機を「中」に設定するとモーター音が少し小さくなった。左の縁側からは蝉のけたましい鳴き声が、右の台所からは楽しそうな話し声が、と何とも賑やかな有り様でおもわず溜め息が出る。本来なら今年はここに来るつもりはなかった。大学受験を控えている受験生にとって夏休みとは天王山となる時期なのに、あろうことが貴重な勉強時間を草毟りにあてられるとは思いもしてなかった。一週間前に突然母から祖父の家に行かないかと誘われた。

祖父の家は実家から車で一時間ほどのところにある。頑なに拒否したものの「たった一日でも来てほしい」と食い下がる母にこちらがしぶしぶ譲歩するかたちとなってしまった。そしていざ来てみれば暫し休憩した後庭の草むしりをさせられる羽目となった。受験生とはいえせっかくの盆なのだし一日くらい休んだら?という母の言葉も体のいい言い訳で結局のところこれがさせたかったのだろう。数時間前まで草木で生い茂って鬱蒼としていた庭もすっかり見通しがよくなり、心地よい夏の気色が広がっている。

毟り取った草の残穢が挟まった爪の隙間を見つめながらこの後は涼しいところで数ページほど残っている数学の課題でもやるかと考えていると、どたどたと足音をさせながら妹が「啓太にいちゃん!見て!」と言いながら隣にやってくる。手にはB5サイズほどの紙が握られている。たぶん祖父のアルバムから引っ張り出してきた写真だろう。

「兄ちゃん見てよ。おじいちゃんの若い頃の写真!イケメンでしょ?」

妹――香織が意気揚々と写真を見せてくる。海軍の略装に身を包んだ数十人の青年が並んでおり、背景に海が見えるのと甲板に立っていることが確認できることから海軍だということが分かる。香織が写真前列左に立っている男性を指さす。変色して黄ばんでいるが顔ははっきりと見える。「これじいちゃん?」と香織に尋ねると「そう!」と誇らしげに返された。指さした男性は面長で鼻筋が通った顔立ちをしている。目も大きく開かれていて彫りが深いので周りの者と明らかに違った雰囲気を醸し出していた。台所で母たちと一緒にアルバムを眺めている祖父に目をやった。今の祖父は皺だらけで愛嬌のある顔をしているが、若い時はこんなに美男だったとはまさか思いもしなかった。

「確かにイケメンだな。」

「でしょ?おじいちゃんがこんなに格好良かったなんてびっくりだよね。」

「これどこから出してきたんだよ」

「蔵整理してたら見つけたんだってー」

香織の間延びした返事を聞いて再び写真に目を落とした。ぼんやり眺めていると若かりし頃の祖父の右隣に立っている青年に目がいった。祖父よりも頭一つぶん背が高く祖父のようなはっきりとした顔立ちではないものの、どこか惹きつけられる。その青年を見つめていると香織も同じものに目がいったらしく覗き込んでくる。

「あっ!隣にいる人も格好良い!」

我が妹ながら見目の良い男には目敏く反応する奴である。香織が大好きな男性アイドルとは明らかに違うタイプの男なのに美形であれば反応してしまうミーハー気質である。香織の声に台所にいる祖父がこちらに目を向けた。

「隣にいる男...もしかして志木か?」

「えっ知ってるの?」

祖父の言葉に驚いて聞き返す。立ち上がって台所にいる祖父に写真を見せた。するとやはり、と言ったような顔で頷いた。

「やはり志木だ。志木敏郎。懐かしいな。駆逐艦に着任して間もない頃あいつといつも一緒だった。」

懐かしそうに回顧する祖父---大介はすでに齢90を超えていながら今も健在だ。これまでいくつか病歴はあるものの足を悪くしていることを除けば至って普通の生活を送っている。祖父の昔の話は少し聞いたことがあるが、19のとき召集令状がきて海軍の駆逐艦乗組員として出征したらしい。終戦の数か月前に駆逐艦が撃沈されなんとか命拾いして療養先の病院でそのまま終戦を迎えたという。その後は召集前に美術系の専門学校に通っていたこともあって美術商としてギャラリーを経営していた。母は祖父の子の五人兄弟の末っ子であるためかなり歳が離れている。

「志木は同期で同じ分隊の通信士で、故郷が近いから話が合った。よく一緒に烹炊所から食糧をギンバイしてたもんだ。いやぁ、懐かしい。」

祖父は昔を懐かしむようにやんわりと笑っている。真一文字に細められた目からは写真の中にある端正な青年と同一人物だという要素が全くなくて何だか不思議な気分になった。

「その志木さんって人どうなったの?終戦まで生きてた?」

いつのまにか隣に来ていた香織が祖父に尋ねた。すると祖父はしばし考えるような顔をして答えた。

「どうだろうなぁ...終戦の数か月前に乗っていた艦が撃沈されたんだが、志木がどうなったかは覚えてなくてなぁ...こっちに帰って連絡手段もないしどこに居るかも知らんかったから生きているかも分からんでなぁ」

祖父が残念そうに眉を下げて答えると香織は「ふーん」と返してそれ以上は何も言わなかった。ただじっと志木敏郎の顔を見つめ続ける。何故だかこの青年が気になってしまうのだ。アルバムを片付けるために香織に写真を取り上げられた後もずっとあの青年の顔が目に焼き付いていた。

 

自由への渇望 4

 ヴァレンタインの指示で教官が位置についたのを見て、フリストフォールとジェイコブは銘々間合いを取った。フリストフォールは少し離れたところに屹立しているジェイコブを見据えた。錆色の鋭い瞳がフリストフォールを捉える。視線が合ったその一瞬で体が縛り付けられたかのように”重く”なったのを感じた。ジェイコブの周囲だけではない、訓練場すべての空気が彼によって作り替えられたようだった。

空気に飲み込まれそうになって、フリストフォールは咄嗟にその気概を振り払った。流されているようでは駄目だと、そう己に言い聞かせて剣を構えた。飲み込まれるくらいなら飲みこんでやれと、左足で地面を踏みしめ、思いきり空気を吸い込んだ。

「———始め!」

その一声と同時にフリストフォールが駆け出した途端、眼前に一閃が過った。それが何なのかと考える暇もなく気配が”背後に”移動したことに気づいた。それを認知したその瞬間すでに目の前に”ジェイコブの姿はなく”、其処にあるのは虚空のみだった。フリストフォールが慌てて体勢を立て直そうとした時、一閃がフリストフォールの頚筋を捉えた。

金属ががなり立てるように交じり合う。寸前のところで切っ先を防ぐことができたが、未だ鼓膜に残る鋭い音と、腕に伝わる衝撃で筋肉が軋む感覚が残っていた。そして、次に訪れる攻撃を迎える暇もなく先刻の衝撃で跳ね返されたジェイコブは針のように一定の体幹で体を支えた。

――その瞬間のことはまるでコマ送りのようにゆっくりで、なお且つ鮮明に脳髄に焼きついた。ジェイコブは軽やかな動作で一回転すると重心を低くし、瞬時に前方に飛び出した。フリストフォールは傀儡(マリオネット)のようだと思った。糸で操られているように緩慢なのに、驚くほど俊敏だ。再び耳許で鋭いが玲瓏にはほど遠い音がすると、フリストフォールの頚筋にはジェイコブの剣先が触れそうになっていた。

フリストフォールはどうにか必死に剣で防ごうとするが、今この拮抗している状態からほんの少しでも力量差が生まれれば、勝敗はもう火を見るよりも明らかだった。両腕とも悲鳴を上げ、耳鳴りと脂汗が止まらない。途轍もない圧をかけられているこの剣から逃れるのは今の己には到底無理だと、フリストフォールは逼迫した状況の中で思考がいやに冷え切っていくのを感じた。フリストフォールは眼前にあるヤコブの瞳を盗み見る。先刻までは冷めたような錆色が熱を持って違う色に変化しているように見えた。その瞳はあまりにも犀利で、断乎としてお前をこの剣で馘首してやるという気概で満ちていた。気のせいだと言ってしまえばそれまでだが、感情の無いはずのこの”塑像”は今たしかに見せかけの殺意を滲ませていた。

しかし、フリストフォールは勝機はまだ完全に喪っていないと確信していた。この塑像が狙っている場所はすでに分かっている。かなり押されている状況ではあるものの、どうにかして隙を突いてこの剣をどかしてやれば、そこから一気に畳みかけることは可能だと考える。一瞬だ。一瞬の判断が雌雄を決す。一片の隙もないこの塑像にも何か必ず隙が生まれるはずだと、だからその隙を作る一撃を与えなければならないとフリストフォールは熱の上がった脳で思惟する。その一撃を与えるタイミングは見誤ってはいけない。速く、確実に突くには適する時を待たなければいけない。これで勝利へ近づくことができると、静かにほくそ笑んだ瞬間、その時はすぐに来た。ジェイコブの筋肉が動くのを感じた。腕をわずかに緩めたことに気づいたその瞬間に、フリストフォールは両腕に力を込めた。すでに玄関間近だったがそれも構わず前腕を駆動して、二本の剣を振り上げるとフリストフォールはすぐに己の剣を引き抜いて、照準を合わせた。狙うところは何処でもよかった。どうせ当たるならどこでも良いと、腕を伸ばした時、再び気配が動いたのを感じ取った。体勢を崩したジェイコブが片足で重心を支え、瞬く間に飛び出した。そんな無茶な動きをすれば体に負担がかかるのではないかという考えなど無視していとも容易くその肢体を操った。

フリストフォールの脳が危険信号を出したその時に視界の端で見えたのは鋭い錆色だった。

「あっ…まっ、う”あ”ぁ”っ!?」

がんっ、とヤコブの足がフリストフォールの足首の上を捉えた。ジェイコブがフリストフォールに与えた痛恨の一撃は見事に脛に炸裂したのだった。

その攻撃をまともに喰らったフリストフォールは初めて味わう激痛に顔面を歪め、その場に倒れ込んだ。

「勝負あり、だな」

ヤコブの足許で蹲り痛みに悶え苦しんでいる”敗者”に、その上でただ恬然としている唖の”勝者”にヴァレンタインと教官は目を見合わせて笑った。

「私たちから見れば勝敗はさもありなん、という感じだったがなかなか面白い物を見せてもらったよ」

愉快気に笑いながら近づいてくる憎たらしい傍観者に、フリストフォールは蹲りながら顔だけ動かして睨みつけた。

「やぁ、大丈夫かい?通常の人間より痛覚を感じにくい妖魅のきみでもそんなに痛がっているということは、ジェイコブが喰らわせたローキックは相当の威力だったようだね。いやぁ、まったく恐ろしいな。想像するのも恐ろしいよ」

