さよならまぼろし

一次創作サイト

斜日の陽は影を伸ばして

西の空が茜色に染まり始めたころ、ぼくはひたすら下を見つめていた。

下を見ながら歩いていると危ないとかいつも胸を張って前を向きなさいだとかよく母さんに言われるけど今はそれどころじゃない。ぼくは今、遠くの砂利道からずっとここまで一つの石を蹴り続けている。家の前がゴールだ。昨日よりも確実に距離が伸びている。いろんな障害物を躱しながら家を目指す。この遊びを思いついてからは毎日これをやっている。一人でできる遊びなんて数えるほどしかない。

もうすぐ家の前だ。ぼくは自然と石を蹴る力が強くなったのを感じていると、さっと黒い影が伸びたのをとらえた。

「よう坊、サッカーか?」

聞き慣れた声であることに気づくとぼくは意識が逸れて足が石を空ぶってしまった。足に当たらなかった石はからからとあさっての方向へと飛んでいった。

「いきなり話しかけるなよ!あとちょっとだったのに」

ぼくがそう言って顔を上げると案の定"そいつ"はちょっと困ったように、それで意地が悪そうな顔で笑っていた。

「悪い悪い。ずいぶん楽しそうなものだったから」

「本当だよ。最高記録が出せそうだったんだからな」

「そりゃお楽しみで」と眉を曲げながら軍帽を被った頭をかく"そいつ"の名前はリーアム・D・アトラリーという。ぼくよりも背が高くて体つきも逞しい。軍人だからだ。日本がポツダム宣言を受諾してからすこし後にアメリカ率いるGHQが日本へと降り立った。アメリカに続いて英国やその他の連合国勢力も英国連邦占領軍とすて日本進駐のためにやって来た。リーアムはその英国占領軍の一員で、ぼくはその一員である父さんの家族として日本で暮らしている。リーアムは陸軍大佐である父さんの部下で階級は大尉だ。元々は中尉だったけどビルマでの戦いで貢献したから昇進したらしい。ぼくはあまりリーアムのことを知らない。リーアムは自分のことを話したがらないし、なんでも軍人はたとえ家族でも任務のことを話しちゃいけないらしい。GHQが日本で色んなことをしているのは知っている。市民による草野球大会だってムコウジマ(空襲の被害を免れた街らしい)とかいうところで行われた祭りだって、あとメーデー?とかいう集団運動の鎮圧だとかGHQが及ぼしている影響は大きい。公道の交通整理だってそうだ。それでもリーアムが具体的に何の仕事をしているのかぼくは知らない。

「相変わらず友達いないんだな」

リーアムはぼくを見てにやにや笑いながら言う。

「日本人でもアメリカ人でも英国人でも何でもいいから作ればいいじゃないか」

「そんな簡単にできるわけないじゃないか。あと日本人はいやだ」

「どうして?」

「ぼくをじろじろ見てくるんだ」

さっき石を蹴っているとき日本人の親子が怪訝そうにぼくを見ていたのを思い出してぼくは眉をしかめた。ぼくが英国人だからなのか日本人、とくに同年代くらいの子どもは決まってぼくをじろじろ見てくる。あんなに穴があきそうなほど見られたら流石に気分のいいものじゃない。

そう言うとリーアムは声をあげて笑った。何がおかしいのかぼくには全くわからなかったのでぼくはますます眉間にしわを寄せた。

「すまんすまん。そんないじけるなよ。そんな寂しい思いしている坊っちゃんに良い物持ってきてやったから、これで機嫌直せよ」

いいもの?さっきまで不機嫌だった気分もリーアムの"良い物"という言葉ですっかり消えてしまった。単純だとは思うけれどそっちの方が気になるのだ。

リーアムは提げていた紙袋から大きくて丸い板を取り出した。

「これが何かわかるか?星座早見盤だ」

そう言われて星座早見盤、というものを受け取った。大きさのわりに重くはなかった。方角や日付が縁に沿って記されていて、その中には獅子だとか乙女だとか海蛇だとか星座の名前がたくさんあった。

「これどうやって使うの?」

「見たい方角と日付を合わるんだよ。そうしたらそこで見られる星座が出されて何があるのか分かるってこと」

こんな物があるのか。薄い板だけど意外と便利そうだ。

「でもぼく星とかよくわからないよ」

「よく知らない人間のための物だろう。いつも下ばっかり向いてる坊もたまには星を見上げたほうがいいんじゃないのか」

「リーアムは星とかわかる?」

「俺はこう見えてむかし天文学少年だったからな。星とか宇宙とか詳しいんだぜ」

天文学少年ってなんだろう、と思いながらもリーアムはいかにも自信げだったので本当のことなのだろう。ぼくはあんまり星とか宇宙とか興味ないけれど見てみたら意外と面白いものなのかもしれない。

「じゃあ一緒に見に行こうよ、星」

「熱烈なお誘いだなぁ」

気軽に言ったようだけどけっこう勇気を出して言ってみた。リーアムは何だかんだ言って面倒見がいいし優しいけれど、あんまりこういう誘いに乗ってくれるような印象がふしぎとなかった。ぼくは思っていた以上にリーアムのことを知らない。

「そうだな。じゃあ今度天気がいい日の夜に行くか」

リーアムはそう言ってへらっと笑う。いつものにやにや意地悪そうな笑顔とは違った雰囲気の笑顔だ。それを見たらぼくもなんだか嬉しくなってつられて笑ってしまった。

「大佐と夫人に許可とらないとな。あとトレーシーに何か言われるだろうしな」

リーアムは引きつった笑いで頬をかきながら言う。トレーシーは父さんの秘書だ。元々軍人志望だったけど身長が低すぎたせいでなれなかったから秘書になったらしい。秘書だけあって生真面目でリーアムだけじゃなくぼくにも厳しい。ぼくもリーアムもトレーシーが実は少し苦手だったりする。

「父さんを説得できたらたぶんあんまり言ってこないよ」

リーアムは「そうだといいんだけどなぁ」と笑った。今度からは空を見上げることも好きになれるかもしれない。そうなることを願いながらぼくは夕陽に染まる地面を見下ろした。そこには、黒い影がふたりぶん伸びているのであった。