さよならまぼろし

一次創作サイト

碧い眼は美男の証 2

 ふと歩いているとフィリックスは一軒の家に目が留まった。茶色い煉瓦の四階建ての家。隣とごく狭い隙間しかなく敷き詰められるよう建っていて、至って普通の何処にでもありそうな家だ。しかしフィリックスはどうしてかこの家のことが気になってしまった。誘われるが儘に行ってしまえば先刻と同じような目に遭うのではないかという考えも過った。さりとてその誘惑断ち切ることも出来ず甘い花蜜を啜りにいく蝶のようにふらふらと近づいた。

 

玄関の軒先にある花壇には薔薇や紫丁香花が咲いていて薫香が鼻腔を擽る。

玄関扉は木製で内は見えないが『CLOSE』と書かれたプレートがぶら下がり、扉の横には真鍮の板に『Blue Eyes』と彫られていた。此処が只の家ではなく何かの店であることが分かったが呼び鈴を鳴らして店主を呼ぶ気にもなれなかった。裏手に回れば入れるかもしれないという一縷の望みで狭間に躰を滑らせるようにして足を踏み入れた。裏手に出ると扉があった。把手に手をかけて回すと扉が開いた。そのことに驚きながらも恐る恐る音を立てないように開けて内を確認する。部屋には灯りがついているが人がいる気配は無い。空き巣に入る盗人のように――蓋しそうなのだが――これでもかというほど見回して足音を立てないように部屋へ入った。火舎に包まれた光によって白と橙の縞模様の壁が照らされ、黒檀のキャビネットの中には銀製の食器やフォークにナイフ、磁器のティーカップが収納されていた。陣地の歩哨のように辺りに睨みをきかせてキャビネットに近寄る。目につく食器すべて傷ひとつなく鏡面のように美しく磨かれている。灯りが銀食器に反射して一閃が通った。慎ましく鎮座し怪しい煌めきを放つ其れがどんな異国趣味の陶磁器よりも魅力的に見えるのだ。フィリックスは気づけば鍵の掛かっていないキャビネットの戸を開けて銀食器に手を伸ばしていた。その時フィリックスは目の前の其れに夢中で部屋に入ってきた人影に気づくことはなかった。

「何か用か」

背後から声が聴こえてフィリックスは漸く意識が銀食器から離れた。振り返るとそこには声の主である長身痩躯の男が立っていた。

「裏口もキャビネットも鍵を掛けていなかったからどうせ鼠が入ってくるだろうとは思っていたが、これはまた可愛らしい鼠だな」

男は盗人を前にしているとは思えないほど泰然としていた。フィリックスは男の姿をくまなく観察した。しかも貼り付けたような薄っぺらいものには見えない。心の底からの笑みだ。男はずいぶん若いようだが、此の店の主であることはすぐに分かった。波のように畝る焦げ茶の髪の毛は整髪料で整えられ、アイロンが当てられ皺一つない襯衣にタイと糊の利いた燕尾服に身を包んでいた。革靴は傷も汚れもなく磨かれていて全身隙がないほど立派は装いだった。男の顔には怒りや恐怖などという感情は一切なく、あろうことか穏やかな表情を浮かべていた。其の態度を見ると思わず安堵してしまいそうになるが、言葉も相好も此の場の状況には余りにも似つかわしくなく気味が悪かった。

男の容貌で尤も特筆すべきところは其の碧眼だった。只の碧眼ならそれほど珍しくもないが、灰色がかった暗青色の双眸は今まで見たことがないほど神妙なものだった。 男はフィリックスの顔を見つめて愉快そうに言う。

「君、その恰好を見るに貧民街の子だね?この家に盗みに入る理由も事情もだいたい察しがつくけれど見つかって残念だったな、というぐらいは言っておくべきかな」

「怒らないんですか?ぼくは空き巣なんだけど」

フィリックスがそう返せば男はますます愉快そうに笑った。

「怒る?これが初めてじゃないよ。君のようにうちに盗みに入る鼠は今まで何匹もいたからね。今さら怒ったりしないよ」

男の言葉にフィリックスは眉を顰めた。此の犯罪の温床でこれほど上等な食器を持っている家がキャビネットどころか裏口の扉にさえ鍵を掛けないだなんて明らかにおかしいと思った。男の言葉を聞いても真意は掴めなかった。