想像するも何も目の前にそれを喰らった者がいるというのに何を言うか、と言いたげにフリストフォールはなお痛みの引かない足をひきずりながら上体を起こす。

「…まぁ、ずいぶんと優秀なホログラムを開発したもんだな」

「ああ!自分でもそう思うよ!そう言ってもらえると感激の至りだね」

皮肉のつもりで言った言葉はヴァレンタインにはまったく効かずフリストフォールは肩を落とした。もうこの男には何も言うまいと口を噤むのだった。

「それにしてもどうだったか、ジェイコブとの手合いは。自分の実力不足を身に沁みて感じられただろう?」

ヴァレンタインの言葉に頭が痛くなったがその通りだとフリストフォールは思う。想像以上の俊敏さと判断力、臨機応変な対処能力などすべてにおいてフリストフォールの上をいっていた。隙を突いて一本取ってやろうという思惑はジェイコブには筒抜けだった上、予測していた狙いどころも外れて思いもよらない場所(しかもがら空きだった)を当てられるとは考えていなかったせいで醜態を晒すこととなった。ジェイコブから見ればフリストフォールはいくら身体能力に優れていようが、技術は嬰児同然だ。この剣士は、あまりにも玄妙で怜悧だとそう確信した。

「まぁ、でも修練相手としてはこれ以上ない相手だろう。きみを陶冶させ、真の力を引き出してくれるにちがいないよ」

そう言ってヴァレンタインはフリストフォールの肩に手を載せた。顔は笑っているが、真意は読み取れない。

「あくまでも焦らずに、気長に鍛えるんだ」

その言葉で隣にいる錆色がわずかに光を孕んで揺らめいた。

 

自由への渇望 3

 或る日、訓練闘技場に現れたのは意外にもヴァレンタインだった。

いつものように教官の指導の下、訓練していればいつもと変わらない様子で突然やって来たのでフリストフォールは少しばかり驚いた。

ヴァレンタインの表情とわざわざこの場に足を運んだということは何か要件があるのだろうと思いはしたが、確信は得られない。

「やあ、訓練はどうだい。順調かな」

広大な訓練場にヴァレンタインの声が反響する。フリストフォールはヴァレンタインの白衣の白と壁の大理石の白が混ざって、そこに意識が引きつけられるのを感じた。雪花石膏(アラバスター)の冷たく硬い感覚が戻って来るまで、数秒ヴァレンタインの顔を見つめていた。ヴァレンタインが訝しげな顔をしていたので、はっと我に帰ったがその後も妙な感覚が残っていた。フリストフォールは普段居るはずのない場にヴァレンタインがいたせいだと己を納得させることにした。

「順調だ」

「そうだと思ったよ。だったらこれから更なるステップアップをしよう。強化訓練を始めるぞ」

フリストフォールはヒサノの言っていた言葉が出てきたので瞠目させたが、すぐに納得したような表情をした。ヒサノの言っていた通り、ヴァレンタインが前もって事を伝えないということを肌で感じたのでフリストフォール自身は納得するのと同時に失笑する。

「その反応、誰かから知らされていたな」

フリストフォールを見て、ヴァレンタインはへらっと笑う。

「このことを前もって聞かされていて正解だった。貴方は重要なことでも事前に知らせようとしないから、強化訓練のことを聞かされていなかった時の気分を考えると気が滅入るな」

「結果的に知らされていたのだから良かったじゃないか」

のらりくらりと躱すヴァレンタインにフリストフォールはもはや呆れることすらせず、溜め息をついた。特別悪いことだとも思っておらず反省する気もないのだろう。巧く言い包められたようでフリストフォールは気分が良くなかった。

「ソテルはマルム人と対峙するために如何なる事態にも臨機応変に動かなければならない。もちろん、戦闘の時もだ。鍛錬不足だったというのは言い訳にもならない。妖魅であるなら尚のことだ。ソテルに最も重要な素質は三つ。機動性、敏捷性、技巧性だ。

マルム人は人間よりも遥かに逃げ足が速い。その上動きも俊敏だ。追いつけなければ話にもならない。もし追いつけたとしても、討伐できるほどの技倆が無いのなら意味がない。この三つがどれほど重要かはこれで分かっただろう?」

「それは分かるが、その三つだけじゃないんだろう?他のものも含めて全てのことを均しく出来なければ意味はないのだろう」

「それはそうだが、この三つは鍛錬すれば上達が目に見えて分かる。そうすれば

ソテルとしての質も格段に上がる。どれか一つだけ特化しているだけでも、じゅうぶん強みにもなるしな」

そう言いながらヴァレンタインは除に白衣の内ポケットから拳大の白い箱を取り出した。ヴァレンタインがその箱を前方に向けて何かを押すと、閃光が走った。その箱から照射された光が届いた場所に光彩の粒子が舞う。フリストフォールがそれを不思議に見ていると、無数に群がった粒子がみるみるうちに形を成していった。その形は人間を象っており、いつのまにか粒子の塊は完全な人間の姿と変貌していた。茶色の髪に錆色の瞳をしていて、身長も体格もほぼフリストフォールと同じほどの若い男だった。何の情も感じられない無機質な様相と、粒子から形成された存在であることからフリストフォールはこの男が只の人間ではないことが分かったが、ヴァレンタインがどういう目的でこれを行ったのかまでは察せられなかった。

「驚いたか?すごいだろう。どこからどう見ても普通の人間だ」

白い箱、もとい箱型照射装置を見せびらかすようにヴァレンタインはへらへら笑う。

「驚いたな。驚いたが、これは一体何なんだ?」

「これはホログラム(三次元光投影体)だよ。この小さい箱型装置の中に投影するデータと小型の発光体と反射板が内蔵されているんだが、発光体から光を出してそのデータに当てると、反射板によって反射された光が装置から照射されて立体物として現像される。だから彼は人間にしか見えないけど、単なる投影されたデータの実体でしかないのさ」

そう言いながらヴァレンタインは男のほうへ近寄り、その身体に触れた。映像であるはずの男の身体はもはや本物の人間と見紛うほどであり、それが”虚像”であることを忘れるものだった。

「触れられるのか」

「訓練用だからね。どうせ見た目を人間に似せるのなら、極限まで再現するべきだ」

現像されたデータでしかなかったとしても、男は人間と寸分違わない外見をしている。一見だけでは人間との違いを列挙することさえ難しいだろう。人の外見をしている人ならざる者を見抜くというのは、恐らく己が考えるより難儀なのだとフリストフォールは思った。

「まだ名前をつけていないんだが、何にしようか。何ならきみがつけるか?」

「いや、名前はいいから早く訓練を始めたいのだが」

「セドリック、ピーター、オリバー…あ、ジェイコブなんてどうだ?理性的で良い名前だろう」

フリストフォールの言葉を無視して勝手に名前を考え始めるヴァレンタインに、フリストフォールだけではなく教官までもがフリストフォールと同じ顔をしていた。毎度のことなので、驚くわけも困惑するわけもなく、いつものことかと呆れるだけだ。

「じゃあ早速、訓練を始めようか」

ヴァレンタインは切り替えと言わんばかりに手を叩く。男――もといヴァレンタインの一存で命名された”ジェイコブ”――は相変わらず顔色一つ変えず只ヴァレンタインの方へ向いているだけだった。呼吸をしているのかさえ怪しいほど、静かで彼の周りだけ時間という概念が朽ちているようだった。

「きみたちには一対一の手合いを行ってもらう。制限時間の五分以内で一本取った方が勝ちだ。武器は訓練用の剣のみ。反則技は、まぁ特になし。相手を殺さない限り大丈夫だ」

「おい、そこはせめて”怪我をさせない”程度にするべきなんじゃないのか」

「ジェイコブはホログラムで、きみは妖魅。たいていのことで死んだりはしないさ。疑問をぶつける前に己の頑丈さに感謝するほうが良いよ」

ヴァレンタインの煽りとも受け取れる言葉にも愛想を尽かし、これ以上の言葉の応酬を諦めて訓練に入ることにした。返事をしたら敗北した気分になりそうだからだった。

フリストフォールはヴァレンタインが言った”五分間”という一つの言葉に引っかかりを感じた。今までの訓練で行ってきた教官との手合いでは一回三分ほどで行っていた。すぐに決着がつくので、五分など一回の手合いとしては長い、しかもたった一本をとるためだけにそんな時間に設定する必要はあるのかと疑問に思うのだ。しかしこれもヴァレンタインには何か考えがあるのだろうと思ったし、逐一口を挟むより手合いを始めるほうが良いと判断したのでフリストフォールはその思惑を顔にすら出さずに黙っていた。

 

自由への渇望 2

“妖魅”という名の実験の被験者としてこの『サルバトーレ』ロンドン支部に来てから約半月が経過した。

ヴァレンタインの言っていた通り、”青年”の血管が透けそうなほど青白かった肌は今ではすっかり健康的な色味を出しており、あれから肉体が自分のものではないかのような妙な浮遊感もなく”魂”が日に日に肉体に順応しているという実感を増幅させている。

そして、”青年”はここで過ごしていくうちに『サルバトーレ』という組織のことが片鱗でも理解できたような気がした。(目にしているものは組織のごく一部の顔でしかないだろうが)

まず一つ目、この建物の中はかなり広い。そして高い。少なくとも九階まであることが分かっている。部屋数もかなり多い。入ったことがあるのはごくわずかだけだが、部屋それぞれに何かしらの用途があるということを”青年”は推測していた。

次に二つ目、この組織にはかなりの数の人間が属しているということ。廊下を歩いていても様々な人間が行き来し、部屋にやって来るのは毎日違う顔ぶれだ。そして白衣を着ている者たちばかりだった。ヴァレンタインも白衣を着ているので彼と同じ研究員であることは分かっていたが、”青年”が直接目にする者たちはほとんど研究員だけだった。いつも近くに誰かしらいるのでたまに部屋や廊下に誰一人いなくなると最初に目覚めた”あの部屋”で感じた寂寥感が漂い始める。おそらくあの漆喰の壁のせいだろうと考える。

ヴァレンタインは”青年”に様々なことを命じた。ソテルとしての基礎訓練、剣術の稽古、読み書きなどの教養、それ以外にも啓蒙書や学術書を読ませられた。単なる物語などの読み物もあったが児童向けのものを読ませられたときは若干面喰っていたようだが、これらはなべて”青年”を”人間たらしめるためのもの”でありソテルとして活動していくにあたり必要不可欠なものであった。

“青年”は教えられたこと、与えられたものすべての知識と技能を博した。

求められるならばただ与えられたものを吸収するのみである。ただ、使命を果たすために。小さな芽から出てきた豆のような双葉が”水、光、空気、栄養を得ることによって枝を伸ばし茎を太らせ、やがて太い幹になっていく。環境は申し分ないほど整っている。富饒な土に知識と見聞という名の豊潤な緑葉が木を逞しくさせ、たちまち巨樹へと生長させる。

“青年”は己は”木”なのだと思い込ませた。どんなに時間がかかったとしてもこの”土壌”とに水”や”栄養”があればどんな”巨樹”にだって生長できる。そうやって己の使命や信念を立脚することによって”青年”は一歩一歩、地を踏みしめているような”魂が肉体に結びついている”ような感覚を起こさせているのだった。つまり”青年”に与えられた使命は”あまりにも強烈で、青年”を”人間”にするのにも”生きた心地にさせる”のにも十分すぎるものだった。

“青年”は思想の海から意識を引き上げさせた。こうして”使命”を再確認する時間は一日に何度もあった。一つのタスクを達成するごとに暇さえあればしばしば空想に耽っていた。再確認した後はよく己が何をしていたのかどこにいるのか一瞬わからなくなることがよくあった。”青年”は瞼を開けて目の前を見つめる。明瞭になっていく視界には先刻と変わらない部屋の様子が映っていた。わずか開いた窓からの風でカーテンが揺れる木漏れ日を眺める。

膝に置いていた本にスピンを挟んでローテーブルに除ける。書物の扱いに関しては常日頃から耳が痛くなるほど”青年”に口うるさく言っていた。見開きを開いたまま置くなだとか、花布や背を痛めないように丁寧に扱えだとか、ページや表紙を汚すな傷つけるな、などといったものだ。ヴァレンタインは学究の徒ゆえか書物や資料を粗雑に扱われることを特別嫌っている。”青年”は頻繁にそのことについて注意されるため、本人がいなくても気をつけることが板についているようだった。

今日は気温が高く外からは春の陽気を感じる。”青年”はこの季節のイングランドは日照時間が長く気温が高い日が多いのだと教えられた。過ごしやすい日が続き、陽光が差しこんで部屋の中も暖かくなるため最近では読書中に微睡むことがしばしばあった。

“青年”は自身の身体が”人間としての機能が正常に稼働している”のだと実感することが多々あった。空腹感があるのも、眠気を感じて欠伸をするのも、春の陽気にあてられるのもそれらは”人間として基本の機能”だと教えられた。”青年”は本部に来てから数日経ったころにヴァレンタインから『妖魅は人間と異なる部分がある』と言われたが”この身体”になってから普通の人間と異なるとわかるような事象は起きていない。基本は至って普通の人間の肉体だ。人間と異なる部分がどういうものなのか、”青年”は想像し難かった。

ソファに身体を預けて沈み込んでいく感覚を覚えてしまえば、おのずと眠気に誘われる。”青年”はこの書斎を気に入っていた。明るい彩色に漆喰の壁、植物の文様のレリーフ、四隅に置かれた石膏像、ドーリア式の柱に埋め込み式の飾り棚、その横に置かれたビューローデスクには帆船の模型と燭台と今朝取り替えられたばかりの花挿しがある。

大理石で造られたマントルピースの上にはジョセフ・ヴェルネの『漁師と漁船のある地中海の風景』が大きく飾られている。なにより更紗絨毯の上に座しているウォルナットのローテーブルと天鵞絨で張られたアームチェアが居心地の良さを増幅させている。一人で使うには些か広すぎる部屋にあらゆる書物が置かれているので読む物にも困らないので”青年”は結果的にこの書斎に入り浸ってしまうのだった。

掃き出し窓から入る風がカーテンをそよいで頬を撫でるたびに瞼が重くなっていくのを感じていると、扉をノックする音が聴こえた。

扉の向こうから声を掛けられ、意識が覚醒したので慌てて返事をした。開いた扉から現れた訪問者はよく見知った顔だった。

「やっぱりいましたね、フリストフォールさん」

“青年”——改めフリストフォールは身を捩って訪問者の方に振り向いた。フリストフォールという名前だが、ヴァレンタインが命名したものだった。フリストフォールという名は東方正教会の聖人からとったものであり、『サルバトーレ』で生まれた妖魅は全員聖人の名を与えられることになっている。フリストフォールはロシア語読みで英語読みだと”クリストフォロス”となるのだが、ロシア語読みである理由はヴァレンタインが”任地によって命名や読みが決定する”と言っていたのでそのためではないかと推察した。しかし、未だ基礎鍛錬しか行っておらず、任地も告げられていないソテルの本分である”承継”すら教わっていない状態なのであくまで憶測の域を超えいものだった。

それはさておき、フリストフォールは訪問者に一瞥をくれてやった。フリストフォールの顔を見た訪問者は不満そうに鼻を鳴らした。

「なんですか?どうしてそのような顔をするのです?僕が来たのがそんなにお気に召しませんでしたか?」

「何も言っていないが」

「言わずとも、何を思っているかはわかるのですよ」

そう言って訪問者はゆっくりとした足取りでフリストフォールの向かいのソファに腰を下ろした。目尻に皺が寄る特徴的な笑顔を向けながら言葉を続けることもなく鎮座している。この男の名前はヒサノ。自分やヴァレンタインと名前の感じがちょっとちがう。名前だけでなくフリストフォールほど背丈があるわけでもなく、肌や瞳の色も変わっている。”異国”から来た人間らしい。この国よりもっと東の国で生まれたと言った。瞳も髪も黒いことや顔立ちや話し方が少し違うことなど変わっているところは多々あったが、それ以上にヒサノは他の研究員、下手したらヴァレンタインより奇異な性格をしているとフリストフォールは常々思っていた。

そもそも、ヒサノは単なる”被験者”の一人であるフリストフォールになぜか目をつけ毎日のように彼のもとに来ていることじたい、おかしなことだった。確かに妖魅でありソテルであるフリストフォールは単なる人間から見れば魅力的に見えるかもしれなかったが、他にも複数同じような境遇の者がいるのに自分にやたらと興味を示す理由がフリストフォールにはよくわからなかった。

書斎で寛いでいれば決まって同じ時間に現れ茶を飲んだり談話したりして束の間のサボタージュを終えるとまた仕事場に戻っていくという日課を繰り返していた。

「フリストフォールさん」

「何だ」

ヒサノは人差し指を天に向けながら狡猾そうな笑みを浮かべて言った。

「分を弁える、というのが真の英国人の気性ですよ?だから僕は下手なことはしないんですよ。なにせ貴方は大切な”実験対象”なんですから。必要以上の接触は試みません。フリストフォールさんは嫌だと言うのなら僕はもうここには来ませんよ」

「きみは英国人じゃないだろう」

「英国を愛し、英国で生きることを決めたなら、それはもう英国人でしょう」

心得顔で話すヒサノに自分がサボタージュするための都合のいい盾とされているんだろうとフリストフォールは思った。思ってもいないことをさも本当のことのように言うのはこの男の最も得意とすることだ。

「別にヴァレンタインから止められているわけでもないんだろう?なら、私にきみを拒否する理由もないな。好きにすればいいじゃないか」

「嬉しいなぁ。それじゃお言葉に甘えて、ゆっくりさせていただきますね」

ヒサノはわざとらしくしたり顔で言った。フリストフォールはこの男のことは嫌いではなかったので、拒否するつもりがないというのは本当だったが、だからといって歓迎しているわけでもなかった。言葉というものは裏を返せばいくらにでも解釈できる。ヒサノの返事はさしずめ雨上がりの石をひっくり返したら蛞蝓がびっしりついていたのを見てしまったかのようなものだった。自分に都合の悪い言葉の真意は読み取ろうとしない。

「そういえば、訓練の方はどうですか?順調ですか?」

足を組んでフリストフォールの向かい側のソファを占領するようなポーズでヒサノが訊ねる。

「そうだな。大抵のことは難なく出来るし特に行き詰ったところもなかった。順調だ」

「でしょうね。なんせ、”その身体”はソテルとして誂えたものですし、標準装備として高い身体能力は最初から備わってますからね」

当然のように吐き捨てるヒサノに、分かってるなら最初から訊く必要なかったんじゃないかと思ったがフリストフォールはそれを咄嗟に喉の奥に押し込んだ。

「では、あちらの”強化訓練”はまだなので?」

「”強化訓練”?」

「おや、まだ知らされていませんか。血液適合を行った妖魅が基礎訓練を終えた後は、更に肉体への適応力を高めるために強化訓練を実施するのです。最低限これをクリアしないと任務には就かせらせないので、恐らくもうすぐ開始されるとは思いますが」

「そうだったのか。まったく聞かされてなかったので、初耳だが」

「まあ、室長ですから。あの方はいつも説明不足だというか、必要なことは直前になって伝えるタイプの人ですからそんなことだろうとは思っていましたけど」

フリストフォールはヴァレンタインから直接許可されていることなら基本好きに動くことができる。逆を言えば、ヴァレンタインから許可されていないことは出来ないということでもある。被験者なのだからそういったことに関して厳格なのは仕方ないことだとフリストフォールは思っていたし、ヴァレンタインの命令に背く気があるわけでもないので特別そのことに不満は無かった。ただ己は下知に従って任務を遂行するだけだと分かっているからだ。「ここってエスプレッソマシンないんですか?」

「見たら分かるだろう。給湯室で淹れてくればいいじゃないか」

「ここから給湯室は遠いじゃないですか。僕はいかに労力をかけずエスプレッソを飲むかということに精根を注いでるんです。即刻所長に進言しないといけないですね。全室エスプレッソマシンを設置すべきと」