「ここはなにかの店?」

「どうしてそう思ったんだい」

「家の広さのわりに色んな食器があるし、そもそも玄関に<Blue Eyes>と<CLOSE>っていうプレートがあったから」

「何だ、見ていたのか」

その口ぶりに自分がまるでそんなことにも気づかないような間抜けだと思われていたような気がしてフィリックスは思い切り眉間に皺を寄せた。

フィリックスはしばらく黙考したのちに意を決して男に切り出すことにした。

「あの、ぼくをここで雇ってくれませんか?」

そう言うと男は瞠目してはじめて表情を変化させた。面白いほど目を見開かせるのでフィリックスはつい笑ってしまいそうになった。

「雇う?きみが?この店で働くということか?」

「そうです」

そう答えると、突然喉から呻り出すような、嗚咽ようなものが聴こえた。それが目の前の男から発せられているものだと気づいてフィリックスはふしぎそうな顔をした。男は俯いて肩を震わせているので表情はよく見えないがどことなく自分を嘲っているのだろうな、とぼんやり思った。揣摩憶測の域を出ないので男自身の言葉を待つしかないのだが。

「なんて面白い子どもなんだ!盗みに入った店の主に雇ってほしいと頼むなんて!きみ、なかなか肝が据わっているじゃないか」

男はこれ以上ないほど破顔して捲し立てるように言った。

「今まで盗みに入った子供は何人もいたが、僕に”雇ってくれ”だと頼んだ奴はきみが初めてだよ」

「頭がおかしいと思うかもしれませんが、さっきちょっとした事件に、巻き込まれまして。もう思い出すのも厭なので説明をするのは勘弁願えますか。ああ、それで、ぼくもう家には帰りたくないし家に帰られないなら仕事にも行けないしで、その、他の仕事がもう見つからないだろうしこれからどうしたらいいか分からなくて、ええその」

勢いで言ってしまったこともあり、どう説明したらいいか分からずまとまりのない言葉を羅列してしまう。しかし言ったことはすべて正直な心の裡であり、盗みに入ったというのは若干語弊があったが”なにかに引きつけられて”――”なにか”の正体を説明できるかは別として――この店に忍び込んだのは紛れもない事実なのであり、後がなく此の店が頼みの綱で本当に雇ってもらえるのであったら願ったりだった。フィリックスにとってこの店は、禁忌だとわかっていても手を出してしまうようなセフィロトの樹だった。

「いいだろう、ぼくはきみを気に入ったよ。きみの願いを聞き入れてやろう。雇ってあげるよ」

男は笑って受け入れた。どんな預言者の言葉よりも崇めたい、乃ちヨハネの一声だった。

「しかしきみ、この店がどういったものなのか訊かなかったがいいのかい?知らないんじゃないのか」

そう言われてフィリックスはそうだったと気づいた。雇ってもらいたいことにばかり気がとられてこの店がどういったものなのかすら知らないし、訊ねてもいなかった。フィリックスは其れを自覚して罌粟の花のように顔を赤く染めた。其の様子を見て男はけらけらと笑った。

「じゃあ説明しよう。この店の名はきみが知っての通り<Blue Eyes>と言う。フリートストリートに並んでいるから一見分かりにくいけど、非会員制の社交クラブだよ」

「えっ、ここってフリートストリートなんですか?」

フィリックスは驚いて男の言葉を遮って言った。

「そうだよ。知らなかったのかい?」

「知りませんでした。ここに来るまで気が動転してたし、その、こっちはあんまり来たことが無くて詳しくないので」

ホワイトチャペルからフリートストリートは歩くとかなりの距離があるのでこの界隈には余り縁が無かったのだ。それを聞いて男は話を続けた。

「非会員制だから階級とか年齢とか性別問わず出入り可能だ。お金さえ払ってくれるならね。社交クラブだから客同士や客と従業員の交流が主な目的だよ。男女の引き合わせも依頼されたら出来るけど、”そういった趣旨”のクラブではないから”親密な付き合い”は外部でお願い、ってところだ」