ヒサノは如何にエスプレッソマシンが重要かと喃々と説くが、全室に各一台ずつでも設置すれば費用が莫迦にならないだろうとフリストフォールは思った。

「なぜエスプレッソにそこまで拘るのかもわからんな」

「紅茶や珈琲を好む方々にはエスプレッソの魅力が分からないのでしょうね。僕は紅茶や珈琲なんぞは滅多に口にしないエスプレッソ愛好家ですからね」

正直、フリストフォールは珈琲だのカップチーノだのエスプレッソだの違いがわからなかった。飲めるものなら紅茶だろうが珈琲だろうがエスプレッソだろうが拘りを持たないのがフリストフォールだった。

「今なんだか喉が渇いているんです。この紅茶、もう飲まないなら僕が貰ってもいいですか?」

ヒサノはローテーブルに置いてあった飲みかけのティーカップに手を伸ばしながら言う。許可を貰う前にすでに自分が飲むことが決まってるかのような挙措だった。

「構わないが。紅茶は滅多に飲まないんじゃなかったのか」

「あくまでも”滅多に”ですからね。今日はその”滅多”の気分だったのです」

そう言いながらヒサノは冷めた紅茶を喉に流し込んだ。ティーカップの半分も残っていなかったのであっと言う間に空になった。先刻は紅茶や珈琲を滅多に口にしないなどと言っておきながら、遠くの給湯室まで行ってエスプレッソを淹れる労力を出さない目の前の男がやはり理解できないとフリストフォールは思うのだった。

「そういえば、きみはヴァレンタインのことをどれほど知っているんだ」

「室長のことを?」

フリストフォールがふと頭に浮かんだことを何の気なしに訊ねてみれば、ヒサノは思いがけないことを訊ねられたと言わんばかりにぽかんと口を開いた。しかしすぐに心得たように笑って居住まいを正した。

「ほう、そこが気になりますか。僕は室長と同じ研究班ではありますが、僕もここに来て長いわけではないので意外と知らないんですよ。僕が来た時はすでに室長のポストに居たわけですし。他の研究員と仕事以外で親密にしているわけでもないので謎が多いというか」

ヒサノはティーカップに描かれている瑠璃唐草の浮彫を指で撫でながら言った。

「貴方から見ても、室長は”異様”でしょう?」

ヒサノの漆黒の双眸で見つめられる。正面から見るとよく分かるが、見つめ続けていると奇妙な気分になるほどの黒眼をしている。フリストフォールは何となくヒサノから視線を外して考え始めた。

フリストフォールの想像するヴァレンタインという男は、万夫不当の王者である。楽園の王(キング・オブ・アヴァロン)として玉座に君臨している。純金の腕輪を填め、右手には林檎を象った宝珠、左手には金剛石が嵌め込まれた王笏を持ち、国の大磐石として国民から崇められている。そんな印象である。この支部の所長よりも存在感を放っており、フリストフォールはヴァレンタインが廊下を歩いているのを見るだけで底冷えするような気分になった。何より恐ろしく感じるのが、ヴァレンタイン自身は威容ではないということだ。一見そのようには見えず寧ろ愛想が良い。そのはずなのに、どこからかヴァレンタインには不思議と人を従わせる威厳というものがあるのだ。

「王だな。この支部全体の」

フリストフォールの脳内に赤い繻子の寛袍を羽織ったヴァレンタインが現れた。

「あの男には、不思議と逆らおうという気持ちがまったく起きない」

奇妙、と形容する以外思いつかなかった。反抗の二文字など出来上がる前に虚空に霧散する。フリストフォールの思惑などお構いなしだと嘲るように、”傍のヴァレンタインは只悠然と笑っているだけだった。

 

自由への渇望 1

 何もない空間がそこに広がっていた。

そこが何なのか、何があるのかもすべてわからなかった。ぼやけていた視界がピントを合わせると乳白色の空白が広がっていることだけがわかった。

一点を見つめていると体が浮遊しているような、肉体がそこから離れているような気がした。魂だけが離れてそこらじゅうを彷徨っているような、そんな気がするのだ。しだいに、靄が晴れていくように思考が明瞭になった。肉体から離れていた魂が宿主に帰り、その魂が最初からそこにあったように合致する。

ここはどこなのだろうか。なぜここにいるのだろうか。そんな思考が頭の中に浮かび上がる。眼球を動かしたが左も右も変わらずカマンベールチーズを溶かして塗りたくったような乳白色しか広がっていない。そこで片側からなにやら光を感じた。ガラス窓から陽光が差し込んでいた。そこらじゅう白一色のせいで陽光を反射し、そのほうを見ようとすれば眩くて目を逸らしてしまうほどだった。

首を動かしていて気付いた。ここは何かの”部屋”である。さっき見ていたのは”天井”だ。天井も壁も白い漆喰づくりでガラス窓のそばには植物をかたどったようなレリーフがある。見渡すと思いのほか部屋が広いことに気付く。十帖ほどの広さの空間に、灯りのついていないランプシェードに書物や紙束が置かれ散らかった机、棚に置かれた複数の植物の入った硝子瓶が目についた。差し込んだ陽光によって開放的な空気を醸し出しているが、同時に一面白の空間とものの少ない簡素さが空虚感を滲ませている。

ここから動こうと肉体に力を入れて上体を起こした。そこで”青年”は”肉体”を目にした。”肉体”は精神世界の事象でも肉体から離れた魂でもない、”確かにそこに存在する肉体”があることに気付いたのだ。そしてそれが”青年”自身の肉体であるということに。

“青年”は紫檀の台の上で身体をよじり”自身の肉体”をすみずみまで見つめた。細長く骨ばった指、程よく筋肉の付いた手足、均整のとれた中肉中背の身体。正真正銘、男性の肉体だ。しかし陶磁器のように白い肌は皮下の静脈まで透けて見えてしまいそうで気味が悪い。生きた”人間”の肉体のはずなのに血が通っているとは思えないほど、無機質で冷たい。屍が動いているようだ。

立ち上がろうと床に足をつけるとひやりとした感触が伝わった。服はリネンのシャツとズボンを履いているが、靴は履いていないので素足のままだ。近くを見渡すが靴らしきものは見当たらない。仕方ないので素足のままでいることにした。両足をつけて立つと足裏全体に冷たい感覚が広がっていく。踏みしめるたびに氷の上を歩いているようで、もはや痛みだと錯覚するそれは体内へと侵入していくように無遠慮に皮膚を突き刺してくる。陽光が差し込んでいるはずなのにやけに冷たい硬い床を歩きながら”青年”は妙な感覚に襲われていた。胃の中からせり上がってくる吐き気と体の中を蟲が這いずり回っているような異物感と嫌悪感である。自分の意思で動かしているはずの身体が自分のものではない、先ほどのように肉体から魂が離れようとしているかのような感覚だ。立つのもやっとの思いでふらつく身体を支えるために紫檀の台に手をついた。

この感覚は何なのだろうか。そもそも自分は何者なのか、なぜこのような場所にいるのか、ここがどこなのか。次々に”青年”の脳裡に疑問が思い浮かぶが、もちろん答えが浮かんでこなければ答える者もいない。

台に腰かけて部屋の壁をぼうっと見つめた。この部屋から出ることが出来るかわからないが、自分がこの場所にいることや人間が所有しているであろう部屋にいることから、近くに人間がいることは間違いなかった。ここに”青年”が連れてこられた意図は分からないがこのような場所に閉じ込めるということは何かの”目的”に使うということだと”青年”は考えた。

“青年”は”人間のものとは思えない”自身の青白い手を見つめながら考えを巡らせた。

すると、外から靴音が聴こえてきた。すぐそこで音が止まり、扉が開かれると一人の男が入ってきた。

「おお、起きていたか」

白衣を着た中年の男は”青年”を見て微笑んだ。広い額がむき出した四角い顔にくたびれた白衣、柔和な笑みを浮かべた人好きのする顔つきをしている。突然の来訪者に”青年”はやや驚いたように男を見上げた。”青年”に対する態度といい身なり、言葉や表情、この部屋に入ってきた際の様子から”青年”に対して害意がないことや害をなしてくることはないと判断できる。しかし、あまりにも自然に”青年がそこにいることが当然”であるかのような素振りであるせいで”青年”はどう対応するのか考えあぐねているようだった。

変わらず笑みを浮かべる男に対して”青年”は口を開いた。

「こ、ここは‥‥」

紡がれた言葉は今にも消え入りそうで掠れた声だった。男性らしい低い声質だが、その声もまた自身の”もの”であるという実感のない、空虚なものだった。困惑したように口ごもっている”青年”に男は安心させるように笑みを絶やさない。

「大丈夫だ、その”肉体”は正真正銘”君のもの”だ。」

男の言葉に”青年”ははっと目を見開いた。何かに急き立てられるように自身の頭、顔、頸、腕、胴、足に次々に触れていく。”青年”の指先に確かに触れるそれは男の言葉通り、ほかの誰のものでもない”青年”自身のものだ。男の言葉を聞いて不思議と体が動いてやったことだというのに、なぜこんなに心が落ち着くのかと疑問に思う。この男が”青年”に害を与える存在ではないことは分かったが、それ以上に”何かしら青年のことを知っている”ということは間違いない。

「やはり困惑しているようだな。まぁ、目が覚めてこのような場所にいればそのような状況に陥るのもおかしくない。簡単な説明から始めようか。

まず、この場所についてだが『サルバトーレ』ロンドン支部の建物内の部屋だ。元は違う場所で”処置”したのだが、終わってこちらの部屋に移送させてもらった。」

『サルバトーレ』、ロンドン支部、”処置”‥‥ 聞いても全く意味も意図も分からない言葉に”青年”は状況を飲み込むどころかますます混乱する。男も”青年”が混乱していることを理解しているようで続けて言葉をかける。

「まずは君のことから説明しようか。単刀直入に言うが、私が君を”改造”させてもらった」

「‥‥改造?」

「ああ。厳密には違うんだが…君のその”肉体”はもともとは”ほかの人間のもの”だ」

“青年”はその言葉を聞いた瞬間、心臓を矢で貫かれたような感覚に陥った。痛みが走ったわけではない。衝撃を受けたわけでもない。いや、衝撃ではあったのだがそれよりも先にその言葉に思考と肉体が呼応する。”青年”は全身の血が沸き立っていくのを感じた。まるで心臓がフラスコになりその中で水が沸騰しているかのような感覚だ。血が駆け巡って体温が上がっている。

「目が覚めた時、自分の身体が自分の物ではないような感覚にならなかったか?まだ”処置”が済んだばかりで”肉体”に魂が馴染んでないのもあるが、元々その”肉体”が君のものではないせいだろうね」

「‥‥‥‥」

「理解するには難しいだろう?私としてもその過程を一から正確に説明するというのは難しいから出来ないんだが、端的に言えばその他人の”肉体”に君の”魂”を入れたってわけだ。長年の研究と改良の末に最近ようやく実用化できた技術でね。”人魂精錬封入法”というんだ。精錬は粗金属から純度の高い金属を取り出す工程のこと。肉体から魂を取り出すのは、まさに精錬のようだろう?」

「‥‥この、元々の身体の持ち主は?」

「ああ、安心してくれ。すでに死んでいるよ。乗っ取ったとか殺害したとか、そんなのでもないよ」

「じゃあ、この身体は”死んでいる”のか?死体ということか?」

「いや、それは違う。ここが一番いわく言い難いところなんだが、その”肉体”はあくまでも疑似的なものだよ。死体を蘇らせることも死者を生き返らせることもできないからね。君の”魂”に適性があった”肉体”のDNA情報を再現して再構築したものだからね。その身体は”ちゃんと生きている”よ。今は少し青白いが、じきに色味が出る。なんせ、まだ”処置”したばかりだからね。”魂”が”肉体”に適合するまではそれなりに時間がかかる」

“青年”は自分の手や腕を見つめた。変わらず青白く赤みのない肌だが先程よりも少しだけ生気が増したような気がする。この身体はちゃんと”生きている人間の身体”なのだと。その言葉を反芻する。その言葉こそが己を肉体に結びつける柱になるのだと”青年”は自身に言い聞かせた。”青年”が顔を上げて男の方を見やると男ははっとしたように瞠目した。

「いかんいかん、自己紹介がまだだったね。私はヴァレンタイン。『サルバトーレ』ロンドン支部第二生物物理学研究室室長を務めている。宜しく頼む。

そして次は『サルバトーレ』について説明するが、一四〇〇年代に欧州にて突如として現れた”マルム人”に対抗するために生まれた治安維持組織だ。」

「マルム人‥‥?」

「この世界とは違う次元に存在する異界からやって来た異形の怪物たちのことだ。中には人間にそっくり変化することが出来る個体がいることからマルム”人”と呼ばれているわけだ。出現した当時こそ凶暴な個体が多くて厄介だったが、今は昔と比べて大人しくなってきている。しかし現在でもマルム人はこの世界に存在し続けている。人類を脅かすマルム人から人々の暮らしを守るのが『サルバトーレ』の役目ということだ」

ヴァレンタインは淡々と話していくが、”青年”は説明の内容を頭の中に入れながらも若干の違和感を覚えていた。”青年”は『サルバトーレ』という組織の趣旨や存在意義については理解したが、ただ一つ”この世界に化け物が存在している”という事実だけに鼻白む。”青年”は考えてみても”目が覚める前”の記憶というものは思い出せなかった。ヴァレンタインが言ったことを信じるのならば”青年”は元々別の人間のはずだった。しかしその時の記憶は今の”青年”にはない。記憶がないせいなのか、この世界の”常識”や骨子となるものに関しては理解するのに時間がかかりそうだと考えた。元来、化け物が存在する世界があることが普通なのが存在しない世界が普通なのかはこの”青年”にとって到底あげつらえるような問題ではなかった。

「そして、このことに関しては君にも関連しているんだが、このマルム人が持つ血液や毒、唾液などの体液には人間をひとたび”人ならざる者”に変えてしまう魔力がある。ようするにマルム人の同族にされてしまうということだ。こういった状態になってしまった人間のことを”妖魅”と呼ぶ」

「よう、み‥‥」

「一度マルム人になってしまえば二度と戻れなくなるし姿が化け物に変貌してしまう人間の心を失ってしまうしで、とても恐ろしいものだろう?しかし、我々はこれを逆手にとった革新的な技術を生み出した。それこそが君だよ」

ヴァレンタインは”青年”を射抜くようにその目を見つめる。その双眸からは強い意志が感じられ、如何にも自信に満ちているといった様子だ。ヴァレンタインの勢いに若干気圧されながらも”青年”はその言葉の真意をたずねる。

「さっき君に人魂精錬封入法を行ったと言っただろう?再構築を行ったその肉体にマルム人の血液を注入して上手く肉体に適合させた。そうすれば”人工的な妖魅”が完成するというわけだ。この技術に関しては人魂精錬封入法と違ってまだ試用段階だから正直成功するかは怪しかったのだがね。もう少し経過観察が必要だが今のところ特に異常はないようだしひとまずは成功といったところだよ」

”青年”は、目が覚めた時自身が感じていた違和感や妙な浮遊感はただ肉体に魂を入れ替えたからだけではなかったのだと推測した。マルム人という怪物の血を人間の肉体に注入するなどずいぶん奇妙なことをしていると考える。そのようなことをして身体に異常が出ないのか、違う人間の肉体にわざわざ魂を入れ替えた上に怪物の血を注入などして一体自分をどうする気なのかという思いなど”青年”の心中でさまざまな感情が錯綜していた。

「なあ、君は目覚める前のことを思い出せるか?」

ヴァレンタインは”青年” の心を見透かしたように言う。”青年”にこれ以前の記憶などとうに存在していない。

「思い出そうとしても思い出せないだろう?元の肉体を捨て、自分が何者であったかという記憶すらない。自身を証明できるのはその”魂”だけ。しかし”魂”など単なる形而上の精神状態。そんな不確かな存在を肉体に移し替えただけでそれが”君”であるという証明ができると思うか?」

「…………」

「私が君を騙している可能性だってある。君の記憶がないのだって、”喪失している”んじゃなくて” 最初から持ってなかった”かもしれないじゃないか。肉体はあくまでも”魂”を入れる器でしかないんだ。肉体も記憶も精神も真っ新になってしまったなら、それはもう”別の人間”だと言えるんじゃないか?」

ヴァレンタインは意気揚々と”青年”に檄を飛ばす。自身の思考の領域を優に凌駕してくる持論に”青年”はそれとなく目配せして見せる。ヴァレンタインはそれに気づいたのか、少しばつが悪そうに笑う。

「少し困らせてしまったね。申し訳ない、これはあくまでも私の一家言だからあまり気にしないでくれ。それで、話を戻すが君を妖魅にしたのにはもちろん理由がある。君をわが『サルバトーレ』のエージェント、”ソテル”にするためだ。ソテルはマルム人からの被害を防ぐために管轄領域の巡視、事件調査、マルム人との直接交渉、場合によっては討伐などマルム人に関するあらゆる任務を行う。そして最も重要となるのが、マルム人が用いる言語”アルカナ語”を”承継”する任務だ」

突如聞こえてきた聞き慣れない単語に”青年”は思わず聞き返した。「”承継”?」

「”承継”はアルカナ語の効力を制御する方法だ。マルム人がこの世界に飛来したのも太古の昔に残した『黄印の書』を取り返すため、なんていう説がある」

「太古の昔?」

「いや、あくまでも説に過ぎないんだがね。人類が繁栄を極める前、ホモサピエンスが誕生するずっと前は元々マルム人がこの地球を支配していたとかいう話だよ。『黄印の書』はマルム人が所有していたサイファーだなんて言う人間もいるが、私としてはこれは暗号書というよりはアカシックレコードに近いものだと思うね。なんせ悠久の時を超えて再び飛来してくるなんてよほどこの世界に未練があったとしか思えない。そこまでする理由があるとすればその『黄印の書』にはこの世界の真理が、」

再び白熱しそうになったヴァレンタインは”浴びせられた視線”に気づいて慌てて押し黙った。どうやらこの男には自分が興味のある話に関してはつい脱線して話し続けてしまう癖があるようだった。”青年”から見ても衒学的ではあるが、見識が高く興味深い話だとは思った。しかし、このまま話させ続けると確実に本題を忘れるだろうと考えて中断させたのだった。(ヴァレンタインは心なしか如何にも話足りないといったような表情をしていたが)

「失礼。話を戻そう。この世界には『黄印の書』から”あふれた”アルカナ語の”印字”が数多く存在する。しかしそれを人間が認知することは難しい。人間の”無意識下”に存在していると言ってもいい。”印字”は人間にとって悪い影響を与えることもある。”承継”はそうしたアルカナ語や”印字”を”引きはがす”ことが可能だ」

「”印字”、というのは‥‥」

「アルカナ語で綴られた字や文章、印璽のことだ。”印字”の種類はマルム人の個体や集団によって変わる。これは恐らくマルム人が追い求めている『黄印の書』から”あふれた”ものだからだと考えられているが…結局のところマルム人がこの世界に介入してきたのも世の中を騒擾してきたのも全てどこにあるのかも分からない『黄印の書』のせいだということくらしか分かってないんだ。そもそも『黄印の書』が謎に包まれすぎているのさ」

「‥‥その割にはずいぶんと大層に講釈垂れていたが」

「いやあ、私の言葉には真実の中に少しの憶測が混ざっているということを最初に言っておくべきだったね。この世の中がマルム人が飛来してきたことの所産だということは紛れもない事実だから安心してくれ」

全く安心できない言いように”青年”は眉間を押さえた。ほぼ初対面でありながら早くもこの男の一言一句を鵜呑みにするべきではないということが分かった。嘯くこそすれ、一片たりとも真実が存在しないわけではないからほら吹きではない。恬淡だというか、恣意的だというか”本人がはからずも悪意を持って述べている”ように”青年”は感じたのだった。分かりやすく説明するなどと言いながらこれである。話し始めると余計なことまで話すのは元からなのだろうが、きっと他の人間に見咎められても正さなかったのではとそう直感したのだ。例えるなら中がほとんど空っぽのような洞の外堀だけをひたすら埋めていくような話し方だ。この男と対話する時は注意が必要だと、”青年”は覚醒して数十分程度の脳でそう処理した。

「まぁ、さっきも言った通り君は”ソテル”になるためにこうして私が”処置”した。立脚しようじゃないか。君は自身の”存在意義”とその証明、”居場所”を与えられたんだ」

ヴァレンタインは数歩歩いて”青年”から距離をとる。背中を向けていたと思っていればすぐに体を翻して人さし指を”青年”の方に向けた。指先から見えない糸でも出ているかのようにまっすぐで”それ”じたいが意思を持っているかのように狙いを定めている。