男は用意された科白を読むかのように流暢に説明していく。

「従業員の条件は、店名にもあるけれど”碧眼”の若い男子であることなんだ。だから従業員には女性はいない」

フィリックスは”碧眼”という単語に首を傾げた。フィリックスは髪も眸も胡桃色だ。どこから誰が見ても絶対に碧色ではない。おそるおそると言った様子で男に一瞥をくれると男は示指を突き立てて悠然と言った。

「従業員、というのは直接お客様と交流したり表に立つほうのことだ。君は裏方で雑用をやってもらう。つまり下男ってことさ。なんせきみは”碧眼”じゃないからね」

一瞬は驚いてしまったが、下働きをすることに特に不満や異論はなかった。雇ってもらえるなら安い給料でも多少汚くてつらい仕事でも構わないと思ったからだ。ただ、なぜ”碧眼”であることに拘るのか気になったが男は説明するつもりもないようだった。

「おっと、自己紹介がまだだったね。ぼくの名はグラントリー。知っての通りこの店のオーナーだ。きみの名前は?」

「フィリックスといいます」

「フィリックス!立派な名前だ。ますます気に入ったよ」

グラントリーと名乗った男は満足したようににっこりと笑ってフィリックスに歩み寄った。すると不意にジャケットの懐から折り畳まれた白い紙と萬年筆を取り出した。淡々とした動きについ見逃してしまいそうになったが忍ばせておいたというより”突然そこに出現”したかのように思えて息をのんだ。

「それでは契約に移ろう。ぼくは約束事が大好きなんだが、何でも書類に残しておきたくてね。口約束は性分じゃないんだ。きみは字は書けるかい?」

「書けます」

「そうか、なら良かった!契約内容は先刻口頭で説明したぶんと、これからきみを雇用するにあたって守ってもらわねければならないことがあるんだが、良いか?」

フィリックスは構わないと返事をしたが、瞬時にグラントリーが鼻と鼻がくっつきそうなほど接近して”有無を言わさず”といった様子で話し始めた。

「きみに必ず守ってもらいたいことが三つある。一つ目は、従業員たちのことを穿鑿しないこと。色んな従業員がいるけれど彼らにも知られたくないような事情はある。無理やりに聞き出そうとしたら駄目だよ。次に二つ目は、ぼくが入ってはいけないと言った部屋には入らないこと。最期に三つ目、嘘をついたり約束を破ったりしないこと。ぼくは嘘をつくのも約束を破るのもこの世で三本指に入るほど嫌いでね。特に守って欲しいんだ」

グラントリーは片手にそれぞれ示指、中指、環指の三本を立たせて凄むような形相で話した。”ノーとは言わせない”と言わんばかりだ。先刻とはあまりにも違う雰囲気で睨まれてつい萎縮してしまう。話し終えてしばらくしても動かないのでフィリックスは慌てて返事をすることにした。

「わかりました。約束守ります」

「本当かい?ありがとう!」

そう言ってグラントリーは即座に離れ、フィリックスと堅く握手を交わした。グラントリーの手はフィリックスの手よりも大きく、ごつごつと骨ばっていて、そしてとても冷たいのでなんだか妙な感覚だった。

「じゃあサインを頼む」

フィリックスは近くにあった背の高い木製テーブルの上に契約書を置いてサインすることにした。テーブルが壁に沿うように置いてあるため、前屈みになるとちょうど電燈から背を向ける状態になってしまい手元が暗くなって見えづらいのが難点だが他に台に出来そうなところが無いので仕方なかった。フィリックスは間違えないように、そして汚くならないように丁寧にゆっくりと自分の名前を記した。手元を見ながらグラントリーが感心しながら言った。

「きみ活字が書けるのかい?てっきりつづけ字かと思ったよ!」

「ぼく、元々は中流階級だったので」

「そうなのかい?それはまた大変だったね」

“大変だったね”という言葉には慰藉の意図よりも”可哀想に”、”色々あったんだな”とかいうある意味下世話で悪趣味な意図があるんだろうとふとフィリックスは考えた。

サインを終えて契約書をグラントリーに渡すとそれを閲して満足げに笑った。

「よし、これで契約完了だな。今日からきみは正式に我がクラブの仲間だよ。ようこそ、<Blue Eyes>へ。歓迎しよう」

グラントリーは、ただ不敵に笑っていた。