「たとえこの先頚をもがれようが四肢をもがれようが枝から吊るされようが、いかなる時もこのことを忘れてはならない。”使命のままに役目を果たせ”。この言葉はいつ何時でも神父様のありがたいお説教よりも君の理念となり、”存在理由”であることに変わりはない。これが悪魔の呪いになるか天使の導きになるかは君の働き次第だがね」

ヴァレンタインは口角を吊り上げていやらしく笑う。部屋に入ってきた時の人のいい笑みよりもこちらが”素性に近い表情”なんだろうと”青年”に思わせる。糸のきれた人さし指を仰がせてくるくると回す。その様子を見ているだけで”青年”に筆舌に尽くしがたい感情を湧き起こさせる。人の感情をいちいちかき乱す男だ。それでいて人質にでもとったかのような、脅しにかけるかのような言い回しをするのだから何となく腑に落ちない。”青年”はそんなことを考えながら髪の毛に唾でも吐かれたような顔をしていた。

己の素性すら知らない”人間と怪物の混血である青年”は、目覚めて四半刻ほどで己の”使命”とやらを告げられ、これから来るであろう試練に諦念するしかなかった。

 

碧い眼は美男の証 6

朝目が覚めると、フィリックスは慌てて支度を始めた。

ベッドの中でしばらく昨日のことを思い返していたが、自分の仕事のことを思い出してゆっくりしていられないと気づいたからである。時計が無いので今が何時なのかは分からなかったがもし遅れたら大変だ。ユージーンと話した後、キッチンで水差しに水を汲んでそのまま部屋に戻り、寝たのだったが存外フィリックスはすぐに寝つき、たっぷりと熟寝をしたのだった。

何時間も通して寝たわけでもないのに今までの疲れがすべてとれてしまったかのように体が軽かった。仕事があるというのにむしろ寝すぎてしまったと思うほどだった。フィリックスは着替えて身だしなみを整えると、ベッド横のマハラジャのゾウにも目もくれず、変わらず埃っぽい屋根裏部屋を出ていった。

階下にある洗面所で顔を洗い髪を濡らして寝ぐせを直したあと、キッチンに入った。昨日グラントリーからは”七時には下りて来るように”と言われていたが、先刻玄関の柱時計を見たら七時ちょうどだったのでなんとか約束の時間に間に合わせることができた。

しかし、フィリックスはキッチンに入って仰天した。”兎”が其処に居たからだ。只の兎ではない。頭部が兎で、頚から下が人間の所謂”兎人間”だ。フィリックスは暫くそれを見て静止していたが、夕べユージーンが言っていた”兎人間のルイス”が彼だということをようやく合点がいった。彼の傍にはグラントリーも居り、白布の上に銀食器や磁器が並べられていた。グラントリーが顔を上げてフィリックスに気がついて声をかける。

「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」

「はい、おかげさまで。すっかり疲れがとれました」

「それなら良かったよ」

碧い瞳の兎からの視線を感じながら、フィリックスはなんとか平常を保って答えた。不気味なほどリアリスティックな巨大兎の頭部を初めて見たせいもあり、出会って数秒の兎頭に慣れるのはなかなか根気がいりそうだと思った。それが青玉のような精巧な瞳のせいなのか、表情の変わらない貌のせいなのかはわからなかった。

「フィリックス、彼を見て驚いただろう?」

グラントリーは笑いながらルイスの方を見て言った。素直に認めるのはなんだか心地が悪かったが否定するわけにもいかなかった。

「は、はい」

「彼の名はルイス。ちょっとばかし恥ずかしがり屋でね。被り物をしているんだ。仕事のことはルイスが教えるから、わからないことがあれば彼に訊いてくれ」

グラントリーの顔はいつになく笑っており、フィリックスは居た堪れない気持ちになった。すべての仕事のことをグラントリーから教わるというのは不可能かもしれないが、ルイスから教わるという気にはどうにもなれなかった。ルイスは先刻から一言も発していないが、ひしひしと圧のようなものを向けられていることがフィリックスは分かった。

「朝いちばんの仕事はぼくの部屋に来て支度の手伝いをしてもらおうと思ってるんだが、それは明日からだ。今日は従業員たちの朝食の準備をやってもらう。そのあと開店の準備だな。仕事はたくさんあるから、ちゃんと覚えるんだよ」

フィリックスははい、と返事をした。グラントリーの諭すような言い方にいつか教会で聞いた牧師の説教を思い出した。

「じゃあぼくはおもての方を見てくるから。ルイス、あとは頼むよ」

グラントリーがキッチンを出ていった後、その場に取り残されたフィリックスとルイスの間に奇妙な空気が流れる。暫し顔を見合わせて(フィリックスはルイスと目線が合った気はしなかったが)沈黙した後にルイスが口を開いた。

「朝食の準備を始めるが、朝食と昼食は各々で取るからそれぞれのものを用意する。一同で食事をするのは夜の正餐(ディナー)の時だけだ。日によってサパーの時だったりディナーの時だったりと変わるので覚えるように」

フィリックスはルイスの堅苦しい言い回しに眩暈を覚えた。声質はまったく違うが、話し方はノックスとどこか似ていると思った。ノックスのようにルイスに苦手意識を持つようになるの何だかきまりが悪かった。

「まずは紅茶の淹れ方を教える」

そう言いながらルイスは銀食器に亜麻布をかけてから茶葉缶とアルコールランプ付きのティーケトルとティーポットを取り出した。ティーケトルに水を入れた後、燐寸でつけた火をアルコールランプに付ける。

「客前に出す時は純銀製のティーケトルやティーアンを使う。淹れる手順はどのような場合でも同じだ。大事なことは良い茶葉は惜しまず使う、最初に沸騰させた湯をティーポットに注ぐこと。じゃないと薫りもない色もない味もないものになってしまうからだ。温まったらポットの湯を捨てる。」

沸騰させたティーケトルの湯をティーポットに注ぐと、白い湯気がむくむくと上った。暫くしてティーポットのお湯を捨てて、ルイスが「茶葉は人数分ともう一杯入れるんだ」と言いながらドザールで七杯分の茶葉をティーポットに入れてケトルの湯を注ぎ入れて蓋をした。毎日淹れているであろうルイスの手つきはずいぶん小慣れたものだった。フィリックスも昔、使用人が淹れていたが詳しい手順などはよく知らなかった。

しかしルイスの、まるで絹織物を縒り合わせるような繊細な手つきに思わずうっとりしてしまうほどだった。

「お前、空き巣に入ったんだってな」

すぐ傍でルイスから囁くように言われてフィリックスは肌が粟立った。先刻までの恍惚とした気分が一瞬で醒めて冷や水をかけられたような心地がする。ルイスの言葉を数秒かけてようやく理解できたのだった。

「まさか泥棒を下働きに雇ってやるだなんて、サーグラントリーは何をお考えなのかと思ったさ。お前貧民街(ルーカリー)の奴だろう?おかしなことをしでかすんじゃあないぞ」

ルイスが責め立てるようにフィリックスに言った。盗みをするつもりで入ったわけではなかったにしろ泥棒だと思われてもしかたないので言い返す気もなかったが、見下されているようでフィリックスは気分が良くなかった。

「どうせサーグラントリーはお前を厚意だけで雇ってくれただけだと思っているのだろう。しかし優しさだけがあるのだと思うんじゃないぞ。お前は金の卵を産む鵞鳥だからお前を此処に置いてやっているのだということを勘違いするなよ」

碧い兎眼に見つめられて思わず体が硬直してしまう。粗削りの論理は突けばぼろが出るが、真理の裏の裏をかいても盲点は生まれない。答えの書かれた紙を丸めてその穴を覗いても見えるのは虚空だけだ。フィリックスはルイスの言っていることが端的に理解することはできなかったが、ルイスの言いたいことが紙に書かれたことだということはわかった。紙を広げる方法は知っているのに紙に書かれているものを見つけることができない。その答えの意味を考えてみても”ややこしく”なりそうだからやめようと思った。糸が細ければ細いほどからまりやすいということをフィリックスは知っていたからだった。胸の裡で秘かに観念して、おそらく時間が過ぎてすっかり蒸らされたであろうポットの中味を思惟した。

ルイスはフィリックスに概ね一通りのことを教えると早々に他の仕事があるとキッチンを出て行った。開店前だしずいぶん忙しそうだったので大変なのだろうとぼんやりと思う。食器を磨いたり応接間を掃除したりなど色々と客を迎える準備をしなければならなかったが、ひとまず従業員たちの朝食を準備することから始めることにした。

ルイスが言うには開店するのは十時か十一時ごろなので従業員たちはそれまでに各々好きな時間帯に起床して朝食をとるという。食事内容も時間もばらばらだが、食事は全員似たようなものばかりなので適当に出しておけばいいと言われていた。フィリックスはルイスに言われたチーズやパン、ポリッジ、紅茶、ココアを用意する。ポリッジは今朝の作り置きなので冷めれば温め直せばいいし、紅茶やココアも飲みたいものが各々淹れればいい。しかしパンは置いたままだと湿気て硬くなったりして風味が落ちてしまう。一同揃って朝食をとるなら焼きたてを食べることもできるというのに、とフィリックスは内心独り言ちる。

ふと意識が外れて顔を上げると、背後から感じる”気配”を再び感じとってしまい胸がきゅっとなった。背後で芳ばしい匂いをさせているのは昨晩ユージーンが話していた例の料理人、セドリックだった。黙々と調理するその後ろ姿は調理というよりは細工師の作業のように見える。ルイスと入れ替わるようにキッチンに入ってきたセドリックに、少々面喰いながらもフィリックスが自己紹介含めた挨拶をするとセドリックは黙って頷いただけでにこりともしなかった。仮面のような動くことのない顔貌、大きな体、目尻に皺の寄った中年男ということぐらいしか読み取ることはできないがそういった要素が集まるだけでこんなに威圧感が出るのかと思うほどだった。声すら出していないというのに同じ部屋にいるだけで息が詰まりそうな思いをするが、むしろ何を考えているのかわからないという怪しい雰囲気が威圧感を増長させているのかもしれない。しかし慣れてしまえば、意識しなければなんてことはないと思ったが一度意識するとやはり息が詰まりそうになったので、フィリックスはパントリーに食器を交換しに行こうとトレイを引っ掴んで逃げるようにキッチンを後にした。

ようやく重圧感から解放され軽くなった足どりでパントリーへ続く廊下を歩いていると、向こうにある裏口の扉が開いた。思わず身構えて足を止めると、入ってきた人物はフィリックスを見て眉を顰めた。しかししばらくするとやんわりと笑いかけた。

「君か、サーグラントリーが言っていた新人というのは。ええと、名前は、」

少々反応に遅れながらも「フィリックスっていうんだ。よろしく」と答えたが、そうなったのもその人物の姿に驚いたからであった。フィリックスよりも少し年上の青年だが、その顔立ちは目を見開くほど端整だった。端整と表現するのが適切かはわからなかったが、フィリックスはそれ以外の言葉で言い表せなかった。もう一つ言葉を付け足すとすれば”不気味”でもあった。まるで鑿と金槌で彫りこまれたかのように目許も鼻も頬も線がくっきりと浮き上がった顔だ。顎と人中も鑢をかけたようになだらかな稜線を描いている。肌は新雪のように真っ白だった。これで何の表情もないならまだ不気味ではなかったが、青年の笑顔は貼り付けたような空虚さがあった。不自然さはないのにむりやり作られているかのような表情にフィリックスは寒気を感じられずにはいられなかった。色と顔立ちのせいで石膏像が動いているようだな、と思うのだ。フィリックスがじろじろと見つめていたせいか青年は訝し気に顔を歪めてたので慌てて視線を外した。視線の先で青年が何かを持っていることに気づいた。新聞だ。先程までは顔に意識がいって気づかなかったらしい。

「俺はジェラードだ。よろしく頼む。仕事のやり方はもう教わったか?それともこれから?」

「ミスタールイスにおおまかには…」

「そうか、分からないことがあれば聞いてくれよ」

ジェラードのインディゴ(藍色)の瞳が眇められる。容貌に対する違和感は拭えないでいたが、ルイスの時と同じようにこれもじきに慣れるだろうと考えることにした。ジェラードはフィリックスの手許にあるものに気づくと大股で歩み寄った。

「これパントリーに持っていくんだろ?手伝うよ」

そう言うとフィリックスの返事も聞かずに抱えていたうちの一つを持って足早に歩いていく。思わぬ強引さに少し気後れしていると、ジェラードがさっさとパントリーの中へ入っていってしまったのであわてて後を追った。棚の抽斗を開けて敏捷にカトラリーを取り出していくジェラードの動作を見て、人を置いていくことといいフィリックスはせっかちな男だという印象を覚えた。

「初日の朝早くか仕事とは大変だな。人手が増えたのをいいことにミスタールイスに押し付けられて災難なもんだ」

「これくらいのことはどうってことないよ。前の仕事よりはましだろうと思うしね」

「前は何やってたんだ」

「泥ひばり」

「川で鉄屑とか拾って売るやつだよな?じゃあお前、”運”が良かったな」

ジェラードに抽斗からカトラリーを取り出そうとしたフィリックスの手が止まる。部屋の外気に触れてひんやりとしている金属の感触がやけに鮮明に伝わってきて指先が一瞬ちかっとした痛みが走った。

「運?どうして」

横から感じる視線を無視してカトラリーを取り出した。掌で掴んだカトラリーはやはり冷たかった。

「塵集めよりどう考えてもこの仕事のほうが待遇も環境も恵まれてるだろ。偶然でもサーグラントリーに雇われたお前が幸運だったことは間違いないよ。これも”運の巡り合わせ”なんだよ」

フィリックスはジェラードの言い回しに”めまい”をおぼえた。確かに泥ひばりをして得たなけなしの金でその日暮らしを続けていくよりは最低限の衣食住が保証されているこの仕事のほうが幸せにほど近い環境だと言えるだろうし、必死の思いで差し伸べられた手に縋りついたことを後悔していないと思っていた。しかし、ジェラードのいう”幸運”だという表現はどこか胸の奥で蟠るような気がするのだった。己が抱いている気持ちを”幸運”と言い換えられないとも言えないというのになぜ納得できないのか不思議でたまらなかった。それでも理由は分からずともその言葉を己の胸の裡には駄目だという警鐘が鳴るのだ。

ふと手が止まっていることに気づいてフィリックスはトレイにカトラリーを並べた。暫く握りこんでいたせいで金属にじんわりと温かくなっていた。

「塵集めは大変だったろ」

「大変だったよ。川は臭いし大したものは落ちてないし塵ばっかりだし…金にはならないし」

「臭いか。そうだな、今も臭いけど昔はもっと臭かったからな。糞尿やら塵やらで夏なんかは特に悪臭がひどくてな、近寄るのすらためらうくらいだった」

「そんなに?今よりもっとひどいなんて想像できないな」

「今は下水道が整備されてるからな」

「それは何年前くらいのこと?」

「四十年ほど前だな」

フィリックスが生まれるずっと前のことだった。フィリックスにとってテムズ川が汚いことは鴉の糞が臭いのと同じくらい当然のことだったが今よりもっとひどかった時代のことを考えると昔に生まれていなくてよかったと思わざるを得なかった。

フィリックスがカトラリーを交換し終えて、トレイを持つとジェラードが慌てて傍のテーブルに放っていた新聞を小脇に抱えた。

「ちょっと待ってくれよ。俺、新聞持ってるから脇に挟むと落ちそうになるんだよ」

そういえばジェラードが先程まで新聞を持っていたことを思い出した。

「毎朝きみが新聞買いにいっているの」

「そうだな。特別誰が買いに行くとか決めているわけじゃないけどさーグラントリーとミスタールイスの次に早く起きるのは俺だから、俺が買いに行くことが一番多いな」

「新聞売りがいる大通りまでわざわざ行くのは大変そうだ」

「それはそうだけど、これは毎朝の楽しみでもあるからそんな面倒なことでもないな」

パントリーを出て、肩を並べて廊下を往く。ジェラードは肩先でフィリックスを小突いて愉快そうに笑った。

「お前は新聞読むか?新聞は面白いぜ。最近はすっかりロンドンも昔に比べておとなしくなったと思ったが、意外と捨てたもんじゃない。最近はほら、あんな”胸躍る”事件もあったしな」

「胸躍る事件?」

“事件”という単語を聞いてフィリックスの脳裡にあの光景が過った。ジェラードの表現にひっかかりもあったが、あからさまに動揺するのもおかしいと思い声が上擦るのを気にする。

「今月に入ってハイドパークとサウスフィールズで立て続けに起こった殺人事件だよ。またたく間に民衆の注目の的だ。なんせ殺された人間は全員胸を抉られて心臓がなくなっていたんだからな」

昂奮したように話すジェラードに反してフィリックスの脳は冷えていくのを感じた。

黒い沁み、青白い顔、飛び出した眼球、崩れ落ちた臓腑―――時が経ちすべては夢であったかのように感じていた昨日の出来事が次々と思い出される。二度も思い出したくないことであったが、瞼の裏に焼きついた光景を頭から追い出すのは容易なことではなかった。

昨日見た死体も心臓が無かった。ホワイトチャペル以前に二か所で似たようなことがあったというなら同一犯の可能性が高い。

「それに昨日の夕方にホワイトチャペルで新たに起こったらしい。四度目だ」

その言葉に返す言葉が浮かばず黙り込む。

 

碧い眼は美男の証 5

目覚めると先刻と変わらない蕭々とした部屋の景色が広がっていた。

ベッドに入って、未だ埃っぽい空気を吸った。時計が無いので時刻はわからないが、窓から見える外は真っ暗で朝ではないということがわかる。フィリックスは寝直そうかと瞼を閉じて暫くじっとしていたが、先刻見た夢の内容が甦ってきたせいで目が冴えた。一階に降りて水を飲もうかと体を起こした。体がだるく動かすのも億劫だった。

あんな夢を見たせいなのか、それとも少ししか寝ていないせいなのかは分からなかった。ベッドから下りる時にふと、テーブルに置いてあるマハラジャのゾウに気がついた。フィリックスはついそれが気になってしまったが、深く考えるのもよそうと何にも触れず素通りした。

 

灯りのついた階段を降りて、一階にまでやって来ると玄関の柱時計が一時十五分を指していることを確認した。家の中は人っ子一人いないかのように静謐としていた。グラントリーやノックスは眠っているのだろうかとも思うが、そもそもこの家に居るのかと不思議に思うほど静かだった。しかし、台所に人影が在るのを感じてフィリックスはその考えを改めた。灯りのない廊下の奥にある台所の入口に小さい影がなにやらもぞもぞと動いていた。フィリックスが不審に思いながら近づいていくと、影の主もフィリックスの足音に気づいて振り返った。其処に居たのはフィリックスよりも小柄な十歳ほどの少年だった。

「だれ?」

少年は声変わりのしていない高い声で問いかけた。恐る恐る、と言った感じで暗がりからゆっくりと歩み寄ってきた。灯りの下に晒された少年の顔は不安と驚愕が滲んでいた。

「まさか、幽霊?」

「ちがうよ、生きてるよ」

そう言われてフィリックスは咄嗟に否定をした。幽霊だと勘違いされるのはあまり気分が良くない。この家の者にそう思われるのならなおさらだった。少年はますます不思議そうに首を傾げた。

「でも、ぼくはきみのこと見たことないよ」

「昨日の夜ここに来たばかりだからね。でも泥棒でも幽霊でもないよ」

元は勝手に入ってきたので泥棒のようなものだったのだが、フィリックスは余計なことは言わないでおこうと思った。

「ほんとう?でも、ジェラはこの家には幽霊が出るって言っていたしなぁ」

ジェラ、という聞き覚えのない名前が耳に入ってきたが恐らく他の従業員のことだろうと察しがつく。ここで素性を明かさないと生きている人間だと信じてもらえなさそうだとフィリックスは気づいた。

「ぼくの名前はフィリックス。下働きとして雇ってもらうことになったんだ。いきなり来たから不思議に思うかもしれないけど、幽霊じゃないから信じてくれよ」

「フィリックス?ふーん」

少年はフィリックスをじろじろと見つめ、興味があるのかないのか分からないような返事をした。未だ幽霊だと疑っているのかもしれない。うんうんと頭を揺らすたびに少年の褐色のくせっ毛も揺れる。少年は丸い輪郭に大きな群青色の眸、小麦色の頬と愛らしく快活そうな顔立ちをしていた。本来なら子どもが起きている時間帯ではない。少年も紺色の寝間着を着ているので寝ていたか、これから寝る気があるのだろうがとても様子からはこれから眠るとは思えないほど溌溂としていた。

「それで、きみの名前は?」

「ぼくはユージーン。皆からはジーンって呼ばれてる。ぼくもれっきとしたここの従業員さ」

「へえ、きみも働いているのか」

「そうだぞ、ぼくも立派な”碧眼”だからな!しかし、きみの眸は碧くないんだな」

「うん。だから下働きなんだけどね」

「だろうな!」

それを聞いてユージーンはけらけらと愉快そうに笑う。悪意は無いのだろうがあまりに素直に毒を吐かれたものだからフィリックスは少々面喰った。子どもらしく純粋な少年なのだろうと思った。

「でもさ、ジーン。こんな時間に起きていていいのかい?」

「ほんとうは駄目だよ。でも、眠れないんだ」

「へえ、それはどうして?」

「お腹が空いたんだ」

ジーンは腕を供み、真剣な面持ちで告げた。それを見て、フィリックスはかつての自分を見ているような気分になった。泥ひばりを生業にしていた時は夜中に腹が空いても食べるものは何もなかった。毎夜空腹を我慢しながらベッドに潜り込んでいたので、フィリックスはジーンの気持ちがよく分かった。腹が空いて眠れないというのは自分たちの年頃なら仕方のないことだ。さも重大なことのように言うのも大袈裟ではない。

「台所にいたのはそれで?」

「うん。でも何にも無かったよ。たぶんセドリックがルイスに言われてぼくが見つけられないところに隠しているんだと思う」

「セドリック?ルイス?」

「セドリックはうちの店のコックのこと。ルイスはけちな兎人間のことだよ」

またしても未だ知らない従業員の名前が出てきたので訊ねると、ユージーンはつまらなさそうに眉を曲げて吐き捨てた。セドリックはともかく、ルイスという従業員のことがフィリックスは気になった。

「兎人間ってどういうこと?」

「ルイスは頭が兎なんだ」

「どういうことだよ。人間だろ」

「そうだけど、ルイスは兎人間なんだ。だけど兎みたいに可愛くはないけどね。ぼくのことすぐ怒るし、時間通りに寝ないと凄い顔するし、お腹空いて眠れないって言っても聞いてくれないし」

「寝る時間は仕方ないよ。子どもなんだし」

「ぼくはもう十二歳なのに!」

「まだ十二歳だろ」

「きみだってぼくと大して変わらないだろ?」

「ぼくは十四歳だ。十二歳と十四歳はちがう」

「二歳しか変わらないじゃないか」

「そこはまぁいいじゃないか。それにしても、そのルイスっていう人は厳しいんだね」

「くどくど言ってくるから嫌いだよ。ルイスもきっと、ぼくのことが嫌いなんだよ。顔が兎だからぜんぜん恐くないけどね」

「そうなのかなぁ」

ユージーンの言葉から、ルイスがユージーンに対して厳しくしているというのはわかったが、結局頭が兎とはどういうことなのかは分からなかった。明日にでもなれば直接会えるだろうから良いかとフィリックスはそう思うことにした。

「ルイスだけじゃないよ。サーグラントリーも、ミスターノックスも寝る時間には厳しいんだ。サーグラントリーはまだ優しいけど、ミスターノックスはそういうことにはうるさいよ」

ユージーンは指で両目を吊り上げながら言った。ノックスの真似をしているのかと思ったが、狐のような細い目は似ても似つかないなと胸の裡で笑った。そしてフィリックスは、グラントリーのことを《《サーグラントリー》》、ノックスのことを《《ミスターノックス》》と呼ばなければならないということを学んだ。

そこで二階から足音がしたのが聴こえてきた。小さな音だったがユージーンはそれを聞き逃さなかったようで途端に素っ頓狂な声を挙げた。

「あっ!もしかしてルイスかも!」

「そうなの?」

「知らないけどね。ぼくはもう戻るよ。おやすみ」

フィリックスが「おやすみ」と返すと、慌てた様子でユージーンはフィリックスの横を足早にすり抜けて階段を駆け上がっていった。先刻聴こえてきた足音ももう聴こえなくなっていて、再び家の中は静寂に包まれた。

年相応に無邪気だが不思議な少年だ。しかし彼が居ればいくらかこの店で働くのも辛くはないだろうなとフィリックスは思った。グラントリーに見つからないうちにさっさと部屋に戻ろうと、台所へ入っていきながら。

 

 

 

天井に向かって吐いた煙を見上げた。

窓から覗く外は暗く、街の灯りが弱弱しく点在している。スコットランドヤードに異動してきた時に持ち込んだ、年季の入った揺り椅子を揺籃のように動かしながらウィンザーは思案に暮れていた。長身で恰幅が良く、顔立ちのくっきりとした見目のせいか歳を重ねるごとに威圧感が増していて、若い刑事からは敬遠されることも多い。只座って考え事をしているだけでも辺りを牽制しているように見えた。こうして一服しながら揺り椅子に座って思案するのもある種の習慣となっていて、刑事課ではおなじみの光景である。

「警部。ホワイチャペルでの目撃情報が入りました」

部屋に駆け込んできた刑事によって思案は中断させられた。まだ一年目の新人刑事、ストラスは若干息を切らして顔が赤くなっていた。ストラスはウィンザーと真逆で、警官の割に細身で柔な印象を受ける見目をしている。ウィンザーは近くにあった灰皿に吸い殻を押し付けながらストラスに続けるように目配せをすると、ストラスは慌てた様子で背広のポケットから手帳を取り出した。

「今日の六時頃にホワイトチャペル通りで修道院長の女の遺体が発見される前に少年が走り去っていくところを近くに住む娼婦が目撃したようです。少年が走ってきた方向は女の遺体が見つかった路地からで、ずいぶん焦っている様子だったようです。遺体を発見した可能性が非常に高いです」

「その少年の年齢は?」

「十代前半ほどのようです。近隣の住民によると泥さらいの仕事などをして生計をたてていたようで、家族も居らず一人で暮らしていたようです」

「少年の家には行ったのか」

「はい。行ってみましたが蛻の殻でした。恐らくあれから帰っていないのかと」

それを聞いてウィンザーは椅子の背に凭れて、髭が蓄えられた顎を撫でる。ウィンザーが考え込む時に決まってやるポーズだ。

「手口といい、時間帯といい、今回も”あれ”の仕業で間違いないな」

「そうですね。心臓だけを抉り取る殺し方するなんて、なかなか無いでしょう」

最近ロンドンでは正体不明の連続殺人が起きている。一度目は三月五日にハイドパーク内で二人組の男女が殺された。二度目は三月十二日にウォンズワースのサウスフィールズで物乞いが殺された。そして三度目は今日、三月二十七日にホワイトチャペルで老修道女が殺された。時間帯はどれも日没頃で、殺害方法は刃物のような物で胸部を抉り、この一連の事件がいかに残忍であることを物語っているのが”総ての被害者に心臓が無い”ということだ。犯人は殺した人間の心臓を奪って逃げているということになる。これまで類を見たことがなく、奇妙な事件だ。一月以内の短期間で起こっているため、これらの事件は同一犯によるものだと推察されていた。

「それにしてもわからんな。三月五日、三月十二日、三月二十七日と不規則な間隔で起きている。ハイドパークからサウスフィールズは南に七マイル、サウスフィールズからは北西に九マイルも離れている。一定の範囲ならともかく、なぜこの場所を選んだのかも不可解だ」

ウィンザーが呻るように考え込むと、ストラスは自身のトラウザーの端を引っ張りながら考える素振りをした。これはストラスが考え事をする時に決まってする癖だった。

「特に意味なんてないのでは。被害者も狙っていたわけではなく無差別でしょうし。無計画な犯行でしょう」

「それにしてはずいぶん鮮やかなものだな。未だに犯人らしき人物を見かけた人間すらいないとは。手慣れているな」

「ですが、犯人に関してはこの前のサフロンヒルでの目撃情報があったでしょう」

五日ほど前にサフロンヒルのイタリア人街(リトルイタリー)で深夜、怪しい男が走り去っていくのを目撃したという情報が入ってきた。その男が走り去っていった方向の道路にはいくつか血痕が残っていたという。同日未明には街中の精肉店から卸したばかりの豚と鶏が全て盗まれたという被害が届いた。

「おい、あれは関係ない別件だろう。単なる豚泥棒によるしわざだろう」

「しかし目撃者による証言では、男が走り去った時に黒い靄のようなものが立ち込めたらしいのです。肉が腐った臭いもしたとか」

「豚や鶏を盗っていったなら臭いがするのは当然だろう。黒い靄は気のせいだ」

「男は荷物を持っているようではなかったようですよ。まさか、豚や鶏をその場で食べたわけでもないでしょう」

「単独犯による犯行だとも断定できん。複数犯で、目撃証言を作るためにわざとそのうちの一人が姿を見せたのかもしれない」

ストラスは返す言葉が見つからないのか気難しそうな顔で咨嗟した。確かにサフロンヒルでの目撃情報も不可解ではあったが、その男が一連の殺人犯と関係があると断言できるほどではない。

「明日もう一度少年の家に行くしかないな。もしかしたら事件の重大な手がかりとなるかもしれん」

「そうですね。現在も少年の行方を捜索していますが、未だ判明していないので行く必要はあるでしょう」

ウィンザーはデスクに置いているシガレットケースから葉巻を取り出す。灰の溜まった皿には何本もの煙草が吸い捨てられていた。ウィンザーはこの事件を解決するまで一体何箱煙草を消費するか考える。それと同時にある言葉が脳内に浮かぶ。かの有名な”切り裂きジャック”が初めてロンドンに現れてからすでに二十年以上経っている。この一連の事件もどこかそれに似ている。”切り裂きジャック”のように未解決のまま終わらなければいいが、なんて考えるのはあまりにも他人事のようかとウィンザーは失笑してしまった。

「警部、どうかされましたか」

それを見ていたストラスが不思議そうに訊ねてきたので、平然と笑い返した。

「なんでもないさ。それより、課長への報告は済ませてきたか」

それを聞いて今思い出したのか、焦った顔をしたストラスに早急に報告してくるよう促した。